行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

白石丈士くん、後のことは何も心配しなくて大丈夫だよ。

2019-01-23 10:26:44 | 日記
21日、22日、友人の白石丈士くんを追悼するお通夜、告別式が終わった。昨日、火葬場から自宅に戻ったとたん、疲れが出て早く休んでしまった。家族の心労はいかばかりかと思うと、胸が痛む。奥さん、優香さんの思いがいっぱい詰まった式典だった。

夫を偲ぶコーナーを特設し、彼が着ていた特大サイズのシャツや靴、みんなで書いた著書、保険ビジネスを扱っていたドローン、中国に輸出していた銘酒『上喜元』『雨後の月』の蔵元から届いた一升瓶10本以上、さらに思い出の写真を紹介するスクリーンまで並べた。出身地熊本のキャラクター、くまモンのぬいぐるみも置かれた。お酒はお通夜の振る舞いでほとんどなくなるほどの好評だった。さぞ、彼も喜んだことだろう。









さらに彼女は、お通夜振る舞いの後、彼が好きだった人形町界隈の居酒屋を何軒か予約し、残った日本酒を持ち込み、友人グループごとに偲ぶ会をしようという企画も思いついた。斎場の受付には案内のチラシを何百枚も用意し、そこにはこんなふうに書かれていた。

「生前、夫は、自宅近隣の人形町を中心としたエリアの居酒屋やレストランをこよなく愛し、お店の方やご常連の皆様とも楽しくお付き合いさせて頂いておりました。夫の『食べログ』の記録によれば、人形町エリアで約550軒の飲食店を訪れております。」

実際、告別式にはお店関係の弔問客が多く訪れた。元上海駐在記者グループは、「海鮮小料理 呂久呂」(中央区日本橋久松町)に席が用意された。数多くの日本酒銘柄を揃え、下町人情の感じられる店の雰囲気が、彼には特にお気に入りだった。最後には仕事関係など各方面の方が合流し、彼女だけでなく、彼のきょうだいも顔を出してくれて、気が付いたら終電が終わっていた。集まったメンバーは多種多様で、中国大陸・香港からの友人もいた。だれとでも心を開いた彼の幅広い交友関係を物語った。

私は友人として弔辞を述べたが、彼の写真を見たとたん、涙が止まらなくなって、しばらく言葉に詰まってしまった。原稿も用意していなかったので、目の前の彼に話しかけるつもりで、思いつく言葉を話した。

「白石ちゃん、冬休みで一時帰国したとき、また会おうと約束していたから、一つ報告するね。昨夜は優香ちゃんが、君の好きだった居酒屋に席を取ってくれて、みんなで君の好きだったお酒を飲みました。ぜんぶきれいに飲み終わっちゃいました。いつも君は宴会の席で、みんなのお酒が足りているか、料理が足りているかと気遣ってくれていたよね。昨夜は君がいなかったからちょっと寂しかったよ。あのお店はちょうど一年前、君が病気のことを話してくれた場所だったよね。あのときは頑張ると言っていたけど。それから夏休みみんなで集まったときも、君は元気な様子を振る舞っていた。きっとみんなに心配かけないように気遣ったんだよね。君はいつもそんなふうに人のことばかりを考えて、もう少し自分のことを考えればよかったのに。上海で最初に出会ったときも、ぼくは12時に呼び出したって書いたけど、昨夜優香ちゃんに怒られちゃったよ。冗談じゃない、12時じゃなくて、2時だったてね。それでも君は笑顔で現れて。いつも何を頼んでも嫌な顔一つしなかったよね。これからは君にしてもらったこと、全部優香ちゃんに返すから心配ないよ。どこにいたって、呼ばれたらすぐに駆け付けるよ。ありがとう!」

