行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国の軍事パレードで得をする人は・・・

2015-08-31 19:03:15 | 日記
北京市内は8月20日以降、ナンバープレートの偶数、奇数による車両通行規制で街中の渋滞がめっきり減った。建設用車両の通行も禁止されたので、ほこりをまき散らす建設現場の工事もストップした。その分地下鉄は、手荷物の安全検査が強化されたことも重なり、通勤帰宅時のラッシュは激化した。「呼吸ができない」と叫ぶ女性の声も聞かれる。通勤族には迷惑な話だが、連日、青空に恵まれたことは朗報だ。車の排ガスが減って青空が見える相関関係は、昨年11月のAPECでは「PECブルー」と呼ばれた。今回は言うまでもなく「閲兵藍(軍事パレード・ブルー)」だ。

注目されるのが、さる29日に決定した特赦だ。毛沢東時代以来、40年ぶりのことで、習近平国家主席が同日、特赦令にサインをして発効した。2008年の北京五輪、2009年の建国60周年でも特赦議論が起きたが見送られている。いずれも胡錦濤時代である。

毛沢東を崇拝する習近平氏は、やることなすことがすべて毛沢東スタイルだ。権力基盤を固めた自信もあるのだろう。強いイメージだけでなく、仁政を敷く有徳の指導者も演出しているのだ。

特赦の対象は、①抗日戦争か国共内戦した者②建国後、国家主権や安全、領土保全を守る作戦に参加した者(収賄や殺人などは対象外)③満75歳以上と身体障害者④犯行時18歳未満で3年以下の懲役または残余刑期が1年以下の者(殺人、強姦などを除く)の四つのケースだ。

①②はほんとんど該当者がいないと思われる。主な対象は④の若者たちで、最高人民法院も未成年者が多くを占めるとコメントしている。特赦は国家の恩恵を示すことによって、政権への求心力を高めることに狙いがある。今回は抗日戦争勝利70周年記念イベントに花を添える効果も含まれる。①の対象者を設けているのは、記念イベントを盛り上げる象徴的な意味が込められているのだろう。

中国での特赦は1959年から75年の間、計7回行われている。いずれも共産党政権によって戦犯とされた国民党軍や旧満洲国関係者が主な対象だ。清朝最後の皇帝で満洲国皇帝の溥儀も第1回目に特赦され、全国人民政治協商会議の委員となっている。

軍事パレードで強い指導者を演出し、特赦で人権に配慮した善政をアピールする。見事なシナリオだ。もちろん恩恵を被る特赦の対象者は得をするが、間違いなく一番得をするは習近平氏自身だろう。このところ天津尾大爆発事故、上海株の暴落と難題が相次いだ。反腐敗の長期化で行政が停滞し、副作用も際立ってきた。人気に陰りが差してきた習近平政権も、この記念イベントで支持率は一時的にせよ、5ポイントアップするだろう。

泊まっていた北京中心部のホテルに昨日、入口の安全検査セットが用意された。どういう意味があるのかわからないが、軍事パレードからはるか数キロ離れたホテルでも、金網の柵が設けられた。忘れていた。一大イベントでの安全対策は、関連業者にとって最大の稼ぎ時でもある。膨大な国家予算がつぎ込まれる治安関連分野はビジネスチャンスがあふれている。しかも国家全委員会のトップは習近平氏である。食いっぱぐれることはない。

北京から高速鉄道に乗って上海に着いた。すんなりホテルにチェックインし、政治と縁遠い街に来たことを実感した。共産党もこの町で生まれたはずだが、北に定住してから初心を忘れてしまったように思える。この点は習近平氏と共感できるのではないか。

「戦争記念」と「勝利記念」の違いが軍事パレードを理解する鍵

2015-08-29 16:38:35 | 昔のコラム(2015年10月~15年5月
先日、中国共産党の幹部から携帯電話の微信(中国式LINE)で、「日本の庶民は9・3記念活動のことをどう思っているのか」と聞かれた。気心の知れた友人なので、彼はいつも本音の話を求めてくる。私はこう答えた。

