行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

2週間の隔離を終え、9か月ぶりに大学へ④

2020-10-30 15:44:49 | 日記
9月23日から14日間の隔離中、朝昼晩の食事はドアの外に置かれた台の上に載せられ、ドアノックで知らされた。弁当スタイルで、朝はおかゆ、昼夜は3、4種類の料理とライス、スープ、果物が定番だったが、麺と蒸し餃子が一回ずつあった。味も抵抗はなく、ボリュウームも十分だった。一日の食費70元(約1100円)はリーズナブルだ。運動ができない状態で、間違いなくカロリー過多ではあったが……。





食べ物や飲み物を差し入れしようと申し出てくれる友人や卒業生もいたが、洗剤や入浴用品などの生活必需品を除き、外部からの持ち込みは禁じられた。他の場所では認められるケースもあり、地方やホテルによって独自の規定があるようだ。だが、特段困るようなことはなかった。強いて言えば、コーヒーを持参しなかったのが誤算だった程度である。

10月1日は国慶節と中秋節が重なる「双節」で、中秋節に食べる月餅が差し入れられた。変化のない隔離生活の中では、実にありがたい心遣いだった。テレビのニュースでは、各地の観光地が例年を上回るほどの人出でにぎわっている様子が伝えられていた。長期の自宅待機で溜まっていたうっぷんが一気に吐き出されたかのようだった。



私たちの宿泊したホテルは、1泊270元とグレードの割に格安で、しかも、肝心の繁忙期に一般宿泊客を断る羽目になった。もしかすると地元政府からの補償などが出ているのかも知れない。

観察措置としては、毎日朝と午後の計2回体温測定があったほか、のどに綿棒を差し入れる方式のPCR検査が9月25日、9月30日、10月5日の計3回実施された。いずれも2、3日後に陰性の結果が書面で通知された。体温測定もPCR検査もドアを開けた状態で、こちらは部屋の中、防護服の検査員は部屋の外にいて行われた。徹底した隔離だった。


雨や曇りが多く、北西向きの部屋で、しかも目の前に高層ビルが二棟並んで視界を遮られていたため、窓から太陽を仰ぐことはできなかった。ただ、晴れた日には遠くの山並みとその下を流れる川がはっきり見えて心を癒してくれた。かろうじて日没が視界に入るのも、ささやかな楽しみだった。



日中は、持参した本を読んだり、中国のネットドラマを観たり、退屈することはなかった。ダラダラと時間を過ごすこともなく、予想外に充実した14日間となった。隔離中のホテルからオンライン授業も行ったが、違和感なくスムーズだった。



隔離最終日の10月7日はちょうど誕生日だったが、日本取材チーム「新緑」の卒業生や在校生がオンラインでお祝いをしてくれた。その気持ちがありがたかった。もともと自分の誕生日にこだわりがなかったが、忘れがたい思い出となった。



福建省の規定では、14日の隔離後、さらに当地に留まる場合はさらに1週間、隔離が継続する。私のように他の省に移動する者は、政府の用意するバスで空港や駅まで運ばれ、実際に当地を離れるまでチェックを受けた。

(続)

2週間の隔離を終え、9か月ぶりに大学へ③

2020-10-27 18:00:52 | 日記
9月23日、成田空港に向かうため東京駅から成田エクスプレスに乗ろうとしたが、家を出て間もなく、国際線乗客の激減で運航が停止されていることを知り、急きょ日暮里からの京成スカイライナーに切り替えた。

実際、閑散とした空港に着いて、外国を結ぶ人の流れが途絶えていることを実感した。行列ができているのは、私の乗るアモイ航空・福州便と、隣の中国南方航空・広州便だけだった。

チェックイン・カウンターで、携帯を使って中国通関当局に対する健康状況申請をするよう求められた。過去2週間の滞在場所やコロナ感染者との接触、自身の健康状態などを尋ねる内容で、ごく簡単なものだった。私はPCR検査陰性の結果を持参したが、必要ないと言われた。

