行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「上海 そんなに遠くない」(2015年4月3日)

2015-07-02 01:32:34 | シャンハイリーダーズ・コラム(2014年
「上海そんなに遠くない」

終戦前、上海の日本人子女が通った国民学校(小学校)の5、6年で使用されていた副読本に、こんな詩の一節があった。三井物産社員の父親とともに14歳までを上海で過ごした作家の林京子が、著書『上海』(1983年)の冒頭で紹介している。当時、長崎から上海までは船で丸1日かかった。ある少年が祖母に見送られて日本を離れ、上海に入港した時、望郷の思いにかられてつぶやいたのが、「上海そんなに遠くない」だった。今年は戦後70年を迎える。当時の小学生もご健在であれば80歳前後だ。語呂がよい一節なので、往事を知る方々の耳にはまだ残っているかも知れない。

アヘン戦争後の南京条約によって開かれた上海は20世紀初頭、アジアの金融・貿易センターとして東洋一の繁栄を誇った。日本の大陸進出政策があったにせよ、ビザ無しで西洋に触れることのできる上海には、多種多様な日本人が集まった。一部の大企業幹部を除き、日本人の大半は蘇州河北岸の虹口地区に住み、その数は最盛期で10万人を超えた。日本風の家屋が立ち並び、長崎から船で運ばれる鮮魚や野菜が商店にそろった。通常の小中高校ばかりか女子高、商業高までが設けられ、『上海日報』『上海日日新聞』など10紙以上の日本語新聞が発行された。さながら日本の小さな町を移してきたような暮らしだった。

  窮乏から逃れるように上海に渡った詩人の金子光晴は自伝『どくろ杯』(1971年)でこう描いた。
 「いずれ食いつめものの行く先であったにしても、それぞれニュアンスがちがって、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった」

 1930年の上海紙『申報』によると、大衆娯楽場の「大世界(ダスカ)」で「佐藤富次」という山形県出身の男性が生きたヘビやトリを食べる芸を毎日6回披露し、人気を呼んだという。それが災いし、日本領事館が「国体を辱める」として本人を監禁したとの後日談がある。

 上海は世界の多様な文化、人々を受け入れながら、大きな鍋でグツグツとごった煮にするように人を引き付けてやまない魅力と活力を生んできた。共産主義革命から逃れた白系ロシア人やナチスに追われたユダヤ人、世界の富豪から犯罪者までが集まり、競馬場、ダンスホールそして左翼文学までが混在する多層多元の文化が現出した。国際的な移民都市であり、魔都という呼び名はこうして生まれた。現在の米国が有するソフトパワーに近いものを持っていたと言ってよい。

 一方、上海の租界は独自の治安、司法制度を持ち、中国政府の行政権を排除した。中国の一般庶民も差別を受けた。船には外国人用の1等室のほか、条件の悪い中国人向けの「中国人1等室」が設けられた。外灘に本社ビルを構えた英字紙『ノースチャイナ・デイリーニュース(字林西報)』はアヘンに侵された中国人を「東洋の病人(東亜病夫)」と侮辱した。上海は半植民地として屈辱の歴史を刻むが、「中国国内の外国」という特殊な空間が反体制運動の拠点も提供した。中国共産党が1921年、第1回大会を開催したのは仏租界である。この複雑さが魔都たるゆえんだった。
 
 時代は大きく変わった。中国人の訪日観光が増え続け、2014年、中国から日本の旅行者は前年比83%増の241万人と史上最高を記録した。上海総領事館は世界の在外日本公館として6年連続、ビザ発給最多件数を記録し続けている。ビザ担当の同館員は残業と休日出勤で過酷な勤務を強いられているほどだ。中国人にとって「日本そんなに遠くない」時代を迎えている。
 
 これに反し、上海を訪問する邦人、駐在する邦人は減少している。2013年10月時点で上海の在留邦人は4万7700人と前年比で9700人激減した、とのニュースが昨年話題となった。その後もペースは落ちたものの減少傾向は続いている。人の逆流現象にともない、日本人の上海、中国への関心や理解力も失われつつあるように感じられる。羽田空港から3時間で着き、日帰りで会議に参加することができるほど時間的距離は縮まったが、感情の距離は「上海そんなに近くない」状況が生まれている。
 