「一般庶民の多くは、中国の閲兵式(軍事パレード)にそんな関心がない。直接聞いてみれば、ある者は好奇心を持つだろうし、ある者は怖がるだろうし、ある者は批判的な態度をとるだろう。ただはっきり言えるのは、賛同する人はだれもいねいということだ」

すると彼は言った。

「あなたの言ってるのは閲兵式ですよね。9・3記念活動ではないですよね?」

9・3記念活動とは9月3日の抗日戦争勝利記念日に行われる一連の記念行事を指している。国家指導者の演説のほか、各地で学生を動員した集会や展示会などが行われる。私はハッとした。軍事パレードのことばかり論じているので、つい9・3記念活動イコール軍事パレードだと錯覚していた。軍事パレードは戦争記念行事の重要部分ではあっても、一部分でしかない。

9・3記念日は、日本が米艦船ミズーリ号で降伏文書にサインしたのは1945年9月2日で、その翌日、祝賀記念をしたことが由来だ。近代以来、列強の侵略を受けた中国にとって、独立を果たした輝かしい日だというのである。だから単なる戦争記念ではなく、戦争勝利記念である。「勝利」に重きが置かれている。

この点、勝ち負けとは切り離して「終戦記念」を語ることに慣れている日本人は注意が必要だ。中国人にとって戦争は抽象的な概念ではなく、殺すか殺されるかの戦いである。弱ければ負ける。だから強くなければならない。抗日戦争ドラマや記念館を通じ、幼少からそういう教育を受けている。

抗日戦争終了後、中国は国共内戦が始まり、再び国土は戦火にまみえる。1949年10月1日、共産党が勝利し、中華人民共和国の建国を宣言する。10月1日は建国記念日にあたる国慶節だ。共産党の勝利ではあるが、当時はその他の政党も参加していた連合政府であり、国民党も中国人民に含まれるので、「建国」に重きが置かれた。だが実際、共産党政権の正統性に直接かかわる、党にとっては最も重要な日である。共産党勝利記念日である。旧正月の春節と並ぶ国民の祝日だが、前者は風俗習慣の伝統、後者は政治的な由来を持つ。これまで軍事パレードは国慶節の節目に行われてきたが、共産党の勝利を祝う意味では当然だろう。

今年は初めて、抗日戦争記念日に行われることになった。戦争に勝利したのは主として国民党であり、日本の降伏を受け入れ、戦勝国として戦後処理に参画したのは国民党の蒋介石だった。共産党政権が抗日戦争勝利記念日をどう祝うかは、非常にデリケートな政治判断が加わる。「中国の夢」を掲げる習近平総書記はそのデリケートさを一気に取り払い、中華民族の勝利として祝おうとしている。それは反ファシズムという意味で、世界と共有できる普遍的な意義がある、というのが彼の発想だ。

こうした背景が十分に説明されていないので、いろいろな誤解が生じているように思う。

説明が長くなったが、友人の質問は実は非常に重要だ。

「あなたの言ってるのは閲兵式ですよね。9・3記念活動ではないですよね?」

中国人にとって9・3は戦争「勝利」記念である。だから日本のメディアにしばしば登場する、「反日的」という言い方は当たっていない。負けたのであれば反日といえるかも知れないが、勝ったのだから反日にならない。抗日戦争勝利のアピールが反日という論理は、私には理解できない。だが私の疑問は、国民党軍の勝利を共産党軍が祝うことの違和感である。習近平のようにあっさり割り切ることはできない。

戦争記念行事が過去の反省に立った平和の希求にあることは言うまでもない。中国政府も抗日戦争勝利70年周年記念式典に関して、同じ立場を表明し続けている。だが、軍事パレードが加わっていることによって、平和のメッセージがかすんでしまった。私は微信で友人に「戦争記念と軍事パレードの理念は対立する。今年の戦勝記念は外から見て非常に分かりにくいものとなってしまった」と答えた。私がうっかり誤って答えてしまったのもそのためだ。

