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生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

日野皓正氏と中学生ドラマーについて 中学生ドラマーの父親 その他

2017-09-04 23:22:00 | 思うこと

 さて、昨日はスマホが使えなくなったことでパニックになっておりましたが、スマホなしの生活を一週間過ごしてみようと覚悟しました。ところが、私が出社した後で家族がドコモのスマホ充電用の専用充電器に繋いで見たところ、充電が出来ました。リチウムイオン電池の充電は非常にデリケートな様で、純正充電器では充電できるということもあるようですね。これで明日はスマホを使えそうですが、いずれにせよバッテリーがかなりヘタってきているのは確かなので、バッテリーの交換なり機種変更なり抜本的な対策が必要な様です。

 と言うことで、音楽に関するコンテンツに関してですが、最初に日野皓正氏と中学生ドラマーのその後について記しておきたいと思います。中学生ドラマーの父親が記者会見されたのでしょうか。当日の演奏が終わった後で、中学生ドラマー少年とその父親が、日野皓正氏の楽屋を訪ねて謝罪してその場で少年と日野皓正氏とが握手して和解して、日野皓正氏は何のわだかまりもないと表明しており、中学生ドラマー君も一生ジャズドラムを続けるつもりと言うことを表明しているようですね。

 まず、暴力はいけません。絶対悪として暴力を否定することは間違っていないと思います。ところが教育の場という特殊な環境においては少し前まで”愛のムチ”と言うことで暴力を容認する雰囲気があったことは事実だと思います。しかしことさら”愛のムチ”を強調する輩ほど、実際は自身の欲求不満のはけ口として指導される側に安易な暴力をふるっていたという事実が少なからずあったと思います。一般論として決してあってはならない暴力とは、この様な暴力をふるえる立場にあるものが、いかなる理由があったとしても正当化できない自身の欲求不満のはけ口としてふるう暴力は絶対に容認してはいけないということです。数十年前には言葉の意味する通りの純粋な”愛のムチ”が確かにあったと思います。その頃は”愛のムチ”を隠れ蓑にした自分の欲求不満のはけ口としての暴力と言う事象は殆どなかったと思います。ところが時代の流れてとともに、”愛のムチ”を言い訳にした自分自身の欲求不満のはけ口としての暴力が増えて来た事実があると思います。

 その様な変遷は、暴力を受ける側からすれば簡単に区別できます。口先で”愛のムチ”等と逃げ口上を打って、実際には自らの欲求不満のはけ口として暴力を振るわれる身には、暴力をふるう側の勝手な”愛のムチという論理は簡単に見透かされてしまいます。まさにこの意味の置いて教育現場での暴力は一般的に絶対悪として排除されるべきだと思います。しかし、それでも、特別な信頼関係に裏打ちされた師弟関係にあっては、上述したような暴力をふるう側の欲求不満のはけ口としての暴力ではない、例えばそんな安易な考え方で世界の最高峰に辿り着けると思っているのか?と言う様な、指導される側にとっては全く思いもよらないような、それでも指導する側からすればそこまで見据えて指導しているという責任感に裏打ちされての止むに止まれぬ場合もあるのではないか、と思うのです。

 この様なことを表明すると、暴力容認主義との批判を受けそうですが、世界を構成する9割の常識で判断されるべき人々の間の関係と、その様な大多数の人たちとは異なって、指導する側される側に特別な関係があるごく少数の選ばれた人たちの間での出来事を、一般論で批判することが適当なのかという疑問を感じます。

 選ばれた極々一部の人たちの世界とは異なる、世の中の太宗を占める凡庸な人間関係の中で起こりがちな、指導する側の勝手な欲求不満を力関係の上で反論できない弱い立場への暴力は、如何に”愛のムチ”と言う様な虚飾で飾ろうとも、絶対に許してはならないと思います。しかし、その様な大多数の凡庸な人々ではなく、選ばれた才能を有するタレント間での、世界のあるいは人類史の到達点を更に押し上げることを目指している超エリートの間であっては、時には理想とするべき指導法から多少逸脱することがあっても、凡庸な、あるいは”愛のムチ”という看板で自らの卑劣な行為を隠蔽しようとする行為とは、峻別して議論するべきではないでしょうか。

