行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディアニュース第1号】日中蜜月時代を築いた胡耀邦の忘れてはならない足跡

2015-11-30 20:18:48 | 日記
東京都千代田区の日本大学経済学部で29日、日中の未来を考える会(保思兆代表)と日中独創メディア(加藤隆則代表)の共催する「胡耀邦生誕100周年記念講演会」が開かれ、学生や中国研究者ら約100人が参加した。中国では胡耀邦の誕生日にあたる20日、北京の人民大会堂で公式の胡耀邦生誕100周年記念座談会が開かれ習近平総書記がスピーチをしたが、日本での関連行事は初めて。同会には胡耀邦時代、初の私営企業家となった姜維・中国光彩事業日本促進会会長も参加し、胡耀邦が経済の改革開放に果たした功績を強調する一方、「胡耀邦が築いた日中蜜月時代は必ずやってくる!」と力強く語った。

講演は、中国の現代知識人研究で知られる日大非常勤講師の及川淳子さんが「胡耀邦生誕100周年の今日的意義」、独立記者の加藤隆則さんが「胡耀邦と習近平の父・習仲勲」のテーマで行った。多くの若者にはなじみの薄くなった胡耀邦の足跡をたとりながら、現代中国の正しい認識や新たな日中関係の構築に向けた問題提起を行う場となった。中国と縁の深いベテランにも参加を呼びかけており、若者に知識と経験を引き継ぐ橋渡しの意味合いも持たせた。

及川さんは、中国共産党の胡耀邦に対する公式評価が、没後から「忠実な共産主義戦士」などとするものから全く変わっていないものの、様々な形で再評価の試みが行われている一方、それも「党の輝かしい歴史」と矛盾しない限定的な内容にとどまっていることを指摘した。胡耀邦失脚の経緯、趙紫陽、天安門事件についての言及はなく、「胡耀邦の再評価が政治体制改革に繋がるわけではない」点を強調した。そのうえで、今回の記念行事が「胡耀邦の清廉なイメージを取り込み、反腐敗運動推進の求心力に援用している」ことに力点を置き、党の基準に基づく「語ってもよい胡耀邦」と「語ってはならない胡耀邦」が分離されたとの見方を示した。

また日中関係については、胡耀邦が1983年11月29日、来日中に長崎平和祈念公園訪問して献花し、1985年には中日友好協会を通じて同公園に「乙女の像を」寄贈したことや、失脚する2か月前の1986年11月8日、北京の中日青年交流センター定礎式で、「愛国主義は、外国の人々と親しく交際し、友好的に協力する、こうした長い見通しを持った国際主義の精神と結び付けなければならない」と演説したことを紹介。胡耀邦の平和主義と国際主義を、今日でも学ぶべき精神的遺産だと訴えた。

一方、加藤さんはまず、20日、湖南省瀏陽の胡耀邦故居を視察した報告を行い、習近平氏の反腐敗運動に呼応し、故居が「廉政教育基地」として再整備されている実態を伝えた。すでに故居敷地内には、習氏を含む歴代指導者が反腐敗の決意を述べた言葉を刻んだ巨石が並べられているという。「実践は真理を検証する唯一の基準」と彫られた、小平筆と思われる石碑に名前がないことから、依然、胡耀邦の完全復権には至っていないことを指摘した。

また、胡耀邦と習仲勲がともに農民の子として生まれ育ち、理不尽な政治的迫害を受ける中で自らは政敵を打ち倒す政治闘争から距離を置き、むしろ、冤罪者を救う事業に力を注いだこと。異なる意見を尊重し、民主的な気風を持っていたこと。これらを二人の共通点として指摘し、「中国共産党が持っている良き伝統」とした。だが、現政権にそれが引き継がれているかどうかという参加者からの質問については、「習近平は父親を非常に尊敬しており、父親が受けた迫害や個人崇拝の弊害は熟知しているはずだ」としながらも、「現在行われている言論統制などはむしろ後退している印象を持つ」と否定的な見方を示した。そのうえで、「現在は集権化を進めている過程であり、これからその権力をどのように使おうとしているのか。二期目の政策を観察する必要がある」と述べた。

日中の未来を考える会と日中独創メディアでは今回の会を有意義だったと総括し、今後も協力して同種イベントを開いていく方針だ。(完)



※日中独創メディアではホームページを作成し、各種情報を発信していく予定だが、まだ準備中につき、本ブログにて代用させて頂く。


「”光彩(光栄)”な涙」で締めくくられた胡耀邦生誕100周年記念講演会

2015-11-30 14:09:11 | 日記
昨日、東京・水道橋の日本大学経済学部で胡耀邦生誕100周年記念講演会が無事行われた。スタッフを含め約100人が参加するイベントとなった。会場は同学部の曽根康雄教授のご厚意により、借りることができた。話を取り次いで頂いた中央大学経済学部、唐成教授のお心遣いがあってのことである。休日にもかかわらず貴重な教室と機材の使用を認めていただいた日大経済学部および曽根教授、唐教授に深く感謝申し上げたい。以下の通り、毎日新聞に記事が掲載された。忙しい中、取材をしてくれた若手記者の河津啓介さん、ありがとう!
http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20151130ddlk13040045000c.html

感謝しなければならない方がたくさんいる。裏方から進行まできめ細かい仕事をこなしてくれた「日中の未来を考える会」の若者たち、無理な注文を快く引き受けてくださった講演者の及川淳子さん、事情で参加できなかった代わりに原稿用紙で『大地の子』に関するメッセージを寄せてくださった岡崎満義・元『文藝春秋』編集長、そして地味なテーマにもかかわらずお集まりいただいた参加者の方々、特に講評をいただいた矢吹晋・横浜市立大名誉教授、中国での桜植樹活動を紹介してくださった新發田豊・ 日中共同桜友誼林保存会会長、公用のついでとは言え北京から駆けつけてくださったの田中英治さんには厚く御礼を申し上げたい。貴重なお土産持参でお越しいただいた大先輩記者の高井潔司・桜美林大学教授、札幌から駆けつけてくださった西茹・北海道大大学院准教授もありがとうございました。

