行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

ゼロコロナがなくなって大変な思いをした一時帰国の準備

2023-01-02 13:58:54 | 日記
 昨日の元旦、今学期の成績資料を提出し、仕事納めとなった。いよいよ明日の昆明—成田直行便で一時帰国する予定だが、この間、ドタバタの出来事があった。中国がゼロコロナから大きく舵を切ったため、あちこちで過渡的な混乱が生じているが、一時帰国の準備をする我が身もまた、予想外の困難に直面した。似たような場面に遭う方もおられるかと思うので、参考のため、簡単に貴重な経験を紹介したい。
 
 日本への入国には72時間以内のPCR陰性証明(鼻咽頭ぬぐい液検体など)が必要だが、二つの難題が持ち上がった。まず、多くの医療機関がPCR検査を中止してしまったため、検査場所を探すのが極めて困難になったことだ。
 大晦日の31日、朝一番に市内最大の雲南省第一人民医院に行った。ネットの情報では、英文のPCR検査結果証明書を出してくれるということだったが、中国では現場に行かないとわからないことも多い。案の定、「数日前、上からの指示で」報告書の発行は週に1回、木曜日しか受け付けないと断られた。


 
3日後の出発を前に、一瞬愕然としたが、長くこの国で暮らしていると、不思議な免疫ができている。すぐに気持ちを切り替え、二か所目の延安医院へ移動するが、検査はもう打ち切られたとのことだった。


 
これでめげてはいけない。三か所目は新華医院。入り口わきに24時間対応の特設検査場所が設けられているのを見て、にわかに元気が湧く。だが窓口で、鼻咽頭ぬぐい液検体は扱っていないと追い払われる。それでもしつこく食い下がると、二階の検疫科に行けばやってもらえるかもしれないとのこと。早速、飛んでいき、恐る恐る尋ねてみると、いとも簡単にOKをもらえた。やっと見つけた!


 他に外来者がおらず、手が空いているせいか、応対してくれた女性スタッフは非常に親切だった。報告書作成のシステムは、あくまで国内使用向けで、誕生日やパスポート番号を記入する欄がないが、懇願すると、備考欄に無理やり書き入れてくれた。この情報がないと、本人確認のしようがないので必須の事項だ。とはいえ、実際、受け取ってみないとわからない。

 心配になって、今度は四か所目の雲南省第三人民医院に行ってみた。鼻と喉の両検体で検査が可能とのこと。大きな病院なので、PCRの受付も携帯アプリを通さなければならず、よくあることなのだが、外国人は登録ができない。やむなく、通常の診察手続きに従い、まず、病院の受付で予約料を支払い、混雑する院内を歩き回って医者を探す。そこでPCR検査を受けるための証明書を出してもらったうえ、今度はまた窓口で検査料を支払い、ようやくPCRの検査場所にたどり着いた。


 以前は連日行列のできていた検査窓口だが、もはや人はまばらだ。鼻と喉の検査を受け、意気揚々としていったん大学に戻った。二つの病院とも夕刻には結果がもらえるということなので、出直すことにした。午前中に四か所の病院を回り、計2回のPCR検査を受け、まあまあの収穫だったと満足した。

 が、本当の試練はその後にあった。新華医院の証明書にはちゃんと備考欄に生年月日とパスポート番号が記入されており、まずはひと安心。引き続き第三人民医院に行き、刷り出された証明書を見てびっくり。まず名前の欄が狭く、ローマ字の名前が途中で切れている。しかも、受付の際にあれだけ念を押したにも拘わらず、生年月日もパスポート番号も入っていない。
 院内二か所をたらい回しにされた挙句、手書きで名前の後半と生年月日、パスポート番号を書き加え、その上から判を押してもらうことで決着した。
 厚労省が定めた証明書の条件によると、原則として言語は日本語または英語に制限されているが、それに応じた翻訳があれば、他の言語も可能である。したがって中国語であることは問題でない。

 肝心なのは、標本タイプの表記だ。新華医院は「鼻拭子」と書かれてあり、それに私が赤ペンで「鼻咽頭ぬぐい液」の翻訳を添えた。第三人民医院は、鼻咽頭と喉を合わせた「双采单检」とあり、「鼻ぬぐい液/咽頭ぬぐい液 混合」と翻訳をつけた。




厚労省指定のフォーマットでない任意の様式の場合、携帯アプリ「Visit Japan Web」を通じたファストトラックの事前審査が推奨されており、それに従い申請した。すると、前者について、電子メールで審査通過の通知があり、アプリに「審査完了」の表示が出たが、後者は「採取検体の種類(翻訳していただいた採取検体の有効性が確認できませんでした。改めて、有効な検体の種類のご確認をお願い致します。)」として「無効」の通知を受けた。
 「鼻拭子」は〇、「双采单检」は×であることが判明した。




 北京や上海、広州など外国人、日本人が多く在住し、医療体制や海外用証明書の発行システムがある程度成熟している都市であれば、そう問題は起きないが、それ以外の中小都市では注意が必要だ。今回の私の経験が、これから日本に渡航しようと思っている方々のお役に立てることができれば幸いである。もっとも、コロナをめぐる状況が改善され、あらゆる審査が撤廃されることが何よりもの朗報である。
 2023年は日中間の人的移動が格段に拡大されることが予想される。すべての人が順調に行き来できますように!