お棺を運ぶときはすごく重かったけど、骨になると君の巨体は想像できないほど小さく見えたよ。お棺の中はさぞ窮屈だったでしょ。天国に行ったら身軽になれたのかな。もう仲間で奥さんを囲む会を計画しているから心配しなくていいよ。もちろん君が好きだったお店で、いつものように楽しく騒ぐに決まってる。それが君がぼくたちに残してくれた気持ちと縁なんだからね。

ありがとう、白石ちゃん。







白石丈士くん、ずっと君はぼくたちの心の中に生き続けるよ。

2019-01-19 21:40:42 | 日記
昨日、予定を変更して上海経由で帰国し、今日の午前中、安置されている白石丈士くんと会った。奥さんのご厚意で、ゆかりの仲間約10人が集まった。彼の額に触れ、頬を撫で、もう戻ってこない人の冷たさを手のひらに感じた。でも、静かに休んでいる表情からは、苦痛から解放された安堵も伝わってきた。

1年に及ぶがん治療は大変だったでしょう。それをみんなに笑顔で説明していた君は、痛ましいぐらい、本当に偉かった。最期まで周囲のことを気遣い続けたんだね。その気持ちに十分応えるだけのことをしてあげられたかどうか、今となっては取り返しがつかないじゃないか。ぼくは今、自分を責めているよ。

奥さんが葬儀で彼の写真をスクリーンに流したいと言うので、手元にあるものを探し、仲間にも提供を求めた。なかなか見つからずに大変だった。いつも人の写真を撮ることばかりを気にしていた君には、肝心の自分の写真がないじゃないか。集合写真でも、一番後ろの列や、片隅に、巨体をひっそり隠すように写っている。まったく手の焼ける男だよね。







お通夜の日には、君が中国に輸出していた日本酒『上喜元』や『雨後の月』の蔵元が、特別に酒を提供してくれるそうだよ。奥さんが涙ながらに紹介してくれた。うれしかったよ。君の人徳が残してくれた縁なのだから、ぜひ、とことんまで飲もうじゃないか。いつも最後まで付き合ってくれた君を思い出し、くだらない話をたくさんしようじゃないか。それがきっと君が望むことなのだから。

でも、わかっているけど、そう簡単じゃないよ。

涙があふれてきたら、どうやってせき止めればいいんだい!

無念さがこみあげてきたら、どこにぶつければいいんだい!

飲んでも飲んでも酔えなかったら、何を話せばいいんだい!

この大バカ野郎!

厄介な男だからこそ、ずっとぼくたちの心の中に生き続けるんだよね、きっと。本当にありがとう!















白石丈士くん、ゆっくり安らかにお休みください。

2019-01-17 13:35:56 | 日記
今朝、親友の奥さんからメールが届いた。春節休みの一時帰国でお見舞いに行こうと決めていたが、間に合わなかった。1月17日が彼の命日となった。白石丈士くん、私よりひと回り若く、弟のような存在だった。酒が好きで、宴会が好きで、人の世話をするのが好きな男だった。バーベキューや花見をするときは決まって幹事役を引き受けてくれた。私の携帯が壊れると真っ先に修理を相談したのが彼だった。

知り合ったのは上海赴任時代だ。奥さんが外交官で、ある送別会の席で彼女と一緒になった。二次会の居酒屋で、彼女が最近結婚したことを知り、酔いに任せ「それならば呼んでくればいいのに」と言った。夜中の12時を回っていたにもかかわらず、笑顔で現れたのが、小柄な奥さんとは想像もつかない、100キロ以上の巨漢だった。人の好さが全身から感じられた。私は寅さんになった気分で、彼女を「さくら」、彼を「博」と呼んで結婚を祝した。

彼は日中間で日本酒やワインの輸入販売をしていて、数年前からは新たな会社を設立し、中国のドローンにかかわる保険代理業を営んでいた。時流に乗って仕事は順調だった。

彼のおかげで上海や北京にいながらおいしい日本酒をたくさん楽しむことができた。私と彼は奇縁としか言いようのないかかわりだった。奥さんの転勤で彼も引っ越しをしたが、私が上海から北京に異動すると彼も北京に越していた。私が新聞社を早期退職し東京に戻ると、彼もまた東京にいた。だからいつでも彼を身近に感じていた。