 幸か不幸か、北朝鮮のミサイル発射や核実験の報道をはじめとする政治や社会現象での報道事項が多くあって、日野輝問題はあまり注目されていないようですが、ことさら情緒的・印象的に扇動する様な報道ばかりではなく、日野輝氏に対する理解を表明する様な発信もあるようです。一般論としては暴力は絶対悪です。しかし人類史の中で暴力が存在しなかった時代は一秒たりともなかったと思います。日野輝氏への批判を行うことも否定されるべきではないと思っています。しかし、日野輝氏へ批判する人に対しては、貴方は日野輝氏以上に中学生ドラマー君と音楽とに真剣に向き合っていると言えるのか?と自問して頂きたいと思います。

 最後に極めて姑息な手段だと思っていますが、日野輝氏の中学生ドラマーに対する本番での向き合い方について、暴力ではない形での対応法があっただろう、という指摘です。この指摘こそが教科書的には理想的な回答だと思います。しかし、日野輝氏が当日本番のステージの上で取った行動は、毎秒毎にジャズと言うスリリングな音楽が進行・展開している刹那の中で、止むに止まれず選択した結果だったのではないかと思います。

 現在の私の筆力ではこれ以上のことは表現できません。一般論としては暴力全体に対して否定したいとは思います。それでも今回の日野輝問題については、暴力に訴えたというその一点のみで、他の諸々の背景は捨象して日野皓正氏を批判するのは的外れではないか?少なくとも100%的外れではないにしても、100%日野皓正氏の責任を追及するだけで良いのか?と思う訳です。ということで、どうやら私も100%の絶対的暴力否定主義者ではないということかも知れません。


一週間ほど、昔の生活スタイルに戻ります。

2017-09-03 22:43:07 | 思うこと

 一か月程前にも、スマホがいきなりバッテリーの警告が出て、さっそく充電しようとしたものの充電できないことがあり、慌ててドコモショップに駆け込んだことがあります。その時は店舗で見てもらったところ(何かエンジニアの方が弄った可能性はあろうかと思いますが)一応充電出来ますということで自宅に持ち帰り、充電して普通に使える様になりました。しかしその後週に一回ぐらい、昼過ぎまでは60%程度の充電状況でありながら、夕方にはバッテリー警告が出るようなことがあり、予備バッテリーを持ち歩くことで緊急事態を解消して何とか使えていました。ところが昨夜から再び全く充電できない可能性になり、電源を入れようとしても立ち上がりの最初の段階で電源が落ちて二進も三進もいかなくなりました。

 今日は午前中に予定があったため、帰宅して一休みして夕方になってドコモショップに行きました。店頭で修理の整理券をもらった段階で4時間待ちと言われましたが、早くなることもあるかと思い、なおかつ店舗にコミック版の「のだめカンタービレ」が置いてあったのでこれでも読んで時間をつぶすかと思いました。しかし3時間を過ぎた辺りからお腹も減ってきて、流石に夜の9時10時まで何も食べずに待つのも辛いとおもい、”待ちきれないので帰ります”と、整理券をスタッフに渡して帰宅する選択肢を選びました。

 月~金は仕事があるので来れません。仕方がないので来週の土曜日に店舗が開く30分前ぐらいから並ぶ覚悟で来ることにしましょう。それまでの一週間、スマホなしの生活を選ぶことにしました。非常に不安ではあります。しかし私の場合、スマホユーザーの中では例外的にスマホを使うよりも圧倒的にパソコンを使うタイプの人間なので、もしかしてスマホなしの1週間が致命的に不便でなかったら、いっそのことスマホありの生活を捨ててみようかと言う思いもあります。私の場合アンドロイドのアプリはそこそこ使っていますが、ネットは余程のことがない限りパソコンでアクセスしていて、スマホでネットに接続するのはアプリをダウンロードするぐらいですね。それもパソコンで欲しいアプリを決めてからダウンロードのみスマホをネットに接続するというぐらいの頻度です。