中国人学生から新年のあいさつ「あけおめ」にびっくり

2023-01-01 15:35:46 | 日記
明けまして おめでとうございます!

 夕べは汕頭大学時代の教え子10数人とオンラインで年越しをした。もう働いている者、4年生最後の1年を過ごしている在校生、さらに別の大学に進学した大学院も。7、8割はもうコロナの感染経験者だ。まだ咳が止まらないという男子も、学校で隔離中だという女子もいたが、症状は軽く、総じて楽観的である。ゼロコロナから一転、中国、そして中国人の適応能力には目を見張るものがある。



 12時を過ぎて、各グループ・チャットで新年のあいさつを交わし合った。中国では旧正月の春節が本来の年越しなので、西暦の年が変わっても、まだピンとこない。干支も寅年のままだが、とりあえず前哨戦を楽しもうという感じだ。ゼロコロナ政策が解除されたので、繁華街で出てカウントダウンを楽しむ者もいた。


 日本語学科の1~4年生にはそれぞれ、手書きの日本語の年賀状を電子版で送ったが、「あけましておめでとう」「新年快乐」に交じって「あけおめ」があったのには驚いた。ネット世代は流行語に敏感だと再認識した。



2月下旬から新学期が始まる。さて、2023年はどんな1年になることやら。それと年末に北京の教え子から、マッサージ機のサプライズが届いた。メッセージには「永遠の学生」と書いてあった。こういう可愛い子どもだちがたくさんいる。昆明に来たのも、そういう感動が忘れられないからかも知れない。



雲南省昆明で日本語教師としての新生活をスタート

2022-12-31 17:48:52 | 日記
 風に吹かれてやってきたのは雲南省昆明だ。雲南は中国西南部、ミャンマー、ベトナム、ラオスと国境を接する辺境の地である。山水と豊かな農産物に恵まれ、気候も温暖だ。昆明は年間を通じ“春城(春の里)”の美称を持つ。旅に来たのではない。日本語教師として暮らし始めたのだ。



 

 どうして昆明に?どうして日本語を教えに?と、聞かれるけれど、はっきりした、気の利いた答えを期待されても困る。風に吹かれてきた、と冒頭に断った通りだ。どうしてという問いの立て方は、あまり気が利いていない。わたしにはどうもそう思える。


 
 先日、あるオンラインの交流会でスピーチを頼まれた。自分で選んだタイトルは「風来坊の中国四都物語」だ。強いて求めることもなく、行雲流水の如く過ごしてきた歩みを、ようやく振り返る時期が来たのではと思い、引き受けた次第である。どうして?という問いには、ただ「縁」をもって答えるしかない。
 改革・開放後間もない1986年、北京で語学留学をした。バブル経済に浮かれた日本を離れ、こみ上げる好奇心に突き動かされるまま、実り多い1年を過ごした。その後、新聞記者になったが、社会部一筋で現場を駆けずり回った。突然の縁あって、特派員として計10年間、上海と北京で過ごした後、ひょんなことから広東省・汕頭大学で教壇に立つことになった。ジャーナリズム、メディアにかかわることを自由に講じた。
 
 年男の今年2022年、還暦で中国の定年年齢に達したので、7月の契約満了をもって汕頭大学を離れた。すると、またまた縁あって、今度は雲南省の昆明文理学院で日本語を教えてはどうかと話があった。だが、さすがにこの歳で長く海外生活をしていれば、いろいろ体にガタが来る。
 教え子たちと涙の別れをした後、いったんは帰国し、毎日スイミングをする傍ら、毎週、病院に通って検査と投薬を続けた。体重は二か月余りで7キロほど減り、いくつかの数値も改善された。そこで医者もしぶしぶながら、薬を持参のうえ、引き続き中国で生活することにゴーサインを出したのだった。