 周囲の中国人からは、日本人が逃げ出し始めたのかと聞かれるが、全くそんなことはない。日系企業の数は減っていない。
 上海日本商工クラブの会員企業数は2015年1月で2460社と世界最大の規模を有し、2013年12月の2412社、2012年12月末時点の2390社から微増を続けている。同クラブに加入していていない中小零細企業は会員企業数の倍以上にのぼるとされる。中国全体の外資系企業数でも2012年末時点で日本は国別最多の2万3094社を数え外資系全体の7.9%を占める(『中国貿易外経統計年鑑』)。前年比では1.3%増え、微増の傾向は一致している。日本メディアについて言えば、海外支局縮小の動きが主流である中、中国の取材拠点や人員はむしろ増強の傾向にある。
 
 また、「日中関係は最悪だ」としばしば耳にさせられる政治都市・北京に対し、膨大な中産階級が育っている上海では日本の食やファッション、建築まで和風文化が年々浸透していく様を実感する。北京を拠点にする日本留学帰りの中国人記者が先日、上海から戻ってきて、「上海がだんだん東京に似てきている」と驚いていた。
 
 先月、北京の日本大使館で開かれた経済文化講演会で、全国展開をしているイオン中国の羽生有希総裁から、「日中文化の差よりも、国内地域間における文化の差の方が大きい」との話を聞いた。地域間の違いは格差であると同時に多様性でもある。「中国は・・・」と一括りにしてしまうと見失うものが多い。日本もその多様性の中に身を置いてしまえば、「遠くない」感覚が戻ってくるのかも知れない。

「筆を捨ててはならない」と手渡されたペン(2015年6月25日) 

2015-07-02 01:22:49 | シャンハイリーダーズ・コラム(2014年
1988年以来、27年間籍を置いた新聞社を離れることを決意した。中国駐在は2005年から10年間に及んだ。6月いっぱいは在職中のため、辞職理由は「一身上の都合」ということでご勘弁頂きたい。先のことは白紙で、日本の同僚たちからは「大丈夫?」「元気出して!」と気遣いのメールが届くが、「元気がなかったらやめていない。元気が有り余っているから飛び出すんだよ」と応じている。誇張や空元気ではなく、偽りのない気持ちである。
昨年10月、中国にいる日中の経済関係者33人で『日中関係は本当に最悪なのか 政治対立下の経済発信力』(日本僑報社)を出版した。私と同社の段躍中編集長とが発案し、官民の協力を得て仕上がった作品だ。段氏には申し訳ないが、決してベストセラーになる派手な本ではない。だが、2012年秋の日中衝突以来、メディアを中心に「日中関係は史上最悪」との枕詞が一人歩きしている現状に疑問を投げかけ、各自の目の前にある日中関係に向き合うべきとした問題提起は一定の支持を得たと実感している。
中国の改革・開放政策が成果を上げて国内市場が拡大し、各種の規制緩和措置によって外資を含めた市場競争が激化している。日系企業にとって、中国はもはや低廉なコストでモノを生産する工場ではなく、最先端の技術やサービスを投じて活路を見いだす新天地になった。同書では、「関税によって守られている日本市場がマイナーリーグ、世界中の一流選手達がしのぎを削っているメジャーリーグが中国市場」との指摘もあった。
同書の出版を通して生まれた「経済発信力プロジェクト」メンバーの輪を土台に、執筆者を中心とした講演会をこれまで計7回、北京、上海で開いた。北京でのイベントには上海からもDNP中国代表の伊東千尋氏や日本さくらの会の工藤園子氏、ベクトル中国の三澤志洋氏らが参加。日本大使館や上海総領事館の協力に加え、学生や若手社会人で作る日中の未来を考える会の参画も受け、輪がますます広がっている。同会は上海支部代表の倉岡駿君(上海交通大学大学院生)らが熱心に日中交流活動を続けているが、北京にも5月に支部が発足した。
執筆者の1人で中国研究40年の稲垣清氏(香港在住)が4月、『中南海 知られざる中国の中枢』(岩波新書)を出版したのを期に、記念パーティーが5月21日、北京の釣魚台国賓館で開かれた。「経済発信力プロジェクト」が主体となってパーティーの準備を担当し、当日は木寺大使夫妻をはじめ計約70人が参加する盛況となった。祝賀と同時に、稲垣氏の人柄に支えられた得難い交流の場となった。続けて24日には上海総領事館で、高速鉄道のレール留め金具を製造している蘇州石川制鉄有限公司の塩谷外司董事長と稲垣氏とのコラボによる講演会も行った。塩谷氏もまた『経済発信力』執筆者である。
稲垣氏著書のタイトルにある中南海は、言うまでもなく中国共産党の最高指導部が起居し、重要な意思決定が行われてきた場所だが、その分、ベールに包まれている。『中南海』は、実際に自分の目で見た体験に加え、数多くの資料を渉猟して実態に迫ろうと試みた力作だ。このほか、読んでいて行間から感じ取ったことがあるので、あえて書き記したい。

