行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論㉘】「沈黙の螺旋」を傍観しないために

2016-07-10 09:50:54 | 独立記者論
今日は参議院議員選挙の投開票日である。街頭の空疎な演説には辟易とさせられたが、つかみどころのない「世論」にももどかしさを感じる。各紙の世論調査は、一面トップに「改憲勢力 3分の2を上回る勢い」と金太郎あめのような見出しが躍った。読売新聞だけは「自民単独過半数」に焦点を当てた。もし意味不明な「改憲勢力」という概念を避けたのであれば、一つの見識である。

報道によれば改憲勢力とは自民、公明、おおさか維新の会、日本のこころを大切にする党の4党だが、それぞれ改憲の中身が一致しているとはどの新聞にも書いていない。改憲自体であれば、その他の政党も口にしており、問題の核心は改憲内容にある。形式ではなく中身が、政治論争の問題設定として置かれるべきである。そんな細かいことに触れていたら記事が成り立たない、単純化しなければ読者はわからない、たぶんそんな言い訳が横並びにつながったのだろう。知る権利を担う責任を回避し、上から目線で大衆を眺める傲慢さが表れている。

報道の意図は、改憲勢力が優勢なので気を付けなくてはならないと危機感をあおることにあるのか。それも傲慢である。メディアによる直接的な世論誘導を認める学説は「弾丸効果理論」と呼ばれるが、すでに報道不信が拡散している現代においては神話に過ぎない。かといって官僚主義がはびこり、娯楽化、無色化の方向に突き進む大衆メディアには、もはや卓見を備えたオピニオンリーダーを生む素地も失われている。総合雑誌も週刊誌化し、ネットもまだ十分な信頼を得るに至っていない。

こうした状況で生じやすいのが、「沈黙の螺旋」と呼ばれる現象だ。ドイツの政治学者ノエル=ノイマンが1980年代、列車の乗客の心理を研究する中で到達した理論である。

社会に一定の大勢意見が生まれると、異なる少数意見のマイノリティはその空気に押され、意見を公表する気持ちをそがれる。こうして人々は沈黙する。沈黙は大勢意見への受動的な合意とみなされ、マイノリティは雪崩のようにマジョリティに呑み込まれていく。選挙前の世論調査はまさに大勢意見を大衆に示す役割を果たし、多くの有権者はその流れに乗り遅れまいと、多数派意見に便乗していくことになる。こうしてマジョリティは螺旋状に増殖し、結果的に実際以上の多数派世論が形成される。

争点の不明確が世論の無関心を呼び、どうも今回の選挙はまさに「沈黙の螺旋」理論が当てはまるような気配を感じる。政治的無関心の拡散は、情報化社会の帰結だと言ってしまえば、冷笑主義に陥るしかない。情報を得る手段が多様化し、無数の選択肢を持つ自由があふれているが、個々人がそれぞれに的確な判断を下せるほどの時間も能力もない。自由の行使に責任が伴うのであれば、人は自由を放棄し、安全な閉鎖空間に逃げ込みたい誘惑にかられる。権力とメディアが結託すれば、こうした世論を操作するのはいとも簡単だ。ここにおいて非理性的なナショナリズムが台頭する危険が生じる。12日には南シナ海問題の仲裁裁定が予定されているのは一つの暗示である。

悲観的に過ぎるかどうか、ここ数日の経緯がすべてを物語ってくれるだろう。

英国の新聞史は、密室で行われていた議会の議事録を公表するところから始まったことを教えてくれる。今、果たして国会は伝えるべき価値のある議論をしているのだろうか。場当たり的な、小手先の言葉のゲームに終始しているだけではないのか。

かつて、皇太子家に男児の誕生が望めない状況下で、皇室典範を改正し女性天皇を認めるべきだという議論があった。小泉首相が有識者会議まで発足させ、皇室存続のため容認に道筋を作ろうとした。だが、秋篠宮家に男児の悠仁親王が誕生すると、議論は途絶えた。戦後、半世紀以上が経過し、憲法の定める天皇の「象徴」の意味を改めて議論する好機だったが、それは失われた。直接的には票に結びつかない議論は、しょせん割の合わない仕事なのだ。

改憲論議の中でも、第一章第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」にある「象徴」についてはだれも語ろうとしない。現職議員の中で、「象徴」の意味をきちんと説明できる者はほとんどいないだろう。第一章第一条を明確にせず、それに続く条文を詮索するのは砂上の楼閣を生むことになる。半世紀以上、皇室が地道に築いてきた実績、世論調査の高い支持率を総括するところから、日本人が国の在り方を主人公として考える第一歩が始まる。それをタブー視するのは民主主義の後退である。「沈黙の螺旋」を傍観していてはならない。