 ということで、実はブログに書きたいテーマが珍しくいくつもあるのですが、今日はドコモショップでの待ち時間につかれたので、スマホなし生活に突入することを紹介して終わります。


歌詞を忘れない歌、思い出せない歌

2017-09-01 23:26:55 | 思うこと

 合唱にしろキャストにしろ、オペラの舞台に立つ以上は歌詞は当然覚えなければなりません。覚えたつもりでもほんの些細なことがきっかけであっという間に頭が真っ白になり出てこなくなります。その辛さが耐え難く声楽から離れて器楽(ヴァイオリンとフルート)に方向転換していました。ところでヴァイオリンにしろフルートにしろ歌曲のメロディーを独奏曲にしている場合が結構あります。例えばフォーレの「夢のあとに」とかマスネーの「エレジー」等。で、最近ではヴァイオリンやフルートの独奏曲を集めたCD等を聞く機会も増えているのですが、「夢のあとに」、「エレジー」、それからプーランクの「C(セー)」等を聞くと、自分でも演奏したくなるのですが、現在の私の演奏能力からするとどう考えても歌うのが最も適しています。フルートであれば耳の肥えていない聞き手に対してはそこそこ誤魔化しながら吹奏出来ると思いますが、耳の肥えた聞き手や自らフルートを吹奏する聞き手の耳には様々な粗さ・未熟さが届いてしまうでしょう。ヴァイオリンともなればまだまだ演奏不可能なレベルです。

 で、「夢のあとに」と「エレジー」、「C」は声楽から離れようと思う前に、いつでも歌えるようにと必死になって歌詞を覚えていました。最も良く勉強したのが「C」で次が「夢のあとに」。この2曲はかつてはきちんと暗譜で歌えていました。「エレジー」についてはそこまで練習を重ねることは出来ていませんでした。

 さて今、これらの曲の歌詞を暗譜で歌えるかと言うと、「C」はほぼ覚えています。「夢のあとに」は8割ぐらいは覚えていますが、フレーズの頭で出てこない歌詞もありますね。「エレジー」については2~3割しか思い出せません。一般論としては若い時に覚えたことはいつまでも忘れない(あるいは思い出せる)が、歳をとってから覚えたことはすぐ忘れる、と言われていると思います。私の場合「C」も「夢のあとに」も「エレジー」も、覚えた、あるいは覚えようとした時期は殆ど同じです。いずれも本番で歌ったことはなく、いずれもいつ本番を迎えても良い様に自分で準備していた曲です。その中で未だに「C」はほぼ思い出せるのは、やはり準備段階でも最も時間を多くかけて歌い込んだのが「C」ですね。これは間違いありません。また「夢のあとに」と「エレジー」については、もっとも準備に時間とエネルギーを割けなかったのが「エレジー」です。ということで50歳を大きく越えてからでも、十分な準備が出来れば記憶の中に歌詞をしっかりと植え付けることが出来るということを実感しています。単純に言葉を繰り返すということだけではなく、日本語訳を確認しながら歌いこんだり、弦五の歌詞を歌いながら日本語の歌詞の内容を具体的な映像イメージとして思い浮かべる等の、質的な内容も「C」が一番深く追い込んでいました。