いわゆるチャイナ・ウオッチャーは、限られた情報をもとに、歴史や制度、人脈といった所与数値の加減乗除を繰り返し、難解な方程式を解く作業を強いられる。まさに中南海の迷路をさまよい、戸惑い、時には裏切られ、それでも愛着を捨てきれずに対象を追い続けるようなところがある。紛れもなく稲垣氏はその代表のうちの1人である。中南海の門に近づいて武装警察に制止されたり、追い立てられたりした経験もある。そうやって続けてきた「不惑」の40年である。同書では、不惑の域に達した筆者が、迷いや戸惑いから解放され、楽しみながら路上探検をするように筆を進めている様子が浮かんでくる。少年が目を輝かせ、好奇心に突き動かされながら歩き回る姿を彷彿させる。本コラムのタイトル「陶然自得」に似た、一つの境地かも知れない。
出版記念パーティーの最後、稲垣氏が最後のあいさつをし、司会を務めた私に釣魚台国賓館特製のペンを贈ってくれた。「筆を捨てないように」とのメッセージを添えて。チャイナ・ウオッチャーの先輩が残したありがたい激励だった。
私は中国を見ながら、常に我が身、日本社会のあり方を考える姿勢を心がけてきた。中国は一党独裁国家で言論の自由がなく、思想も統制されている、と多くの人は知識として知っている。私も来る前はそう思っていた。だが、中国滞在中、そうした国情の中で、想像を絶する犠牲を払いながら自由を勝ち取ろうとする人たちがいることを知った。困難な状況の中、自身の辛い体験と深い思索に支えられた独自の思想を追求する高邁な人格にも出会った。
そこで我が身を振り返った。「民主国家」の一員であるはずの日本が、果たして民主主義を大切に育て、その成果を享受していると言えるのだろうか。みなが押し黙って、時流に流されることに慣れてしまってはいないか。内向きの発想に閉じ籠もり、台頭する隣国から目をそらそうとしてはいないか。まだまだたくさん自問すべきことはある。ペンを置く時間はない。引き続き中国をそして日中を、日本を書き続けることを誓い、本コラムの幕を閉じたい。

本コラムの担当期間は短かったものの、多くの人から好意的な反応を頂いたことに感謝申し上げます。いつかまたどこかでお会いできる日を楽しみにしています。近いうちに!自己PRで恐縮ですが、6月末、文藝春秋から『上海36人圧死事件はなぜ起きたのか』が刊行されます。上海の観光名所・外灘(バンド)で2014年の大みそかに起きた雑踏事件を通じ、中国社会が抱える問題を幅広く掘り下げようと試みた中国論です。期せずして新聞社を辞して後の処女作となりました。これも書き続けることの決意だと受け止めて頂ければ幸いです。

ベテラン商社マンが残した言葉(2015年5月5日)