戦後、現憲法制定にあたり、担当の金森徳次郎国務相は国会で象徴の意味を何度も問われ、「国民のあこがれの中心」と繰り返した。「あこがれ大臣」との異名までとった。だが今、「あこがれ」だけで納得する国民はいないだろう。憲法の最初の一文に書かれた国の根幹に関する議論を避け、小手先の技術に走った改憲論は、根本をみない末節の政治駆け引きで終わるしかない。国民の無関心もここから生じている。数合わせのゲームに便乗するメディアに、無関心を責める権利はない。自分たちの足元をきちんと見つめなくてはならない。



【独立記者論㉗】どうして人間はこれほど服従したがるのか

2016-07-07 16:30:19 | 独立記者論
新聞社を辞めた後、会社を問わず現状に不満、不安を抱えている記者から相談を受けた。知り合いの者もいるし、面識のない人もいた。ある講演会で、終了後、新聞社に内定が決まった学生から「私も辞められる記者になりたいです」と言われて度肝を抜かれたことがある。私はどんな記者にも、私と同じ道を選ぶことは勧めない。よほどの覚悟か経験がなければできないことでsるし、やるべきではない。ただ、次のメッセージは伝えることが出来る。

私は、事実を伝える勇気を忘れ、言論の自由と責任を放棄した職場で仕事を続ける意義を見出せず、27年間勤めた新聞社に辞表を提出した。帰国して、講演会などの場で「中国の共産党政権はいつ崩壊するのか」と質問を受けながら、新聞社に対して抱いた違和感と通ずる、この社会を覆う異様な空気を感じた。どこからそのよな発想が生まれるのか全く理解できない。メディアの報道も大きな要因だろうが、もっと根源的な理由があると感じた。地下に隠された巨大な機械がたえず目に見えない空気を地上に送り込み、人の神経や感覚を麻痺させ、思考を鈍化させているようなイメージが拭い去れない。

その機会を動かしているのは官僚制である。マックス・ウェーバーの定義に従えば、規則によって権限が定められ、上意下達の階層的組織を持ち、専門化による職務分担が文書にもとづいて遂行される、ということになる。試験、資格による組織内競争があり、組織に順応した対価として昇進のインセンティブが与えられることによって忠誠心が養われる。終身雇用や年功序列は官僚制と親和性を持つ。オートメーション化、あるいはインターネットは、官僚組織の部品として固定化された奴隷の地位から人々を解放するかのように期待されたが、むしろある部分においては強化されているのではないか。

新聞社の編集現場で取り交わされている会話、しばしばこそこそ耳打ちのように伝えられるのだが、それを公開したら多くの人々は唖然とするに違いない。権威ある人物の指示に対し、それがいくら不合理、不当なものであっても、なんの躊躇も戸惑いもなく下へ下へと伝言ゲームが繰り返される。言論の自由、社会的な責任や使命とは無縁な事なかれ主義、事大主義、場当たり主義が支配している。

真理を捻じ曲げ、信念を捨て、強者に従うことしかできない人間は、屈服した奴隷に等しい。こういう人間に限って、別の場所では理想を語り、権威主義を振りかざす。周囲は気づいていても何も言わない。抵抗し、反抗に立ち上がる意欲も力も失い、自らが服従していることを忘れてしまうほど、良心が摩耗している。

エーリッヒ・フロムは『心理的、道徳的問題としての反抗』でこう書いている。



「どうして人間はこれほど服従したがるのか。どうして反抗がこれほどに難しいのか。国家、教会、世論などの権力に服従しているかぎり、私は安全であり、保護されているように感じる。実際、自分が服従しているのがどのような権力であろうと、問題ではない。それはつねに、何らかの形で力を行使し、全知全能を詐称する制度、もしくは人間なのである。服従によって、私は自分が崇拝する権力の一部になることができるのであって、そのために自分も強くなったと思うのである。権力が代わりに決定してくれるから、私があやまちを犯すはずはない、権力が守ってくれるから、私が孤独であるはずはない、権力が許さないから、私が罪を犯すはずはない」

自由と独立には責任が伴う。人はその責任を逃れるため、官僚組織の中に逃げ込み、埋没しようとする。厚い空気のベールに囲まれた人々が見る外界は曇っている。真理を追い求めようとする独立した精神が失われているからだ。フロムは、真理にたどりつくためには「惰性の根強い抵抗を克服し、間違いを恐れ群れから離れることを恐れる気持ちを、克服しなければならない」(『預言者と司祭』)と主張する。思想もまた行動を伴わなければ絵に描いた餅に過ぎない。行動の表現方法は様々である。唯一の正解があるわけではない。まずは覚醒から始まる。