一連の行事で浮かび上がるのは「勝利」でしかない。あくまで国内向けの政治メッセージにとどまる。いつまでも被害者感情にとらわれていてはいけない。大国になった以上、堂々と戦勝国のお祝いをしよう。国民党でも共産党でもいい。中国人のお祝いじゃないか。習近平はそう言っているように思える。


潘基文(パンギムン)国連事務総長が軍事パレードに参加することについて、日本の国連代表部が国連事務局に対し、「いたずらに過去に焦点を当てる行事に対し、国連は中立的な姿勢で臨んでもらいたい」と懸念を伝えた。読売新聞によると、外務省幹部は潘氏の対応について、「天安門事件が起きた場所で軍事パレードを観覧するのであれば、判断に疑問符をつけざるを得ない。自由や人権といった国連の精神を体現しているのか、国際社会が非常に懸念するのではないか」と不快感をしたという。

天安門事件が起きた場所という言い方が気になった。周恩来の追悼も、胡耀邦の追悼も、みなここで行われた。天安門は世界の観光客が集まる一大観光スポットでもある。その場所がいけないという論法はあまりにも稚拙だ。いけないのは、戦争記念日の本来の趣旨と実際行われることの落差ではないのか。中国の友人とチャットをしながら、そんなことを考えた。

北京に向かう飛行機の中でこの文章を書いた。北京は思ったより暑い。あと数日後、もっと熱い日がやってくる。




吉岡桂子・朝日編集委員に感謝します!

2015-08-25 15:19:30 | 日記
各種原稿の締め切りが迫り、徹夜が続いている。うっかりしていて肝心なことを忘れ、大きく礼を失してしまった。

25日(日)の朝日新聞書評欄に拙著『上海36人圧死事件はなぜ起きたのか』が取り上げられた。筆者は同紙書評委員でもある吉岡桂子・編集委員である。彼女とは北京で任期が重なっているが、直接の連絡はほとんどなく、人を介して近況を聞くという関係だ。今回も本を謹呈したわけでもなく、特別な依頼をしたわけでもないが、取り上げていただいたことに深く感謝申し上げたい。

吉岡さん、ありがとうございました!

しかも、短い文章の中で過不足なく、的確に内容がまとめてあり、大いに感心した次第である。「まばゆさゆえに影が濃い」との表現も、彼女ならではのものだろう。上海だけでなく、中国全体にあてはまる形容ではないだろいうか。

簡単ながら御例まで。以下、サイトを紹介させていただきます。

(http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015082300012.html)

惨事から見える累積する矛盾

 上海の観光名所・外灘(バンド)で新しい年を迎えようと集まった群衆が押し合いとなって転倒し、36人が圧死、49人が負傷した。発生時間は2014年12月31日午後11時35分——。
 今年元日に世界をかけめぐった惨事の記憶は、多くの人にとって中国で続く別の事件で上書きされているかもしれない。だが、著者は立ち止まり、この事件を万華鏡ののぞき穴にして、隣国に累積する矛盾を見つめ、描き出す。
 カウントダウンの映像ショーが中止されていたはずの現場に、31万人もつめかけたのはなぜか。犠牲者名簿に記された死者たちの隠された素顔に迫りながら、格差や情報統制、日本との関係、そして個人の幸せより国家の強さを重んじる習近平(シーチンピン)体制のもろさを浮かび上がらせる。天津の爆発事故とも共通する構図だ。
 新聞記者として今春まで約10年、中国に駐在していた著者の街とそこに暮らす人々に対する愛着がにじむ。まばゆさゆえに影が濃い、21世紀の上海の物語としても読める。
    ◇
 文芸春秋・1620円

(お詫びと訂正)早く届きすぎた原稿・・・それは吉兆か?異変か?