行く先々でいろいろな集まりができたのは、彼が面倒な裏方を引き受けてくれたからだった。北京でのバーベキューには奥さんも手料理を持参しかけつけてくれた。二人は学生時代の先輩後輩の関係で、彼が上級生だったが、どこか彼女に甘えているようなところがあった。そこがまた微笑ましく感じられた。

私が東京に戻った後の2015年10月10日、小金井公園で上海、北京ゆかりの仲間とバーベキューをしたときは、わざわざ神田の店から内モンゴル産の羊肉を取り寄せ、みんなにふるまってくれた。まさか東京で中国本場のシシカバブーが食べられるとは思わなかった。大好評だった。

2016年、4月9日、井の頭公園で花見をしたときは、私が席取りをし、彼が酒やつまみを用意してくれた。ちょうどあの日は旧暦3月3日、中国伝統の上巳節だった。参加者の一人で在京の中国人美学学者、成佩さんが便箋とペンを持ってきて、「曲水流觴」にならい、みんなで詩を書いた。彼は中国語で「美花 好酒 好朋友」(美しい花、うまい酒、よき友)と書いた。人との縁を大切にし、飾らず、てらわず、おごらず、友と酒を愛した彼の純な心そのままの一首だった。









2014年、私が在中の日系企業関係者30人余りを集め『日中関係は本当に最悪なのか――政治対立下の経済発信力』(日本僑報社)を編集したときは、執筆者の一人となってくれた。原稿のタイトルは「中国で冷酒は飲まれるようになるのか」。冷たい酒を飲む習慣がまだない中国で、いかにして日本の素晴らしい冷酒文化を浸透させるのか。最後の一文は、「私のちいさな夢は、日本料理屋の中で日本酒を頼む中国人が、熱燗にするか、冷酒にするかを話している姿を見ることだ。」と結んだ。すでにそんな時代が来ていることを、彼は生前、感じることができた。

昨年1月下旬、携帯のウィーチャットでがんが見つかり、闘病生活に入っていると知らされた。自分が苦難にあるときでさえ、彼は、

「春節は日本に戻られますか?お時間ありましたら是非飲みに行きましょう(ノンアルビールを飲みます!)年明け早々、あまり楽しくない連絡をしてすみませんでした。」

と書いてよこした。治療の経過は順調で、会うたびに元気になっているようだった。夏休みには2回、仲間と一緒に酒を飲んだ。赤坂で約束した際は、珍しく自分から「魚が食べたかったので」と言い、土佐わら焼きの店を予約した。このままどんどんよくなって、前のように花見ができるのかと期待していた。



この春節休みで一時帰国し、もっと元気な彼の姿を楽しみにしていたが、かなわぬこととなった。昨年2月18日、このブログで彼のことに触れた。

https://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/b8c14b90373c4da3ff66b0fb32afe123

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昨日、がんを告知された友人と会った。私が人生の道に迷い、淵に追いやられているとき、そばで付き添ってくれた友人である。先のことを気遣う友人に、私は、一日一日をありがたいと思う、今の自分の生き方を話した。そして中国の友人間で使われない『謝謝』の意味と一緒に、あの時、私のそばにいてくれたことに『ありがとう』との言葉を伝えた。

ノンアルコールのビールもどきを飲む友人を前に、日本酒を飲み過ぎた。
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奥さんを含め、たくさんの人たちにかけがえのない思い出を残してくれた彼の真心に、改めて「ありがとう」と伝えたい。そして、安らかにゆっくりお休みなさい、と。

早く帰って、君と日本酒が飲みたいよ!

待っててくださいね!

合掌