【独立記者論㉖】ジャーナリズムと「監獄の誕生」

2016-07-01 00:15:19 | 独立記者論
言論を捨てた新聞が「国民」を代弁した論をなすことの厚顔無恥を指摘したが、実際、多用されるのは「読者」という言葉である。「読者の求めていること」「読者の立場に立って」、編集の現場はとらえずそうした考え方に立っている。だから社会を騒がせる誤報をした時も、「読者のみなさまにご迷惑をおかけしました」というお詫びの表現となる。

清水幾太郎のジャーナリズム論では、ニュースの作り手だけでなく、読者側からの関与を加え、「新聞と読者の腹の探り合い」と呼ぶ。読者もまた「それこそ印刷された言葉の非人間的な権威によって、あらためてこの方向に自分の気持ちを統一するに違いない。彼の内部に沈んでいた一つの観念が新聞の力を媒介として彼の外部へ躍り出で、彼に向って来る訳である」(『ジャーナリズム』)というのだ。

一つ一つの記事を丹念に調べる時間も余裕もない人々、物事を批判的に見る独立した視点を持っていない人々、記者はしばしば「一般読者」と呼ぶのであるが、彼らは右手に新聞を、左手に先入見を持って社会に向き合う。あらかじめ抱いているイメージに合致する事象をなぞるように記事を読む。所与のイメージもしばしば新聞によって作り上げられたものである場合が多い。こうした「腹の探り合い」によって一つの空気が生まれる。

「それは完全に新聞の責任によるものでもなく、また完全に読者の責任によるものでもない。いわば責任の所在の明らかでない思想や観念が生まれて、新聞と読者とを支配するにいたるのである」と清水幾太郎は言う。

思い浮かべたのは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生―監視と処罰』(田村俶訳、新潮社)の中で取り上げた。ベンサムによって考案された「パノプティコン(一望監視装置)」だ。中央の監視塔を囲む円環状に独房が並び、囚人の動作を絶えず見張ることができる監獄のシステムだ。







独房には外側に窓が設けられ、光が差し込むことによってその中にいる囚人の小さな影がはっきりと見える。逆に囚人たちからは、監視塔内の動きが全くわからないよう窓によろい戸を取り付け、内部は仕切り壁を設け光や音が漏れるのを防ぐ仕掛けがされている。監視は囚人を見ることができるが、囚人は監視を見ることができない。しかも独房は左右を壁で区切られており、他者とも断絶されている。囚人は孤独の中で絶えず見られている受け身の立場に置かれる。フーコーはその効果をこう表現している。

「つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者に植え付けること」
「この建築装置が、権力の行使者とは独立したある権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たるある権力的状況のなかに組み込まれる」

こうした規律・訓練の申し分ないシステムは、人間と権力との諸関係を規定する一般化可能なモデルとして把握されている。監獄だけでなく、病院や学校においても同様の自覚的な規律・訓練システムが存在している。「新聞と読者の腹の探り合い」に同じ構造を感じ取ったのはそのためだ。

新聞は、いくら記事に匿名を用い、表現をぼかしても、すべてを知っているという「可視性」をもって読者に迫る。読者は記事作成の不透明なプロセスを盲信し、見る立場を放棄して見られるだけの存在に甘んじる。自分の中にある作られたイメージに縛られ、無意識のうちに規律と訓練を受けている。いつの間にか自覚的に新聞の用語や論調を学び、伝えるようになる。

この上に今はインターネット社会が重なっている。状況はさらに複雑だろう。少なくとも可視性、連帯性に大きな変革を加えていることは間違いない。この点については日を改めて考察したい。

【独立記者論㉓】部数の呪縛が見過ごす権威と独立

2016-06-22 11:23:02 | 独立記者論
英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏が残した名著『THE PRESS』(1938)=邦訳『理想の新聞』浅井泰範訳(みすず書房)は最終章で「理想の新聞」を語る。新聞の権威が失われた深刻な現状認識に基づくものだ。彼はそれを「バラバラになった無目的の事象」と呼ぶ。「そのために生き、必要とあればそのために死んでもいいと思えるような理念」、「精神的な価値」を書いた社会、つまり信仰不在の社会を反映したものだ。