 と言うよりも、この3曲を歌っていると、どうしても「C」が最も名曲として私の心に訴えかけてくるものがあったんですね。だからこそどうしても「C」にかける時間・エネルギーも多くなり、掘り下げる深さも深くならざるを得なくなったと思います。もちろん「夢のあとに」も「エレジー」も間違いなく名曲だと思います。それでも「夢のあとに」は少し抽象的過ぎて聞き手が想像力をたくましくする自由度をとっておかなければならないし、「夢のあとに」にせよ「エレジー」にしてもそこに描かれている世界は「C」よりも抽象的、一般的で普遍性があると思いますが、逆に具体的な主張においては弱いと思います。「C」については明らかに戦争に対する反対のメッセージが込められた歌で、その意味では具体的な歌であるがために、時代を反映した作品だとは思います。しかしその作品としての「C」のもつ具体性、メッセージこそが、作品に時代を超えた普遍性を与えている様に感じます。言葉にすると隔靴掻痒なのですが、少なくとも歌詞の意味を最低限理解した上でこれらの3つの歌曲を歌うと、「C」こそが群を抜いた名曲、人類の偉大な文化遺産と呼ぶに値する作品だと思います。

 その様に、私の心の琴線に触れるものを内在させているからこそ、特に覚えようとしなくても忘れられない歌になっている様に思います。とは言え、「夢のあとに」も「エレジー」も間違いなく名曲です。さらにレイナルド・アーンの「クロリス」とリリ・ブーランジェ、デュパルクの幾つかの声楽作品は歌ってみたいですね。そろそろ声楽も再開したくなって来ている自分がいます。


日野皓正氏と中学生ドラマー

2017-08-31 23:14:21 | 思うこと

 昨日からネット上で報道されていましたが、今日になると大手新聞でも報道されるようになったみたいですね。日本のジャズ界の大御所というよりも、”世界の日野皓”もいつしか御年74歳になっておられたのですね。それが世田谷区で4か月指導してきた中学生達の演奏の本番で、ドラムソロをいつまでも止めなかったことに腹を立てた日野皓氏が舞台上に上がって少年からドラムスティックを取り上げたものの、なお少年は素手でドラムを叩き続けたということで、日野皓氏が少年に往復ビンタをしたとかしないとか。後援していた世田谷区教育委員会も日野皓氏の指導に行き過ぎがあったとの見解を出している様です。

 私が最も気になったのは、行き過ぎた指導を受けた少年がどの様に受け止めているのかと言うことですが、今日になっての報道の一部では、当該少年も「叱られて当然だった、今後も日野皓正氏の指導を受けたい」という主旨の発言をしているようですね。このことが分かって先ずはほっとしました。日野皓正氏の人となりを直接知る立場にはいませんが、1980年代ごろからの氏の音楽ステージでの活躍する印象から、音楽に対する強い情熱・ひたむきさといようなイメージを強く感じていました。今回の報道でもその様な人柄を肯定する様な情報が多いようです。

 特に日野皓氏の演奏スタイルではメンバーがソロを受け渡したりするコミュニケーションが重要な役割を果たしています。おそらくは4か月間という練習期間を通じて、日野皓氏も中学生達にその思いを伝えて来たことは間違いないと勝手に想像してます。だからこそその中学生自身も反省するところがあって今後も日野皓氏の指導を受けたいと言っているのだろうと、これまた私は勝手に想像しています。

 往復ビンタをしたのかどうか私は事実を知りません(各種報道では往復ビンタをしたように見える映像があるということだけです)。本番の前に4か月間の準備期間があったのであれば、感受性の豊かな中学生にとっては指導してくれる相手が世界的にビッグネームであろうがなかろうが、相手が本気になって向き合ってくれているかそうでないかはお見通しだと思います。準備期間中に日野皓氏が中学生たちに向かってジャズプレーヤー同士でのコミュニケーション・譲り合いが大切だということを十分に伝えていなかったとすれば、本番でいきなりスティックを取り上げられ往復ビンタをされたかもしれない中学生が素直に反省して今後も指導を受けたい、とは言わないだろうなと思ったわけです。ところがその中学生は反省するところがあった様に受け止めることが出来ました。だからと言って往復ビンタが実際に行われたとすればそれを肯定することは出来ません。スティックを取り上げても素手でドラムを叩き続けたのであれば襟首をつかんで少年をドラムセットから引き離した方が良かったと思います。少年をドラムセットから引き離せる客観的な条件がなくて止むを得ず往復ビンタ(と見える様な何らかの行為)をしたとしても、やり過ぎの批判は免れないですよね。