 ちょうど、新たなビザも出て、11月1日、東方航空の成田―昆明直行便に乗った。この路線はコロナ下でストップしていたが、ほんの数週間前、再開したのだった。不思議な巡り合わせもあるものだ。
 7日間、昆明の指定ホテルで隔離され、さらに大学の宿舎で2日間、健康観察のための待機を命じられた後、すでに別の先生が代講している授業を引き継いだ。週に6科目、それぞれ1時間半の長丁場だ。1年生から3年生が対象で、会話、リスニング、作文、スピーチといろいろな分野がある。
 コロナ下の地方都市で、不便も少なくないが、私はもともと適応能力が高いうえ、とにかくみなが歓迎してくれるので、気持ちよく暮らしている。1年生のクラスでは最初の授業で、班長の女子学生がクラスを代表して水筒をプレゼントしてくれた。たどたどしい日本語で「みんなで加藤先生を歓迎します!」と言われた。歳を取ると涙腺も弱いので困る。



 日本語専攻の先生たちも熱心で、着いて間もなく、地元特産のプアール茶を届けてくれた。しかも、まだ今学期の授業を始める前に、来学期新たに「異文化コミュニケーション」の科目を開設して欲しいと頼まれた。その熱意に打たれ、数日でシラバスを書き上げ渡した。



 コロナの影響で12月初旬からはオンライン授業となり、学生たちも実家に戻ってしまった。期末試験もオンラインとなり、つい昨日、最後の試験を終え、急いで採点を済ませた。はるか異郷で駆け抜けるような時間を過ごし、今、大晦日を迎えている。
 しばらく、ブログをさぼっていたので、ちょうど新年を迎えるのを前に、心機一転し、再開してみたいと思う。タイトルも「行雲流水の如く 日本語教師の独り言」に変えた。30数年前、日本の大学を卒業後、北京で中国語を学んだ自分が、今度は中国の若者に日本語を教えている。その奇縁を楽しむとしよう。

2021年を締めくくる日中文化交流・第3回「こんにちはサロン」

2021-12-21 12:59:15 | 日記
北京では冬季五輪に向けたコロナ対策や、おそらく政治的なプレッシャーから、日本人の関係する大型イベントが軒並み中止に追い込まれた。そんな中、12月18日、キヤノン中国会議室で日中文化交流イベント第3回『こんにちはサロン』が開催された。厳戒厳冬の首都で、100人余りの熱気あふれる集いが実現したことは、実に得難い機会だった。

コロナ禍で国際的な人的交流が大きく制約を受ける中、中国、主として北京にいる日本人の各分野にわたる知識、技能、経験を生かし、オフラインの日中文化交流を模索しようと始まったのがこの『こんにちはサロン』だ。まずは2021年3月27日、桜満開の日本大使館を会場に行い、その好評を受け、7月10日、天安門広場に接した前門のMUJI HOTEL BEIJINGで「夏祭り」と題する第2回を実施した。

続く秋の集いとして10月30日に第3回を予定し、広報もスタートした。ところが10月に入って北京でコロナ感染例が見つかり、政府の感染対策が強化されたうえ、一部大学も閉鎖されたため、やむなく延期を強いられた。その後、季節は冬を迎えたが、再び北京のゼロコロナが実現したタイミングをみて、改めて実施を決めた。ギリギリまでどうなるかわからない状況で、気をもみながら当日を迎えた。


(中島浩司撮影)

今年の総決算となるコロナ下の国際交流イベント。司会は北京在住のライターで、私がずっと一緒に文化交流イベントに取り組んでいる斎藤淳子氏、そして、初回イベントでは参加者の一人だった北京の日本歴史ファン、楊錦が、絶妙のコンビでこなしてくれた。

(付玉梅撮影)

(付玉梅撮影)

(大西邦佳撮影)

(王立辰撮影)

日中のボランティアが生き生きと会場を動き回る姿を見て、実に感無量だった。参加者は大学生や教師のほか、カメラマン、メディア関係者、さらには毎回出席してくれる国務院日中経済交流会の張雲方元事務局長、『人民中国』雑誌社の王衆一総編集長、中国国際友人研究会の田濤事務局長らの常連もいた。みなが一期一会の得難さを感じながら、中身の濃い3時間余りを過ごした。昔の日本人記者仲間も顔を出してくれ、翌日、彼から以下のメッセージが届いた。

「昨日は本当にお疲れ様でした。今の北京であれだけのイベントを開催された熱意と力量に敬服いたします。」


(中島浩司撮影)

今回、出演者のトップバッターキヤノン中国の小沢秀樹社長。41年間の海外駐在経験をもとに、「感動」と「笑顔」をもたらす企業文化を紹介した。また、北京魯迅博物館の専属カメラマン田中政道氏は、30年に及ぶ広告カメラマン人生を通じて体感した職人の世界、さらには北京移住後、2000作以上に及ぶフォト川柳/俳句の創作を語った。