理想の新聞は、ニュースを最重視し、「印刷に値するすべてのニュース」(ニューヨーク・タイムズの一面にある言葉)を提供し、平和のために死を賭して守るべき価値を描くことにある。スティード氏の思いは次の言葉に凝縮されている。

「私の新聞は、国民の気持を戦争反対にもっていくだけでなく、個人の自由および人権の擁護を促進する側に立った路線を追求する。それが、建設的な国際的援助態勢への道を開くからである。そしてまた、全国的な社会的問題では、私の新聞は、社会の構造そのものを建設的に改良する任務を、あらゆる階層の国民とともに遂行する」

彼の言葉には常に、国家や社会が想定されている。たえず「読者」を繰り返す”新聞大国”の日本とは違う。読者とは大資本によって閉ざされた時間、空間に動員された顧客である。日本の各新聞社が語る言葉に実がないのは、ひとえに時空を超えた価値を追求する姿勢がないことにある。さらにひどいことは、「読者」が隠れ蓑であり、本音は「販売店主」「広告主」にあることを社会がみなお見通しであることだ。

スティード氏は盟友である英紙『ウェストミンスター・ガゼット』の元編集長、ジョン・アルフレッド・スペンダー氏が、新聞の権威と威信の根源がオピニオン・ジャーナリズム=評論新聞にあるとする指摘に賛同する。新聞の発行部数が大資本による数百万部時代を迎え、広告主の目を引く部数が権威であるかのように振る舞う社会に異議申し立てをしたのである。自由な新聞に求められるのは、市民生活に関連のあるべきことについて、恐れず、逃げず、誠実に自説を主張する精神である。スティード氏は言う。

「(※1938年の)いまから五〇年前にロンドンで発行されていた七つの夕刊新聞(そのほとんどが、評論新聞だった)は、いずれも裏小路の薄汚れた小さな事務所でつくられていたし、その部数たるや、いまの水準から見れば、まことに情けないものだったが、いままで生き延びたのはたった三つしかない。しかもスペンダーは言及しなかったが、生き延びた三つの新聞のすべてが、ほんとうの意味での評論新聞ではなくなっている」

大資本による新聞経営は、新聞の価値が内容ではなく、広告や景品にあるとする神話を作り始めた。スティード氏はそこでまたスペンダー氏の夢を語る。それは「もしも自分が自分の意のままになるユートピアを持っていたら、けっして三〇万部以上の部数をもつ新聞の発行を許さない」ものであり、広告主に対し「私たちは一日につき一〇万部以上の部数をけっして売りません」と開き直る新聞の夢想である。

同書の要点は計3回の連載でほぼ書き尽した。自由の成り立ち、新聞の自由の概念、社会の在り方、すべてが違うので安易な比較はできないが、日本のことを考えてみる。スティード氏の「新聞の自由」論を完全に支持するわけではない。時代の背景も異なっている。ただ、完備した宅配制度に支えられ人口当たりの発行部数が世界トップクラスでありながら、新聞の種類が100ほどしかなく、しかも発行部数の世界ランキング10位に、1、2位を含め日本の4大紙が入っていることは誇るべきなのだろうか。寡占状態にある大新聞が理想を失えば、社会に与える影響は極めて甚大だが、その自覚はあるだろうか。

大量発行部数を生んだ一億総中流時代は過去のものである。だが新聞編集の現場は往時の単一な価値基準から抜け切れていない。多様化する社会に対応できないまま、販売店主、広告主とのしがらみに縛られ、「読者」をつかむことに汲々としている。コップの中で争い、共食いさえ始めている。社会に対し理想と責任を語る余裕の生まれるはずがない。新聞が社会を投影するものならば、社会はその身の丈にあった新聞しか持てない。一業種、一企業の問題ではなく社会の問題である。だがかりに、新聞がすでに社会から遊離しているとすれば、新聞大国の中身は想像したくない架空の物語となる。

大きな艦船が沈みかかっている。みんなが一緒に沈んでいるので危機感を深めることができない。自分が少しでも生き延びられればいいという発想しか生まれない。
足を引っ張り合い、集団で異分子をバッシングし、できるだけ雑菌を取り除こうとする。多様性を否定する空間では、個人の自由は全体の自由に置き換えられ、個人の自由を求めるものは閉鎖的なカプセルの中に閉じこもるしかなくなる。個人の独立が存在する余地は生まれない。ここから脱出する方法を語る自由さえバッシングの対象となる。

だがもし、小さなボートに乗り換えて夢の島に行けることになったらどうなるだろうか。奴隷的思考しか持たない人々は、責任の伴わない自由に追い立てられ、我先にとボートに殺到し、定員を超えたところで溺死するだろう。チケット制になったとたん、運命を共にしていたはずの集団はたちどころに分裂し、金と力がのさばり始めるに違いない。