2015-07-02 01:19:16 | シャンハイリーダーズ・コラム(2014年
北京で先日、日本に帰任するベテラン商社マンの送別会が開かれた。印象に残ったのは次の言葉だ。
「中国市場の動向だけでなく、中国が世界で何をしようとしているのかを探ることが問われている」
3兆円を超える政府開発援助(ODA)の円借款を受けた中国は今や、日米に次ぐ投資大国になった(2014年、1029億ドル)。外国からの投資受け入れでは世界最大だが(2014年、1,196億ドル)、資金の出入りがトントンに近づいている。中国がどこで石油や鉄鉱石を買おうとしているのか、食糧の輸入先はどこか。外資には競争相手にも、パートナーにもなり得る。正しい中国観を持つことが正しい世界観につながる時代だ。ベテラン商社マンはそのダイナミックな変化を肌で感じたのだった。
彼が残したもう一つの言葉がある。
日本には『どうせ中国だから』『やっぱり中国だから』という偏見や先入観が根強く残っている」
中国に身を置く多くの日系企業駐在員は、日本にある本社との対中観ギャップに悩まされる。本社とのやり取りだけで神経をすり減らしてしまう、という駐在員の不満話はあちこちで耳にする。メディアの報道を元凶とする見方も存在する。2010年に米国に次ぐ世界第2位になった中国の国内総生産(GDP)はすでに日本の倍以上だが、日本は近代以降の「遅れた中国」に対する歴史的な優越感もあって、なかなか「援助する日本」「援助される中国」の認識から抜けることができない。中国から見ていると、日本はひたすら現状維持という殻に閉じこもっているように見えてしまう。
興味深い二つの調査がある。米世論調査会社ピュー・リサーチ・センターが毎年、44か国で「中国はスーパーパワーとして米国を超えるか、あるいはすでに超えているか?」と尋ねている世論調査がある。昨年はトータルの集計で「Yes」が49%、「No」が34%だったが、日本人だけをみるとそれぞれ26、69%で世界標準とは反対の評価だった。ちなみに「Yes」が低いのは南シナ海で中国と領土紛争を抱えるベトナム、フィリピンの17%だった。さらに奇異なのは2009年の調査結果と比べ、大半の国は「Yes」の割合が増えているのに対し、日本は「Yes」が35%から26%に減り、「No」が59%から69%に増えていることだ。
一方、英BBC放送が読売新聞社などと24か国で実施した世論調査では、日本が「世界に良い影響を与えている」との回答が49%で5位。日本が「悪い影響を与えている」は全体で30%だが、国別では中国が90%で、前年の74%から増えた。
