行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや。

2016-02-29 21:03:36 | 日記
外務省の招きで日本を視察している北京の旧友が本日、我が家を訪れた。元『財経』誌副編集長の羅昌平と彼が同行してきた『鳳凰週刊』主筆の葉匡政だ。いずれも中国メディア界を評する人物である。





『論語』の冒頭にこうある。

「子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや」

専門家によって様々な解釈があるだろうが、人の情に大きな時代の変化がないとすれば、同じ心持を感じた1日であったと言ってよい。懐かしい友が遠方からやってきて、いろいろな話をする。自分の近況や共通の友人の消息、昨今の社会情勢に至るまで、話題は尽きない。喜ばしく、楽しいひと時である。お互いが議論することがすなわち学ぶことなのだ。「人知らずして」。別に世間に名前を売るために学んでいるのではないから、人の目を気にする必要はない。思う存分語り、できれば酒でも飲みながら語り明かしたいものである。

だが外務省の配慮が行き届き過ぎ、彼らには自由時間がほとんどない。好意なのだからやむを得ない。結局、私は昼間の数時間を一緒に過ごしただけだった。一般の家庭を案内し、普通のそば屋で昼食を取り、近所の商店街を歩いた。間口の狭い商店がぎっしり並んでいるのを見て驚いていた。何もかもが大きい北京のスケールとは違う。それぞれが凝っていて、個性的で、人情味があると喜んでくれた。パチンコ店も、喫茶コーナーのある小さな本屋も米屋も、みな興味津々だった。満開の梅に喜びつつ、桜がまだ見られないことを惜しんでいた。次回はゆっくり花見にでも連れ出そうと思う。

残念なのは、自国の状況を語る彼らの表情は決して明るくないように見えたことだ。私の錯覚であれば幸いだが、昨今、ますます強化されるメディア統制が影を落としているのだとしたら深刻だ。良心を持っている人たちの表情を曇らすようなことはみなが望まない。喜ばしく、楽しくなければいけない。

『春日 酔いより起きて 志を言う』(李白)

2016-02-29 01:30:21 | 日記


昨晩は愉快な仲間に囲まれ、至福の時を過ごした。ビールとワイン、焼酎と白酒を合わせ飲んだが、目覚めはさわやかだった。晴れ晴れとした心持のせいだろう。李白の詩『春日 醉いより起きて 志を言う』を思った。

世に処(お)ること 大夢の若し
胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を労する
所以(ゆえ)に終日醉い
頽然として 前楹(ぜんえい)に臥す ※前楹は「入口の柱」の意
覚め来たって 庭前を眄(なが)むれば
一鳥 花間に鳴く
借問す 此(こ)れ 何(いづ)れの時ぞ
春風 流鶯(りゅうおう)に語る ※流鶯は「鳴きながら飛ぶ鶯」
之に感じて歎息せんと欲す
酒に対して還(ま)た自ら傾く
浩歌して明月を待ち
曲尽きて已に情を忘る
(松浦友久編訳『李白詩選』)

時は春である。庭の梅が満開だ。鶯が梅花の間に見える。仲間に囲まれ、ついうれしくなって飲み過ぎてしまった。春眠暁を覚えず、と言うではないか。酔いから目覚めたが、まだ酔っているような余韻がある。酔っているのか覚めているのか。人生も所詮は同じ。あくせくしてもしょうがない。夢か現かの境などは、もともとあいまいなものなのだ。『荘子』には荘子が夢の中で胡蝶になり、目が覚めた後、胡蝶が目の前にある「現実」の夢を見ているのではないかと自問する有名な「胡蝶の夢」の物語がある。李白の文『春夜 桃李の園に宴するの序』には次の言葉がある。

「夫れ天地は、万物の逆旅(げきりょ)にして、光陰は百代(ひゃくだい)の過客(かかく)なり。而して浮生は夢の若し、歓を為すこと幾何(いくばく)ぞ。古人 燭を秉(と)りて夜遊ぶは、良(まこと)に以(ゆえ)有るなり」

「浮世は夢のごとし」とは荘子への共感だろう。この境地が、月と影を相手に独酌する詩を生んだ。夜の遊びを高らかと称賛するのは酒仙の心意気だ。私もそれに乗じて羽目を外させてもらったわけである。

人の意識はかくも確固としたものではない。現代の大量情報化社会において、個人の覚醒を維持し続けるのは容易でない。ひとたびインターネットの海に飛び込めば、迷路と知らずに迷い込むか、混沌の中で自分を見失うか、夢と現実の境さえもあいまいになってしまうだろう。眼前の世界をみなが共有しているという幻想に支えられているからこそ成り立つ空間なのだから。むしろ、仲間に囲まれ酒に酔っている方がより目覚めていると言えるかもしれない。

