行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

明治が生んだ『小日本』と『大日本』

2015-08-01 21:05:59 | 日記
新聞博物館で開かれている展示「孤高の新聞『日本』-羯南。子規らの格闘」については以前、見学に行った際に触れたが、今日8月1日、知り合いの陸羯南研究会主筆・高木宏治氏らが参加する公開講座を聞きに行った。前回足を運んだ際、陸羯南が『日本』だけでなく、『小日本』という新聞まで発行していたことを知ったが、今日は復本一郎・神奈川大学名誉教授の講演でその名前の由来を詳しく知ることができた。

中国を知っている人は、「小日本」と聞けばあまりいい感じは持たない。中国人が日本人の蔑称として使う言葉だからだ。「小日本」には、「大日本」帝国による侵略に対する強い反感が含まれている。強大な国であるはずの中国が、小さな島国である日本に侵略を許した屈辱の歴史が刻まれた言葉だ。

だが、日本の『小日本』は1894(明治27)年2月から7月まで計130号発行された。正岡子規が編集主任となり、政論中心の硬派な新聞ではなく、挿絵などを使った家庭向けの新聞だった。挿絵を担当したのは後に洋画、書の大家となる中村不折だった。

復本氏が講演で取り上げた陸羯南が小説家の饗庭篁村に宛てた手紙には、新たな新聞のタイトルについておそらく饗庭が『絵入日本』との案を出したのに対し、羯南が『小日本』を推す理由が記されている。そこには小さい日本ではなく、若い日本、優しい日本との意味がこめられているというのだ。

もともと日本人が一人一人独立した国民となる国民主義を唱えた『日本』の新聞紙名が、フランスの新聞『ラ フランス』から来ているのと同様、家庭向けの新しい新聞はフランスの雑誌『ラ ジュメヌ フランス』(英語で言えばヤング・フランスと訳される)から取られた。ヤングを的確に表す言葉として、かつ『日本』の弟分という意味もこめて、『小日本』が選ばれたのだという。今風に言えば、「かわいい日本」ということになるのであろう。いずれにしても親しみの持たれる響きが込められていていた。

これは大きいものを求める中国人の大器と、小さいものに愛らしさと親しみを感じる日本人の感性との違いもあるだろう。大自然の山や湖を取り込んだ巨大な庭園「頤和園」を好む中国人と、大自然を小世界に実現する盆栽を愛する日本人との違いである。

日本が『日本』または『小日本』を唱えていた間は、健全な啓蒙精神が生きていたというべきだろう。『日本』は政党や特定利益からの独立を主張した新聞だった。明治はまた藩閥政権が作った憲法によって「大日本帝国」を生んだ。「大日本」を名乗り始めたところから、驕り高ぶりが生じ、国の道を誤った。

講演者の一人、歴史学者の有山輝雄氏は、羯南の理想が至難であり、最後は実現されなかったとしながらも、その独立したジャーナリズムを求めて格闘したことの意義を強調した。有山氏はそのうえで、「ジャーナリズムが理想を目指す運動であることをやめ、目先の現実と馴れ合う事業となったとき、見かけは巨大さを誇っていたとしても、中身は腐朽し、空洞化している」と指摘した。巨大になった現代の新聞社に驕りがないかどうか。講演会を聞いた帰り道に考えた。