世界標準とかけ離れたお互いの低い評価は、鏡を見るような反作用を連想させる。悪感情が反射し合っているのである。日中の相互認識は世界標準と非対称な「負の対称化」が生じていると言える。ウォルター・リップマンが名著『世論』で「われわれは見てから定義しないで、定義してから見る」と指摘したように、人は見たいものを見て、聞きたい話を聞く傾向がある。ステレオタイプの思考から逃れるのは容易でない。
経済成長率の目標値が7%に減速されたニュースを聞いた東京の同僚は、「やっぱり中国が米国を超えるのは難しいな」と感想を述べた。日本からは「とうとう中国の崩壊が始まったか」との声も聞こえそうだ。だが中国の7%成長分はタイとマレーシアのGDPを合わせた額に相当する。また、沿海部を中心に重厚長大型からサービス産業化が進み、減速化は自然な流れだと多くの海外エコノミストが分析している。
内陸部を見れば昨年、省レベルで二けた成長に達したのは5か所、9%以上は12か所に及ぶ。多くの地方は発展途上にある。集中的な腐敗撲滅で複数の指導者が不在となった山西省は、目標の9%を大きく下回る4・9%だった。容赦ない摘発で官全体の士気が低下し、李克強首相が「怠け者は許さない」と叱責せざるを得ない状況が生まれている。中国は強さと弱さを抱えながら一党独裁を堅持する難題に挑んでいる。
中国の有識者と接していてしばしば話題に上るのは、中国が装う強さの裏に隠された弱さだ。例えば9月3日の抗日戦争勝利記念日に北京で軍事パレードが行われるが、表向きの強さの誇示とは裏腹に、主要目的の一つは軍内の引き締めだ。李克強首相の言葉通り、徐才厚前中央軍事委副主席ら軍の元最高指導者が相次ぎ摘発されや軍内でも戦意の喪失が生じている。それを統率し、士気を上げるためには、机上の政治教育だけでは足らず、主体的に参加する舞台として軍事パレードが必要となる。
一つの数字や表面的な事象をもって、この複雑で多様な国を測れば必ず見誤る。隣国でありながら、真の姿を見ようとしない日本人が多い。劇的に変化している国際情勢から目をそらし、内に閉じ籠もっているように見える日本には不安を感じる。
深刻な環境汚染の改善や産業構造の高度化を図り、持続可能な成長路線を目指す中国は、問題の解決を市場開放という外圧に頼る道しかなく、目ざとい外資は「弱さ」が生む商機をうかがう。技術やソフトパワーで優位に立つ日系企業には、各地方からの多種多様なニーズが寄せられている。こうした現場に「負の対称化」が生まれる土壌はない。
「定義」なしで強さと弱さを見れば、深い相互依存関係が見えてくる。資源の乏しい日本が世界で生き残っていくため、日本が孤立して再び道を誤らないため、隣国を等身大の正しい目で見ることの大切を、今こそ再認識すべきである。