 日野皓氏はまだ本件についてコメントは出していないようですが、少年とともに会見して、少年は叱られて当然だと思うという心証を話して、日野皓氏は指導の思いに正当性が全くなかったとは思わないもののその手段には行き過ぎがあったと反省して、両人が今後とも指導し指導される関係を続けて行きたい、と表明されるのが最も良い対応ではないかと思うのですが、如何でしょうか?


久しぶりに JASRAC の話題がニュースになっていますね。

2017-08-18 22:54:46 | 思うこと

 人気バンド爆風スランプのドラマー、ファンキー末吉氏がライブハウスでの演奏に基づく著作権料が支払われていないということで、著作権等管理事業法に基づく業務改善命令を出すよう文化庁に求めた、との報道がネット上に見られました。権利者側がJASRACに業務改善命令を出すように文化庁に求めることは異例とのことですが、JASRC側はサンプル調査を行っていて当該サンプル調査には一定の科学的根拠があるとの反論をしているそうです。

 業を営む側からすれば殆ど利益につながらない弱小対象者に対しては手間暇は掛けたくないため、どうしても大口対象者を主な対象に様々な仕組みを作って、少数派に対してもその仕組みを機械的に適用して多少の不利益が出ても少数派にその不利益を無理やり飲ませる、ということが往々にして行われてきたと思います。正にファンキー末吉氏の異議申し立ても、ライブハウスでの公演と言う少数派のイベントに対しては殆ど頬かむりして、サンプル調査を行っているから合理性はあるというJASRAC側の強弁をごり押ししようという姿勢が透けて見えます。

 ライブハウスの公演もそうですが、JASRACの著作権料の計算方法は公演のチケットの実売数ではなく公演会場の収容人数で計算しているというところにも問題があると思います。要するに客席ががらがらであったとしてもチケット完売を前提として著作権料を支払えとJASRACは強要している訳です。日本国内で行われている様々な音楽会、コンサートの中でチケット完売という公演はどの程度あるのでしょうか?有名どころの演奏会であればチケット完売と言う公演もあるでしょうが、まだまだ全国的に名の通っていない演奏家の公演であれば如何にチケットを販売するかに公演関係者がどれほどの努力を払っているか、それでも完売には程遠い売れ行きで赤字覚悟で公演している演奏者、団体がどれ程いるか、JASRAC関係者には一度冷静に思いを致して欲しいと思います。本来であればチケットの総売り上げ金額から公演に要した経費を差し引いて利益が残った場合に当該利益に対して何%との著作権料を徴収するというのが筋ではないでしょうか? 公演が赤字であれば著作権料は支払う必要がないという制度こそ、音楽文化を振興させる立場だと思います。JASRACの使命は音楽著作権者の利益を擁護する活動を通じて音楽文化の振興を図ることにある筈なので、現在のJASRACの姿勢は日本の音楽文化の振興を図るどころが、日本の音楽文化の振興を妨害しているという批判にもそれなりの根拠がある様に思います。現状は極々一部の作曲すればヒット間違いなし、作詞を提供すればヒット間違いなし、公演すればチケット完売間違いなしと言うトップスターのみを振興する姿勢と言わざるを得ません。その様なごく一部の人たちだけで日本の音楽文化が成り立っている訳ではありません。赤字を自ら負担してでも講演したい、食べられなくても自分の作品を発表したい、その様な現在は無名でも将来の大スターになりえる可能性を持った多数の人たちをこそ応援することが日本の音楽文化を振興することだと思います。

 JASRACの猛省を促したいです。