「上海そんなに遠くない」
終戦前、上海の日本人子女が通った国民学校(小学校)の5、6年で使用されていた副読本に、こんな詩の一節があった。三井物産社員の父親とともに14歳までを上海で過ごした作家の林京子が、著書『上海』(1983年)の冒頭で紹介している。当時、長崎から上海までは船で丸1日かかった。ある少年が祖母に見送られて日本を離れ、上海に入港した時、望郷の思いにかられてつぶやいたのが、「上海そんなに遠くない」だった。今年は戦後70年を迎える。当時の小学生もご健在であれば80歳前後だ。語呂がよい一節なので、往事を知る方々の耳にはまだ残っているかも知れない。
アヘン戦争後の南京条約によって開かれた上海は20世紀初頭、アジアの金融・貿易センターとして東洋一の繁栄を誇った。日本の大陸進出政策があったにせよ、ビザ無しで西洋に触れることのできる上海には、多種多様な日本人が集まった。一部の大企業幹部を除き、日本人の大半は蘇州河北岸の虹口地区に住み、その数は最盛期で10万人を超えた。日本風の家屋が立ち並び、長崎から船で運ばれる鮮魚や野菜が商店にそろった。通常の小中高校ばかりか女子高、商業高までが設けられ、『上海日報』『上海日日新聞』など10紙以上の日本語新聞が発行された。さながら日本の小さな町を移してきたような暮らしだった。
窮乏から逃れるように上海に渡った詩人の金子光晴は自伝『どくろ杯』(1971年)でこう描いた。
「いずれ食いつめものの行く先であったにしても、それぞれニュアンスがちがって、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった」
1930年の上海紙『申報』によると、大衆娯楽場の「大世界(ダスカ)」で「佐藤富次」という山形県出身の男性が生きたヘビやトリを食べる芸を毎日6回披露し、人気を呼んだという。それが災いし、日本領事館が「国体を辱める」として本人を監禁したとの後日談がある。
上海は世界の多様な文化、人々を受け入れながら、大きな鍋でグツグツとごった煮にするように人を引き付けてやまない魅力と活力を生んできた。共産主義革命から逃れた白系ロシア人やナチスに追われたユダヤ人、世界の富豪から犯罪者までが集まり、競馬場、ダンスホールそして左翼文学までが混在する多層多元の文化が現出した。国際的な移民都市であり、魔都という呼び名はこうして生まれた。現在の米国が有するソフトパワーに近いものを持っていたと言ってよい。
一方、上海の租界は独自の治安、司法制度を持ち、中国政府の行政権を排除した。中国の一般庶民も差別を受けた。船には外国人用の1等室のほか、条件の悪い中国人向けの「中国人1等室」が設けられた。外灘に本社ビルを構えた英字紙『ノースチャイナ・デイリーニュース(字林西報)』はアヘンに侵された中国人を「東洋の病人(東亜病夫)」と侮辱した。上海は半植民地として屈辱の歴史を刻むが、「中国国内の外国」という特殊な空間が反体制運動の拠点も提供した。中国共産党が1921年、第1回大会を開催したのは仏租界である。この複雑さが魔都たるゆえんだった。
時代は大きく変わった。中国人の訪日観光が増え続け、2014年、中国から日本の旅行者は前年比83%増の241万人と史上最高を記録した。上海総領事館は世界の在外日本公館として6年連続、ビザ発給最多件数を記録し続けている。ビザ担当の同館員は残業と休日出勤で過酷な勤務を強いられているほどだ。中国人にとって「日本そんなに遠くない」時代を迎えている。
これに反し、上海を訪問する邦人、駐在する邦人は減少している。2013年10月時点で上海の在留邦人は4万7700人と前年比で9700人激減した、とのニュースが昨年話題となった。その後もペースは落ちたものの減少傾向は続いている。人の逆流現象にともない、日本人の上海、中国への関心や理解力も失われつつあるように感じられる。羽田空港から3時間で着き、日帰りで会議に参加することができるほど時間的距離は縮まったが、感情の距離は「上海そんなに近くない」状況が生まれている。
周囲の中国人からは、日本人が逃げ出し始めたのかと聞かれるが、全くそんなことはない。日系企業の数は減っていない。
上海日本商工クラブの会員企業数は2015年1月で2460社と世界最大の規模を有し、2013年12月の2412社、2012年12月末時点の2390社から微増を続けている。同クラブに加入していていない中小零細企業は会員企業数の倍以上にのぼるとされる。中国全体の外資系企業数でも2012年末時点で日本は国別最多の2万3094社を数え外資系全体の7.9%を占める(『中国貿易外経統計年鑑』)。前年比では1.3%増え、微増の傾向は一致している。日本メディアについて言えば、海外支局縮小の動きが主流である中、中国の取材拠点や人員はむしろ増強の傾向にある。
また、「日中関係は最悪だ」としばしば耳にさせられる政治都市・北京に対し、膨大な中産階級が育っている上海では日本の食やファッション、建築まで和風文化が年々浸透していく様を実感する。北京を拠点にする日本留学帰りの中国人記者が先日、上海から戻ってきて、「上海がだんだん東京に似てきている」と驚いていた。
先月、北京の日本大使館で開かれた経済文化講演会で、全国展開をしているイオン中国の羽生有希総裁から、「日中文化の差よりも、国内地域間における文化の差の方が大きい」との話を聞いた。地域間の違いは格差であると同時に多様性でもある。「中国は・・・」と一括りにしてしまうと見失うものが多い。日本もその多様性の中に身を置いてしまえば、「遠くない」感覚が戻ってくるのかも知れない。