チケットの裏には説明書が添付され、香港・マカオ及び外国からの旅行客は現地で14日間の集中医学観察(隔離)を受けること、費用は自分で負担することが書かれていた。

搭乗直前に体温チェックがあり、マスク着用も義務付けられた。機内は満席で、客室乗務員は防護服だった。軽食がすでに座席の上に置かれていて、乗務員との接触はほとんどなかった。

フライトは順調で、現地時間の午後6時過ぎには福州長楽空港に到着した。すでに日は暮れていた。後部座席だったのでしばらく機内で待たされたが、降りた後は、成田で通関に申請した内容のチェックと、問診、鼻に綿棒を差し込むPCR検査を受け、入国手続きを済ませた。作業に当たるスタッフが多く、流れ作業も効率的で、すべての手続きは1時間余りでスムーズに終わった。

荷物を受け取ると、空港の出口で名前を確認され、他の乗客と一緒にそのまま用意されたバスに乗り込んだ。この間、接触したスタッフはみな防護服で、厳重な管理が徹底されていることを感じた。



1時間ほどバスに乗り、隔離先のホテルに運ばれた。すでに夜の9時近かったので、周囲の様子はわからなかったが、どうやら山に囲まれた観光地のようだった。貴安新天地という地名が見えた。

まずホテルの駐車場に乗客の荷物がすべて並べられ、一つ一つ消毒液を吹きかけられた。そのあと、裏口からエレベーターに乗って8階に直行し、特設のカウンターで書類と部屋の鍵を受け取った。部屋は15階だった。

入り口の台には夕食の弁当が置かれていた。部屋はリビングと寝室がそれぞれ広く、浴室もバスタブ付きだった。五つ星に近いグレードだ。





説明書には、毎日の宿泊費270元、食費70元、計3回のPCR検査費毎回95元、と断り書きがあった。いよいよ2週間の隔離生活が始まった。

(続)




2週間の隔離を終え、9か月ぶりに大学へ②

2020-10-22 10:12:23 | 昔のコラム(2015年10月~15年5月
新入生歓迎の諸行事に追われ、少し間が空いてしまったが、隔離生活前後の経緯を振り返ってみたい。

中国ではコロナの影響を受け、3月28日、外国人の入国を停止し、すでにあるビザも失効した。当時はすべての授業がオンラインだったので、入国制限に不都合はなかった。どこの国でも事情は同じである。

だが中国では5月末から、主として外資企業を中心に、地元政府の招請状があれば入国を認める政策を取り始め、7月10日には、日本航空が日系企業の駐在員ら160人を乗せてコロナ後初の旅客チャーター便を運航した。中国の経済をけん引する広東省が、正常化にかける意気込みを示す強いメッセージとなったが、大学関係は特段の措置がなかった。

いずれビザ停止も解除されるとたかをくくっていたが、春学期が終了し、夏休みに入っても新たな動きはなかった。9月14日が秋学期のスタートで、その時期に戻れる可能性はほぼなくなり、外事部門からは新学期もオンライン授業を準備するようにと指示を受けていた。



ところが、日本の中国大使館が8月22日、公式ホームページ(中国語)で、「日中双方の人的往来をさらに促進するため、すでに居留許可証を所有し、訪問の目的が居留許可の理由と合致している日本人は、9月1日以降、新たなビザ申請ができる」との通知を公表した。

大学の外事部門に当たる国際交流協力課の担当者が、すぐにその通知を見つけ、私に、学部と連絡を取りすみやかに大学に戻る手続きをするよう連絡をしてきた。当時持っていた居留許可証の期限が9月26日に迫っており、慌てて申請手続きを取った。

飛行機の便数も到着場所も限定されているので、航空チケットの確保も難題だった。上海便、広州便は10月まで満席だったが、幸い、大学に近い福建省福州着の便が見つかった。9月23日成田発で、ビザ取得に要する時間を考えればちょうどいい。9月1日予約した時点で、料金は1万元近くだったが、数日後には1万5000元に跳ね上がっていた。何事も先手を打つことが肝要であるると痛感した。