(高璇撮影)


(高璇撮影)

非常にユニークな出し物が、日本科学技術振興機構北京事務所の横山聡副所長による横笛演奏で、参加者に大好評だった。横山氏は埼玉県川越出身で、360年以上の歴史を誇る川越祭に、「五人囃子」の横笛奏者として参加し、さらには笛そのもの自分で手作りしてしまうほどの職人気質だ。この日は、わざわざ和装に着替え、テンポのゆっくりとした「鎌倉」と、躍動感のある「四丁目」の2曲を披露した。


(王立辰撮影)

最後に私が、汕頭大学新聞学院で行っている日本取材ツアー「新緑」のうち、2018年の北海道ツアーを、参加した卒業生とともに紹介すると同時に、『こんにちはサロン』の総括をした。

「異なる文化に接することの意義は、視野を広げ、コミニケション能力を高めることなどのほか、最も重要なのは、自分の文化を見直し、再認識するチャンスを得ること」

前列に座っていた学生たちが大きくうなづくのを見て、この一年の努力が報われたような気がした。一気に走り抜けたような2021年だった。2022年は中国南方で新たな展開を計画している。


(王立辰撮影)

以下は『こんにちはサロン』携帯アカウントのニュース
https://mp.weixin.qq.com/s/rLBxePgHgullKCXtvrORxg


中国でも関心が高まる金継ぎ、すでに北京で教室も開設

2021-07-29 15:58:13 | 日記
今年の夏休みは北京で過ごしている。先日来、多数の犠牲者を出した河南省鄭州の水害が大きな話題となっているが、北京も連日雨続きで、例年にない異常気象だ。それでも毎日、スイミングに通い、来学期に向けた健康づくりに励んでいる。

本日、中国で発行されている日本語雑誌『人民中国』に寄稿した文章がまずはネットにアップされた。同誌は1953年創刊の歴史ある雑誌で、中国国内においては唯一の日本語総合月刊誌である。

修復工芸「金継ぎ」が今、中国で注目されている不思議

7月10日、北京・前門の「MUJI HOTEL BEJING」でコロナ下の国際交流を探求する第2回「こんにちはサロン」を開き、そこで私が金継ぎに関する話をしたことは前回のブログですでに触れた。寄稿文では、それに加え、金継ぎがすでに庶民レベルで受け入れられ始めていることを紹介した。

その一つは、サロン直前の7月4日、私の学生が北京郊外順義区に金継ぎの陶磁器を取り扱う骨董商、その名も「古道具・土氣」を見つけてくれ、早速足を運んだことだ。オーナーは80年代生まれの吉林人、白昀沢氏。日本人の珍客をお茶でもてなしてくれた。

白氏は北京で工芸を学び、柳宗悦らが主導した日本の「民芸運動」に興味を持ち、自分でも金継ぎ作品を創作しながら、コロナ前は一か月のうち日本、韓国、国内にそれぞれ10日間滞在しな、金継ぎや鎹止めなど修復工芸の骨董を集めていたという。書棚には陶芸に関する日本語の雑誌や書籍などがずらりと並んでいた。








自宅のガレージを改造し、店舗兼アトリエの空間は狭いながらも、民芸調の雰囲気を味わうのに十分だった。

また、奇縁なのだが、第2回「こんにちはサロン」の会場に、北京三里屯の外交人員言語文化センターで金継ぎ教室を開いている李哲氏が来ていた。李氏はかつて北京に駐在する日本の新聞社で助手をしていたこともある。中国在名古屋総領事館に勤務時代、由緒ある「幸兵衛窯」(岐阜多治見)第七代加藤幸兵衛氏の従妹、加藤恵子氏に師事して金継ぎを学んだ。

金継ぎ教室の開講は今年6月だが、すでに教え子の生徒は外国人を含め7班計32人に増えている。私は7月24日、李氏に招かれ、同センターでほぼ前回同様の講演を行った。集まったのは愛好者ら約40人。熱心に質問をしてくる若者もいて、中国で金継ぎが静かなブームになっていることを身をもって知ったのである。







驚いたことに、李氏の友人で中国の人気女優、方青卓氏も飛び入り参加し、金継ぎの魅力について、「過去の失敗を埋め合わせ、新たな希望を与えてくれる」と、ユニークな解説をしてくれた。

今夏の北京はあいにく雨続きだが、芭蕉の句、

「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ おもしろき」

にもあるように、景色を遮るものがあってこそより趣が深まると思えばよい。中国において金継ぎが徐々に受け入れられている現状について、大きな収穫もあった。コロナ下だからこそ、身の回りを改めて見直す貴重な機会なのかも知れない。(完)