上海外灘で犠牲となった日系企業スタッフ(2015年3月6日)

2015-07-02 01:17:01 | シャンハイリーダーズ・コラム(2014年
上海外灘(バンド)で2014年12月31日夜、年越しのカウントダウンに集まった雑踏で36人が人波に飲まれ犠牲となった。2月下旬の春節休暇中、現場を訪れると、周囲は「緑化のため」として壁で覆われ、武装警察の物々しい警備が目立った。だが、そのすぐそばの展望エリアでは一般の観光客が記念写真を撮っていた。風化の速さを知るとともに、日本に縁のある2人の犠牲者を思った。
36人のうち上海人は7人だ。1人が最年少の小学生で3人が大学生。残る3人は社会人だが、うち2人は日系企業に勤務、または勤務経験があった。被害者の職業から、上海における日系企業の存在感も浮き彫りになったことになる。
女性の楊佳斐さん(26)は、上海のプロチーム「上海申花サッカークラブ」のファンだった。あの日、外灘に行ったのは、黄浦江の対岸に見えるシティバンクビルの壁面に「申花が優勝」と映し出されるのを見るためだった。上海市新聞弁公室がこの日午後、オフィシャル微博(ウェイボー)で「あなたの新年の願いが今晩、シティバンクビルの大スクリーンに現れる」とメッセージの投稿を呼びかけ、申花ファンたちは一斉に「申花が優勝」と書き込んでいた。ファンたちは携帯で「シティバンクビルを見に行こう」と誘い合っていたのだ。
スポーツ紙『東方体育日報』(1月5日)が彼女の追悼記事を掲載し、父親が警官であること、日本語が堪能で、日系企業に勤めた経験があることなどを紹介した。彼女は微信(ウィー・チャット)のプロフィル欄に韓国語で「私はプリンセス」と書いていたが、韓国語は彼女のほんの趣味に過ぎず、日本語が一番得意だった。
2014年5月まで日系のアパレル会社に勤め、重要な仕事を任されていた。同僚によると「日本語のレベルは高く、日常会話だけでなくメールのやり取りもできた。仕事は真面目で、職場では人気者だった」といい、「愛ちゃん(小愛心)」のニックネームを持っていた。彼女の過去の微博からは、警官の父親が仕事をしている様子を遠くから撮影したり、朝早く起きてダンスコンテストに参加する母親の化粧を手伝ったりと、幸福な家庭環境で育ったことがうかがえる。グルメとアニメ、ファッショが趣味で、他の中国の若者と同様、日本アニメの大ファンだった。特に『ONE PIECE』(ワンピース)が好きで、船医トニートニー・チョッパーのファンだった。おしゃれな上海女性の典型のように、上手に化粧をし、定期的にネイルサロンに通い、日本ブランドのファッションを楽しむ画像がアップされている。余暇には友人と食事をし、カラオケに行き、芝居を見に出かけていた。
日本政府の尖閣諸島国有化に抗議するデモが起きた2012年9月16日には、「6日連続で行われている反日デモは、中国最大の経済都市で、約5万6千人と最多の在留邦人を抱える上海の日本人社会に不安と衝撃を与えている。柳条湖事件から81年となる18日に予告されている大規模デモを控え、日系企業の一部は家族の一時帰国なども検討し始めた」と伝える日本語のニュースを転載し、「今は中国語を話した方がいいよね」とコメントを書き込んだ。反日デモは中国に住む日本人にとって恐怖であると同時に、日系企業にかかわる中国人もまた心を痛めたことは間違いない。身内や知人から「日系企業は危ないからやめた方がいい」と忠告を受けたかも知れないが、大好きなアパレルの仕事を続けた。12月31日午後10時ごろ、外灘からシティバンクビル壁面の液晶スクリーンに「申花が優勝」と表示されるのが見えた。彼女もそれを見て他の申花ファンと一緒に歓喜したことだろう。事件発生の1時間半前だ。
このほか楊聖勇さん(25)は浦東の専門学校を卒業し、日系OA機器メーカーで働いていた。事件発生時は地方から来た同僚に同行して現場にいたが、午後9時31分、友人と微信で会話し、「外灘に行こうかどうかまだ迷っている」と話している。彼から「外灘で年越しをしない?」と声をかけられた中学時代の同級生は結局、行かなかったが、「お人よしで、ユーモアがあり、情に厚い人だった」と話す。直前まで人が多いことを心配しながら、地方から来た仲間のために、上海人は余り足を運ばない外灘のカウントダウンを案内したのかも知れない。この同級生によると、彼は日系OA企業の製造工場で働いていた。日本語もできず、日本にも行ったことがなかったが、最近、正式な従業員に採用され喜んでいたという。
今、36人のことを調べている。平均年齢は22・6歳。うち女性が7割を占める。台湾からの出張者、マレーシア華僑の留学生を除き、27人が大陸の地方出身者だ。両親や学校に通う弟のために仕送りをしていた農村の女性も複数いる。犠牲者の友人が残した言葉がある。「彼は一つの数字じゃない」。36人という数の裏に同じ数の物語があることを肝に銘じたい。

日中を結ぶ無錫の二つの碑(2015年2月8日)