終戦前、上海の日本人子女が通った国民学校(小学校)の5、6年で使用されていた副読本に、こんな詩の一節があった。三井物産社員の父親とともに14歳までを上海で過ごした作家の林京子が、著書『上海』(1983年)の冒頭で紹介している。当時、長崎から上海までは船で丸1日かかった。ある少年が祖母に見送られて日本を離れ、上海に入港した時、望郷の思いにかられてつぶやいたのが、「上海そんなに遠くない」だった。今年は戦後70年を迎える。当時の小学生もご健在であれば80歳前後だ。語呂がよい一節なので、往事を知る方々の耳にはまだ残っているかも知れない。
アヘン戦争後の南京条約によって開かれた上海は20世紀初頭、アジアの金融・貿易センターとして東洋一の繁栄を誇った。日本の大陸進出政策があったにせよ、ビザ無しで西洋に触れることのできる上海には、多種多様な日本人が集まった。一部の大企業幹部を除き、日本人の大半は蘇州河北岸の虹口地区に住み、その数は最盛期で10万人を超えた。日本風の家屋が立ち並び、長崎から船で運ばれる鮮魚や野菜が商店にそろった。通常の小中高校ばかりか女子高、商業高までが設けられ、『上海日報』『上海日日新聞』など10紙以上の日本語新聞が発行された。さながら日本の小さな町を移してきたような暮らしだった。
窮乏から逃れるように上海に渡った詩人の金子光晴は自伝『どくろ杯』(1971年)でこう描いた。
「いずれ食いつめものの行く先であったにしても、それぞれニュアンスがちがって、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった」
1930年の上海紙『申報』によると、大衆娯楽場の「大世界(ダスカ)」で「佐藤富次」という山形県出身の男性が生きたヘビやトリを食べる芸を毎日6回披露し、人気を呼んだという。それが災いし、日本領事館が「国体を辱める」として本人を監禁したとの後日談がある。
上海は世界の多様な文化、人々を受け入れながら、大きな鍋でグツグツとごった煮にするように人を引き付けてやまない魅力と活力を生んできた。共産主義革命から逃れた白系ロシア人やナチスに追われたユダヤ人、世界の富豪から犯罪者までが集まり、競馬場、ダンスホールそして左翼文学までが混在する多層多元の文化が現出した。国際的な移民都市であり、魔都という呼び名はこうして生まれた。現在の米国が有するソフトパワーに近いものを持っていたと言ってよい。
一方、上海の租界は独自の治安、司法制度を持ち、中国政府の行政権を排除した。中国の一般庶民も差別を受けた。船には外国人用の1等室のほか、条件の悪い中国人向けの「中国人1等室」が設けられた。外灘に本社ビルを構えた英字紙『ノースチャイナ・デイリーニュース(字林西報)』はアヘンに侵された中国人を「東洋の病人(東亜病夫)」と侮辱した。上海は半植民地として屈辱の歴史を刻むが、「中国国内の外国」という特殊な空間が反体制運動の拠点も提供した。中国共産党が1921年、第1回大会を開催したのは仏租界である。この複雑さが魔都たるゆえんだった。
時代は大きく変わった。中国人の訪日観光が増え続け、2014年、中国から日本の旅行者は前年比83%増の241万人と史上最高を記録した。上海総領事館は世界の在外日本公館として6年連続、ビザ発給最多件数を記録し続けている。ビザ担当の同館員は残業と休日出勤で過酷な勤務を強いられているほどだ。中国人にとって「日本そんなに遠くない」時代を迎えている。
これに反し、上海を訪問する邦人、駐在する邦人は減少している。2013年10月時点で上海の在留邦人は4万7700人と前年比で9700人激減した、とのニュースが昨年話題となった。その後もペースは落ちたものの減少傾向は続いている。人の逆流現象にともない、日本人の上海、中国への関心や理解力も失われつつあるように感じられる。羽田空港から3時間で着き、日帰りで会議に参加することができるほど時間的距離は縮まったが、感情の距離は「上海そんなに近くない」状況が生まれている。
周囲の中国人からは、日本人が逃げ出し始めたのかと聞かれるが、全くそんなことはない。日系企業の数は減っていない。
上海日本商工クラブの会員企業数は2015年1月で2460社と世界最大の規模を有し、2013年12月の2412社、2012年12月末時点の2390社から微増を続けている。同クラブに加入していていない中小零細企業は会員企業数の倍以上にのぼるとされる。中国全体の外資系企業数でも2012年末時点で日本は国別最多の2万3094社を数え外資系全体の7.9%を占める(『中国貿易外経統計年鑑』)。前年比では1.3%増え、微増の傾向は一致している。日本メディアについて言えば、海外支局縮小の動きが主流である中、中国の取材拠点や人員はむしろ増強の傾向にある。
また、「日中関係は最悪だ」としばしば耳にさせられる政治都市・北京に対し、膨大な中産階級が育っている上海では日本の食やファッション、建築まで和風文化が年々浸透していく様を実感する。北京を拠点にする日本留学帰りの中国人記者が先日、上海から戻ってきて、「上海がだんだん東京に似てきている」と驚いていた。
先月、北京の日本大使館で開かれた経済文化講演会で、全国展開をしているイオン中国の羽生有希総裁から、「日中文化の差よりも、国内地域間における文化の差の方が大きい」との話を聞いた。地域間の違いは格差であると同時に多様性でもある。「中国は・・・」と一括りにしてしまうと見失うものが多い。日本もその多様性の中に身を置いてしまえば、「遠くない」感覚が戻ってくるのかも知れない。