駆けつけ三杯を中国では「罰として三杯」と言う。もともとは遅れてきた罰ではない。気の利いた詩を詠めない罰である。酔いつつ覚めていなければできない遊びが詩作だったというわけだ。眠くなってきたが、今夜はどんな夢を見るのか。それとももう大夢の中にいるのか。うるう年のおまけもまた夢の如し。

第26代日本さくらの女王が誕生!無錫市政府も参観に訪れた

2016-02-28 09:08:21 | 日記

(選出された第26代日本さくらの女王・プリンセス4人と歴代の女王たち)

昨日、ホテル・ニューオータニで第26代日本さくらの女王の最終選考が行われ、女王2人とプリンセス2人が誕生した。これから2年間、桜植樹や桜を通じた国際交流行事に参加する。だれが見ても申し分のない結果だった。真珠の王冠を戴いた女王は、自然な受け答えが好感されたように思う。午前中は非公開、午後は公開で、日本語と英語による審査が行われた。公開審査には両親や友人知人も観衆として参加した。英語の回答に詰まる候補者の姿を見て、あたかも会場中が「がんばれ」と心の声援を送っているかのような空気に包まれた。そんなコンテスト風景だった。優劣は生じたが、候補に選ばれた27人の才女たちにねぎらいと祝福の言葉を贈りたい。



今回のコンテストには初めて、中国からの来客があった。姉妹都市訪問のため来日中の無錫市外事弁公室の陳明耀主任ら5人が会場に訪れ、紹介をされた。無錫市は太湖のほとりに、日本の有志による植樹から生まれた3万本の「中日桜花友誼林」がある。毎春、無錫国際桜祭りが開かれ、日本からも多数が参加している。遠からず無錫で中国のさくら女王が誕生する日が来るかも知れない。

無錫で植樹を続けているのは「日中共同建設桜友誼林保存協会」のメンバーである。1988年からスタートし、今年は29回目となる。活動を振り返る「桜友誼林あゆみ展」が各地で行われており、今年の日程は以下の通りである。
2月1~4日 群馬県藤岡市のららん藤岡(高速SA内)花の交流館1階
2月12~14日 埼玉県坂戸市入西地域交流センター
2月18~21日  〃  鶴ヶ島市民活動推進センター
2月25~28日  〃  越生町中央公民館
3月6~7日    〃  毛呂山町中央公民館

貴い地道な営みだ。私は3月6日に出かけようと思っている。無錫桜祭りを終え、3月27日には上海で同会による報告会を開くべく、準備を進めている。桜を通じた縁がさらに広まることを願っている。



日本文化の使者「日本さくらの女王」とは・・・本日第26代が誕生

2016-02-27 10:43:53 | 日記
昨日、ホテル・ニューオータニで第26代日本さくらの女王の選出大会前夜祭が行われた。「日本さくらの女王」は公益財団法人「日本さくらの会」が1966年から2年に1回選出している。女王とプリンセスがそれぞれ2人ずつ選ばれる。いわゆるミスコンではなく、日本のさくら文化振興に尽くす親善大使である。対外的なPRが盛んでないためあまり知られていないが、重要な役割を担っている。以下のサイトで紹介がある。

http://www.sakuranokai.or.jp/queen/

昨日は書類審査で選ばれた27人の女性(18~23歳)が紹介され、簡単なあいさつをした後、関係者との懇談が行われた。それぞれが自分で用意したドレス姿で、参加者からさかんに記念写真をせがまれていた。話を聞いてみると大学生がほとんどだ。認知度が低いため、応募のきっかけは知り合いに紹介されてというケースが多いが、「自分の世界を広げたい」「国際的な場で活躍したい」と明確な答えが返ってくる。とかく内向きだと言われる現代の若者にも、こうした外向きの意欲が根付いていることを力強く思った。



昨日の昼には、女王候補候にとって恒例となっている横浜・外人墓地への墓参が行われた。ワシントン・ポトマック河畔への桜寄贈を提案した米国人ジャーナリスト、シドモア女史(1856~1928)の墓である。しばしば日本を取材し、日本を愛した女性である。今や、世界的に知られるようになった「Tsunami」(津波)の表記も、彼女が明治時代の三陸地震津波を取材し、『ナショナルジオグラフィックマガジン』(1896年9月号)に掲載されたのが始まりだと言われている。