2015-08-23 11:39:39 | 日記
(お詫びと訂正)
昨日、紹介した『炎黄春秋』の記事「万里的政治担当」は私の誤解で、まだ発売されていない9月号掲載予定のものだった。右下に小さく「2015年第9期」と書かれていた。本日、8月号が自宅に届き、掲載されていなかったので不思議に思い、間違いに気が付いた。同記事は携帯のウイーチャットで送られてきたものだ。万里の葬儀から間もなく、ちょうどよいタイミングだと思ったのですっかり発行されたものと思い込んでしまった。情報化社会の落とし穴にすっぽりはまってしまった。記者の原点である、現物にあたって確認する作業を怠ったことは大いに反省したい。深くお詫びし、訂正させて頂きたい。書いたことはそのまま歴史なので、昨日分の文章はあえて修正しない。

8月号に記事が見つからなかった際、ふとボツ原稿をあえてネットで流したのではないか、との疑念も頭をよぎったが杞憂であった。8月号の巻頭記事も、江平・元中国政法大学学長らが憲政について座談会を開いた内容で、知識人の良心が健在である。次号も予定通り万里追悼記事が出るよう願っている。発行前に記事が流れたことは、管理の甘さというよりは、事前広告だと受け止めたい。規制当局に対する事前のけん制との見方もできなくはないが、それは『炎黄春秋』の作風に合わないので、排除すべきだ。

8月号で注目されるのは小平が1980年8月18日、党中央政治局拡大会議で行った「党と国家の指導制度改革」と題する講演を再録し、同誌編集顧問の李鋭氏(元党中央組織部副部長)の解説を掲載したことだ。李氏は98歳で、毛沢東の秘書をしていたことで知られる。原籍も同郷の湖南省だ。同誌を支える長老顧問3人のうちの1人である。

小平の同講演は、ちょうどポーランドの労組「連帯」が大規模ストライキを決行した1か月後に行われている。今年は35年の節目を迎える。権力の集中や党と政務の一体化、長老支配など党が抱える封建体質の弊害を指摘し、「経済で資本主義国に追いつくためには、政治上も資本主義国の民主よりより高度で、より実際的な民主を創造しなければならない」と述べた。文革を清算して民心を掌握し、当時、党主席・首相・中央軍事委主席を兼任していた政敵の華国鋒を追い落とす政治闘争の目的もあった。

李氏は「政府の権力を制約し公民の広範な参画を主な内容とする政治の民主は、封建専制を克服し一掃する最も有力な武器だ」と主張し、この35年間、小平が提示した任務が重視されず、社会の腐敗など封建主義の残影は「どれ一つをとっても克服されたとは言えない」と厳しい。

同講演は当時、人民日報に全文が掲載されただけでなく、1987年7月1日の同紙にも一面トップで再録された。同年1月、当時の胡耀邦総書記が学生の民主化運動を容認したため保守派の攻撃を受けて失脚。反資本主義の潮流が経済改革に影響を与えることを懸念した趙紫陽総書記が、小平の了解を得て再録したのだ。

同記事には触れていないが、党の歴史において「民主」や「法治」は常に為政者の統治手段として持ち出されているため、別の状況が生じれば、いとも簡単に引っ込められる運命にある、というのが私の考えである。当然、中国の知識人もみなそれはわかっているが、突き詰めれば一党独裁の否定につながり、革命論の提起にもつながりかねない。13億人はそれを望んでいない。彼らはあくまで「改良主義者」の看板を明確にしなければならないのだ。

中国知識人の良心は保たれたか?『炎黄春秋』が万里追悼記事

2015-08-22 16:51:53 | 日記
一時期は存亡の危機が叫ばれていた民主派の歴史月刊誌『炎黄春秋』の8月号に、「万里的政治担当」と題する追悼記事が掲載された。万里・元全国人民代表大会常務委員長は7月15日、満98歳で亡くなった。天安門事件では外遊先で学生デモを愛国的行為と称えながら、戦友である小平に説得され、武力弾圧を受け入れた。日和見とも評されるが、開明的な政治姿勢を持ち、引退後は一切政治と距離を置いた潔白さに対し、民主派知識人の中でも慕うものが多い。同誌の記事はその表れである。