2015-07-02 01:14:59 | シャンハイリーダーズ・コラム(2014年
上海から高速鉄道に乗り40分ほどで江蘇省無錫市に着く。小上海と言われるほど経済発展が著しく、第3次産業も着実に育っている。2013年の1人当たり域内総生産(GDP)はついに2万ドルを突破し、台湾のレベルに達した。広さで琵琶湖の3倍以上もある太湖に面し、中国人が住みたい町ベスト10の常連である。日本人、特にある程度の年齢に達した者にとっては、1986年に歌手の尾形大作が歌った『無錫旅情』がなじみ深い。
〽上海、蘇州と汽車に乗り、太湖のほとり無錫の街へ・・・〽。愛する女性を異郷で想う同曲は中山大三郎氏が作詞・作曲し、レコード売り上げ130万枚以上の大ヒットで1987年の第29回日本レコード大賞を受賞した。
上海に近い地の利に加え、同曲の効果で日本企業が殺到し、一時は1000社を超えた。現在、無錫日商倶楽部の会員数は340社だが、電子情報、機械設備、省エネ、新素材といった先端技術分野ではなお日本企業へのラブコールが盛んだ。
2006年11月には『無錫旅情』の発表20周年を祝う行事が同市人民大会堂で行われ、同市トップ、ナンバー2のほか現地の日系企業や友好姉妹都市関係者ら日中の約1400人による合唱大会が開かれた。当時、私も参加し、同曲に対する無錫市の熱い思いを知らされた。
霧島昇・渡辺はま子のデュエットによる『蘇州夜曲』(西条八十作詞、服部良一作曲)が日中関係者の間で歌われることがあるが、『無錫旅情』ほど経済波及効果を持ったケースはないだろう。太湖畔に『無錫旅情』の歌詞(中国語)を記した石碑があるのもうなずける。
太湖畔にはもう一つ、桜にちなんだ石碑がある。
無錫では、日中共同建設桜友誼林保存協会が中心となり88年から毎年、桜の植樹を行ってきた。戦争を経験した日本の有志が、その悲劇を二度と繰り返してはならないとの思いから続けてきた。今は亡き元会長の長谷川清巳氏は戦時中、安徽省銅陵市駐屯の野戦部隊第133連隊に所属し、湖南省衡陽で負傷し前線の野戦病院に入院した。本院に護送された後、前線で世話になった軍医と出会った際に言われた言葉を、書き残している。
「お前はまだ生きていたのか、もうとっくに死んでいると思っていた、今日までよく頑張り生き抜いた、もう大丈夫だ、お前にはまだ残された任務があるから、今日まで生かされたのだ、早く良くなり残された任務を全うせよ」
こうした体験が桜植樹へとつながっている。同保存協会は、無錫で洪水が発生した際には義援金支援や経済交流を行うなど様々な活動を行ってきた。その功績を称え、太湖畔の鼋頭渚公園に「中日桜花友誼林」と刻まれた巨大な記念石碑が建立された。 無錫市政府も桜の整備に乗り出し、今では同公園を中心に3万本もの桜が美を競い、毎春の「国際桜祭り」は1日1万人以上が訪れる一大観光名所となった。2014年は日中関係が困難な中、日韓の上海総領事が初めてオープニング式典に参加し、日本の和服や茶道を紹介する文化イベントが行われた。今年もまた3月27~29日の3日間、各種の日中文化交流イベントが企画されている。
無錫桜祭りでは昨年、上海で発行されている日本観光専門誌『行楽』が主催する日中お弁当コンテストも開かれ、日中の主婦から学生まで100点以上の作品が集まった。春を題材としたカラフルなお弁当やアニメのキャラクターをイメージしたものなど多種多様だったが、中には中国人学生が初めて作ったおにぎりもあった。そこには次のメッセージが添えられていた。
「私は日本語を勉強している中国の学生です。このおにぎりは授業中で日本人の先生がおにぎりの作り方を私たちに教えてくれたものです。私たちは本当に楽しかった。自分で始め作ったおにぎりはとってもおいしいし、先生にありがとうございますと言いたいと思います」
コンテストでは見栄えだけでなく、作り手の物語も重要なポイントになる。
同誌は2013年発行で、ある国に特化した観光雑誌としては業界初だ。日本観光ブームを背景に発行部数は20万部に伸び、2014年6月のアマゾン観光雑誌ランキングではトップとなった。上海人の袁静社長によると、経営は決して楽ではないというが、今年もまた第2回お弁当コンテストの準備を進めている。毎年、無錫での花見を楽しみにしている私としては、喜ばしい限りである。
雑誌名の『行楽』は、李白の有名な五言古詩『月下独酌』に「しばらく月と影を伴い、行楽 須く春に及ぶべし」(月と影とを相手にして、春の去る前に行楽を楽しもう)と出てくる。日本語では主に観光を指すが、中国では本来、もっと広く人生を楽しむという意味にも用いられてきた。
 過去の辛い体験を乗り越えようとする強い意志に支えられた無錫の桜。もうすぐ見頃が訪れ、また馴染みの顔、新しい顔が集まる。春を満喫し、人生を享受する行楽の中で、新たな出会いや物語が生まれる。抗日戦争70周年に当たる今年は、日中関係が困難な局面を迎えることも予想されるが、これを乗り越えれば来年2016年は『無錫旅情』30周年である。行楽の楽しみはより深まるだろう。