9月16日、有明のビザ申請センターで新たな就労ビザ(Z)を受け取った。旧ビザの有効期限内(あと10日!)ということで、本来かかる手続き費用8500円は免除された。




先立つ9月9日、中国大使館は航空便搭乗に関する新たな規定を発表し、9月25日以降、中国便の乗客は3日以内のPCR検査陰性証明の提出が義務付けられた。私の予約した便は9月23日で、新規定の適用外だったが、不測の事態も予想されるので、念のため中国大使館指定の病院で検査を受けた。結果は陰性でホッとしたが、何しろ料金が4万5000円と高額なのには驚いた。後で知ることになるが、中国では100元(1600円)前後が一般的だ。

大学に戻る経費はすべて自費なので、負担は軽くないが、相手の見えないオンライン授業はもううんざりだったし、教室で学生と向き合う楽しみ、重みを考えれば、十分割に合う出費なのだ。

(続)

2週間の隔離を終え、9か月ぶりに大学へ①

2020-10-10 16:27:42 | 昔のコラム(2015年10月~15年5月
今年の1月、春節休みで大学を離れて以降、コロナ禍を経て一昨日、9か月ぶりに大学に戻った。コロナの状況下、学部内では外国から復帰した外国人教師第一号だった。様々な手続きや2週間の隔離を含め、非常に困難な道のりだったが、到着してすぐ友人や職場の仲間、学生たちの熱烈歓迎を受け、これまでの苦労が報われた気がした。

9か月間、窓も開けずに宿舎を放置した。亜熱帯で湿気も多く、室内がどうなっているのか心配だった。恐る恐るドアを開けたが、ほこりが少したまっているほか、ゴキブリの死骸が何体がある程度で、予想外に乱れていなかった。



幸い男子学生2人が手伝いに来てくれ、荷物運びや部屋の掃除が大いにはかどった。2人はいつも遊びに来ている学生なので、こちらから指示をする必要もなく、コップや皿を洗い、期限切れの調味料もてきぱきと処分してくれた。非常にありがたい若者たちだ。



片づけが一段落し、3人でテイクアウトの夕食をしていると、別の男子学生2人が果物を差し入れてくれた。懐かしい顔を見て、ようやく大学に戻ったという実感が湧いてきた。

しばらくして、今度は日本取材チーム「新緑」の女子学生が、スワトウ特産の月餅「ラオビン」をお土産に持ってきてくれた。月餅は中秋節(今年は10月1日)の食べ物だが、私が隔離中だったため、改めてみんなで一緒に食べようと持ってきてくれたのだ。その気持ちがありがたかった。



一夜明けて昨日は、大学の向かいに会社を構える企業家の友人から、胡蝶蘭の鉢が二つ、それとニュージーランドから輸入したキウイとリンゴが箱ごと届いた。大学に戻ったお祝いだという。とても一人で食べきれない量なので、早速、学生たちにおすそ分けした。







夜になると今度は、前学期オンライン授業をした「日中文化コミュニケーション」の班長で、芸術学部の女子学生が、クラスのみんなが写真や言葉を寄せた記念冊子と、自分の作った手作りの紙に、自分で描いた「浮世絵」を私の誕生日プレゼントとして送ってくれた。





記念冊子には私の似顔絵も添えられ(かなり若作りではあるが・・・)、大いに感激した。序文には「いちごいちえ」と日本語の表記もあり、「これは贈り物ではなく、大切な記念です」「2020年前半は順調でなく、オンラインの授業には少しがっかりしました。ただ突然の事態だからこそ、特別な経験もできたのだと思います」と書かれていた。





こうして今学期の新たな1ページが始まった。次回ブログでは、出国までの手続きから隔離2週間にいたる経験談を紹介したい。

(続)