編集責任者の徐慶全氏が執筆し、杜導正同誌社長の娘で秘書長の杜明明氏が名を連ねているのは、彼女の関与で社内対立が生まれているとの風評に対し、団結を示す意図があるのだろう。俗物的な手法だが、記事は政治の民主化を唱えた万里の功績を正面からたたえる内容で、同誌の顕在ぶりをアピールしたことにはなる。

万里は習近平総書記の父、習仲勲のよき理解者で、晩年を深圳で不遇に過ごした習仲勲をしばしば見舞った。政治闘争に振り回された習仲勲は在任中、不当なレッテルで政敵を打倒する弊害を訴え、異なる意見を許容する「不同意見保護法」の構想を語った。万里には「党が異なる意見を受け入れる政策を推進できなかったことは遺憾だ」と、日の目を見なかった同法の無念を漏らした(『万里国慶節講話』)。

万里は保守派の反対で党中央政治局常務委入りを阻まれたが、国共内戦を同じ部隊で戦った小平の強い信任を得て官途を全うした。明暗は別れたが、習仲勲と万里はともに改革開放の基礎を作った盟友関係だった。万里は農民の意欲を引き出す請負制を導入して飢えを救い、「コメが欲しければ万里を探せ」との言葉をはやらせた。だが同誌の万里追悼記事は、農村改革だけでなく、政治改革論者としての素顔に焦点を当てた点で際立っていた。

万里は副首相だった1986年の公式会議で、「建国後、我々は民主と法制の問題について自覚を欠き、法制建設を重視せず、多くの事は指導者の言うままだった。上から下まで指導者の言葉に従う習慣が出来上がり、問題が起きても法律によって解決することに慣れていない。我々には人治の経験しかなく、法治の観念を欠いている」と述べた。また同年、大きな反響があった民主と科学の不可分性に関する演説では、以下の通り習仲勲と相通ずる発言をした。

「(自由な発言や研究を認めた)『百花斉放、百家争鳴』の方針が貫徹されなかった重要な原因は、しばしば政治問題上の異なる意見を“反党”“反社会主義”“反革命”とみなし、こうした概念が副作用をもたらしたからだ」

「指導者は人々が十分意見を発表する民主的な権利を尊重し、他人が異なる意見を述べたり、自分の話に反対したりしても、恐れるべきではない。かつて『言う者に罪はなく、聞く者は戒めとする』と言った。これは正しいが、まだ後ろ向きだ。前向きな言い方は『言う者に功があり、聞く者は益を受ける』とすべきだ」

こうした政治的立場はもともと、毛沢東が政権奪取前、国民党の一党独裁を攻撃し、共産党の民主を強調する中で語られてきた。毛沢東は抗日戦争終結前の1945年4月24日、各党派との連携を呼びかけた演説「連合政府論」で、「人民の自由がなければ、真の民選の国民大会はない」と大幅な言論の自由を訴えた。習仲勲や万里ら開明的な指導者は、毛沢東が語った党の原点に忠実だった。

『炎黄春秋』は、歴史の真相を明かにし、教訓をくみ取ることを編集方針とする。現代へのメッセージを発することが目的だ。天安門事件で中国が国際的に孤立する中、中国知識人の良心を伝えようと創刊された。すでに24年を迎え、発行部数は定期購読者が大半で約20万部にのぼる。組織を持たない、独立した硬派雑誌としては極めて多い。

同誌が存続できたのは、習近平氏が父に対する最低限の礼を尽くしたとも言える。だが知識人に対する冷淡さは、「建国の父」毛沢東を学び過ぎている。二人の父を持ったリーダーは、いったいどのように折り合いをつけているのだろうか。