日本さくらの会は、1964年、東京オリンピック開催に際し、都市開発や公害によって衰退していた桜を守るため、超党派の国会議員有志によって設立された。それもワシントンの桜愛護に触発された面があり、井戸を掘ったシドモア女史への墓参につながっている。

本日午後、女王が決定する。今日の晴れ舞台は和服である。緊張していた候補たちの顔が思い浮かぶ。どんな結果であれ、よい経験になるであろう。実は中国の出版社が、知られていない日本さくらの会やさくらの女王を含め、日本の幅広い桜文化を紹介する本を出版することになり、NPO日中独創メディアの事業として私が編集を担当している。一連の行事をフォローしているのもそのためだ。桜を通じた日中交流がさらに実を結ぶことを願っている。


2014年4月16日 読売新聞解説面


本邦初公開のフェルメール《水差しを持つ女》が描いた日常の美

2016-02-26 14:19:50 | 日記
昨日、六本木の森美術館で「フェルメールとレンブラント:17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展」を見た。オランダが世界の強国だった17世紀黄金時代の作品60点を紹介したものだ。ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵の傑作、フェルメールの《水差しを持つ女》とレンブラントの《ベローナ》は日本初公開というのが触れ込みだった。森ビルに知り合いはいるが、それとは関係なく自分でチケットを買って入場したので、本文に商業的な意図は全くない。平日だというのに入場者が多かったのにはびっくりした。

http://www.roppongihills.com/events/2016/01/macg_vermeer_rembrant/

時間を止めて絵を見たいと思ったのは、思うに学生時代以来のことではないか。スペインに留学中、マドリッドのプラド美術館にさんざん通って宗教画を見た後、パリのオルセー美術館で印象派の光を浴びたときの衝撃は忘れられない。機内でたまたまジャン・ジュネの『泥棒日記』(朝吹三吉訳)を読んでいたら、同著翻訳者の妹であるフランス文学者の朝吹登美子さんが偶然にも隣に座っていて、一時期、親交を結ばさせて頂いたのもあのころだった。記者になってから、駆け抜けるように仕事をしてきて、息をつく暇がなかったというのが正直なところだ。

フェルメールの《水差しを持つ女》の前でしばし時がたつの忘れて立ち尽くした。青いスカート着て、白いスカーフを頭にかけた女性が窓からの光を浴びている。青は年月を経て、ますます青みを増しているように見える。色が生きているのだ。「青はこれを藍より取れども藍より青く」という『荀子』冒頭の言葉を思い出した。片手に水差しを持ち、それを受ける金色の盆はテーブルクロスの柄を映し出すほど滑らかだ。光があらゆる空間の隙間に入り込み、薄手のスカーフに隠れた髪をも描き出させている。さりげない日常の美を見つけた画家の目をしっかりと感じることができた。自分の目だけが見出した美に酔いしれ、画家はさぞ誇らしかっただろう。美は表現されることによって初めて美しいものになる。

先日、長崎に出かけたときにも感じたが、当時、アジアの海に出没していたのは東インド会社を設立し、大規模な植民地経営に乗り出していたオランダだった。大航海時代に先んじたスペインから独立し、スペインに代わって世界の覇者になろうとしていたのだ。広範な富裕層が出現し、それまで文化のパトロンであった王室や貴族になりかわって、新たな文化の担い手となった。歴史や宗教を題材にした従来の作品から、庶民の日常にかかわる風景画や静物画、人物画の市場ができあがっていった。思想の解放と言ってよい現象だった。

だが今度はオランダにかわって産業革命を経た英国が世界の海を支配し始める。東アジアではアヘン戦争以後の近代史である。国力の衰えたオランダは、文化的にも衰退し、古典主義の復興に逆行する。絵画からは鮮やかな光彩が消え、憂鬱な暗色に塗り替えられる。経済と文化の相関関係は興味深い。

中国に置き換えてみれば、富裕層の出現によって文化の大衆化が進む一方、それを低俗化として攻撃し、「歴史画」や「宗教画」の推奨によって主導権を握ろうとする習近平の闘いという図式を描くことができる。文化の不毛を招いた文化大革命の教訓をいかに学び取るかが、習近平による文化政策の成否のカギを握るであろう。今年は文革50周年である。半世紀が経過し、記憶が風化を始めている。大いに議論をすべきだが、対岸からはわずかな老兵の奮闘以外、なかなか良心の声が聞こえてこない。

こちら側も見ているだけではだめだ。行動しなければならない。声を出し続けなければならない。知行合一こそが求められている。言動不一致のダブルスタンダードは許されない。