独立した思考によって理想を語ることは、机上の論ではなく目の前にある現実である。

【独立記者論㉒】「不作為の罪は作為の罪と同様、自由を侵害する」

2016-06-21 15:54:49 | 独立記者論
英紙『ザ・タイムズ』の元編集長、ウイッカム・スティード氏の『THE PRESS』(邦訳『理想の新聞』浅井泰範訳、みすず書房)が書かれたのは1938年、ドイツにはヒットラー、イタリアにはムッソリーニの全体主義体制が台頭し、ソ連ではスターリンによる独裁体制が敷かれていた。ヒットラーが英国政府に対し、英国メディアのナチス批判を統制するよう要請し、多くの英国メディアが沈黙した。同書には、新聞の自由を信奉するスティード氏の怒りと危機感が貫かれている。同氏は、広告主の横暴を許容する新聞を「商業ジャーナリズム」として非難する。

彼は「不作為の罪は、作為の罪と同様、自由を侵害する」と、利益の奴隷となった事なかれ主義が自由を侵食している現状へのいらだちを表明した。

「もしも私たちが自由でありつづけたいというのなら、寛容を許さない動きに対してけっして寛容であってはならない、ということである。(中略)寛容という態度は、およそ政治的にも社会的にも、唯一絶対の真理なるものは存在しない、ということを認めることからはじまる」

彼が理想とする新聞は、平和を希求するが、教科書にあるような平和主義ではなく、「国民に対して、もしもほかに道がなければ、擁護のためには死を賭してもとことん戦わねばならない死活的な価値を明確に描き出す」ようなものである。安易な妥協を許さない信念がある。

スティード氏は、尊敬する英紙『ウェストミンスター・ガゼット』の元編集長、ジョン・アルフレッド・スペンダー氏の言葉を引用すする。
 
「新聞の地位は、政府の性格をとらえる基本的なテストのひとつと言ってよい。きわめて多くの国で新聞の地位が低下させられている事実を、私たちすべて、そして対外問題に責任を持つ政府や大臣たちは十分考えなくてはならない。ヨーロッパの半分の国の人々は、自己の考えを自由に表現する術を持たない。だから、もしも為政者が決心したら、それらの人々は、かんたんに隣国との道徳的、知的、政治的交流を断たれてしまう」

「ジャーナリストがこの仕事においてほかの職種の人たちよりも尊敬と厚遇を享受できるのは、新聞は世論の偉大な体現者であり、国際問題の扱いについても恐れずに独自の批判を加える存在だ、という一般的な考えにもとづいている。だから、もしこの姿勢がいささかなりとも守られなければ、ジャーナリストがほかの一般の職種の人たちより高い地位に置かれるべき理由はなにもない」

スティード氏はこの言葉を受け、「専制国家の人々が外国での思想、言論、行動を知りえない状況に置かれているとするならば、それは同時に、もっとも明敏な新聞読者層をのぞいて、自由国家のほとんどすべての人々が専制国家における人々の状況を理解できないことを意味している」と、国際関係におけるメディアの自由の意義を語る。一国の問題にとどまらない、ある特定の時代には限定されない、普遍的な重要性を持っているのだ。印象に残ったスティード氏の言葉をさらに引用する。

「全体主義国家の政府は、往々にして、新聞や世論が比較的自由な国々との和平、友好を望むという意志を表明する。そのうえで、外国からの批判とか、好ましからざる事実の公表は『友好を損ない、和平を危機に陥れる』ことになる、と遺憾の意を表明するわけだ。それだけではない。自由国家で、独立した消息筋の筆者が全体主義国家の行ったことに対して、自分の信念にもとづいた意見を発表すると、全体主義国家の大使や外交官がただちに新聞社の社主や編集幹部に連絡を入れて、そのような筆者の文章を紙面に載せることは、指導者の感情を『いらだたせるもの』であり、危険であると通告する」

日本がかつて、中国に対し「抗日言論の取り締まり」を要請した歴史を思い出させる。

正しい情報の流通は、正しい判断を助け、個人の自由、独立を支える土台となる。国境のないインターネットで、時にデマや過剰な言論が流布する時代にあって、メディアの役割はさらに高まっているが、実態はその期待通りにはなっていない。日本語だけの言論市場だと思っていても、たちどころに翻訳され他国に伝わるのがネット空間である。狭隘な視点の壁を取り払わなければ、自滅の道しか残されていない。