さらにうれしかったこと、感動したことがある。日本で活動を続ける企業家の姜維さんが「(胡耀邦の長男)胡徳平から必ず参加するように」と言われと、出席してくださった上、講評まで頂いた。冒頭写真が姜さんは20日、北京・人民大会堂で習近平総書記が記念演説をした胡耀邦生誕100周年記念座談会や23日、湖南省の故居で行われた記念イベントにも参加し、強行軍で駆けつけたとのことだった。

姜さんは講評で、「日中の蜜月時代は必ず来る!胡耀邦のような指導者は必ず現れる!」と力説し、我々の記念行事に対し「中国人として鞠躬(ジュゴン)してお礼を申し上げたい」と深々と頭を下げられた。日本語では「鞠躬如(きっきゅうじょ)」といって、畏まって頭を下げる表現があるが、お辞儀の習慣が一般的ではない中国人にとって鞠躬(ジュゴン)は最大級の感謝を意味する。姜さんが言葉に詰まり、目から涙があふれそうになるのを見て、会場の中には涙を誘われる人もいた。姜さんの胡耀邦を慕う深い思いがひしひしと感じられる一幕だった。私は後ろに座っていた及川さんに「やってよかったね」と話しかけたが、彼女もハンカチで涙をぬぐっていた。閉会後、姜さんは参加者からの記念撮影、握手攻めに遭った。

姜さんは先日、CCTVの胡耀邦特集番組にも登場している。1983年8月30日、総書記だった胡耀邦が中南海の懐仁堂で、万里、習仲勲らの指導者とともに個人経営者ら300人と面会した際の演説が報道された。姜さんは同番組のインタビューで、胡耀邦演説の記事を読んで「みんなで泣いた」と答えている。


どんな演説だったのか。演説は就業問題をテーマにしたもので、タイトルは「怎样划分光彩和不光彩(光栄であることと光栄でないことの違いは何か)」。胡耀邦は「世論の中で基準が不明確なことがある。あちこちで耳にすることがある。全民所有は光栄で、集団所有はあまり光栄ではなく、個人経営は全く光栄ではなく、結婚相手も見つからない、と。光栄であることと光栄でないこと、いったいどのような基準で分かれるのか。国家と人民の労働に有益なものはみな光栄で気概に満ちた事業だ。国家のため人民のために貢献する労働者はみな光栄だ!」と述べ、個人の自由な経済活動にお墨付きを与えた。これまで資本主義の毒として批判されてきた経済行為を、党のトップが「光栄だ!」と称賛したのだ。

姜さんは1980年、人民解放軍を除隊し、郷里の大連に戻ったが、仕事が見つからなかった。そこでやむなく、手に覚えのあった写真技術を使い、大連動物園の入り口で個人経営の写真屋を始めた。商売は繁盛したが、「金儲け」に対する社会の目は冷たかった。馬鹿にされ、誹謗中傷を受け、営業許可書も当局に取り上げられてしまった。飛行機のチケットを買おうとして「個人経営者には売らない」と拒まれることもあった。屈辱的な扱いを受けている時、目にしたのが胡耀邦の「光彩演説」だったのだ。

姜さんは胡耀邦の言葉に励まされて個人商店「姜維影写社」経営を続け、1984年、香港企業との合弁で、中国最初の私営企業となる「光彩実業有限公司」を設立した。「光彩」はもちろん胡耀邦の「光彩演説」から取った。今は開発投資、運輸、製薬、酒造などを行う企業集団に発展した。馬立誠が胡耀邦生誕100周年記念として発表した「胡耀邦の”光彩演説”」にも、姜さんのことが取り上げられている。
http://business.sohu.com/20151119/n427085427.shtml

イデオロギーにとらわれない、合理的、実際的な胡耀邦の理念を如実に物語る一面を、日本で開かれた生誕100周年記念講演会の場で姜さんが自ら示してくれた。姜さんが居合わせことは、これ以上ふさわしいものがないほどの奇縁であった。決して規模は大きくないが、歴史的なイベントだったのではないかと、二次会、三次会へと心地よい酔いを味わった。「昔はよかった」と懐かしむだけでは意味がない。今に、将来に価値あることとして語り継ぐべきことを語り継がなければならない。(続く)

長くなったので、その他講演会の内容については、別原稿として紹介する。

中国共産党内部で起きている「妄議」論争・・・息苦しい習近平体制物語る

2015-11-28 22:24:54 | 日記
昨日27日の『人民日報』7面理論面に論評「”妄議”の錯誤と危害を明確に認識する」が掲載された。筆者は済南大学政治・公共管理学部講師の韓慧氏。目立たない一文だが、現在、中国共産党が抱えた問題を考えるうえで見逃すことができない内容を含んでいる。

「妄議」とは一般の中国人にも聞きなれない言葉だが、だいたいの意味は推測ができる。「妄」はよくないこと、よこしまなこと。「議」は話し合うこと。「妄議」とはよくないたくらみを議論するといった意味だ。問題が生じたのは2015年10月、党中央が『中国共産党規律処分条例』を改訂し、第46条で「ニュースサイトやラジオ、テレビ、新聞雑誌、書籍、講座、フォーラム、報告会、座談会などの方法で以下の行為を行った者」に情状によって警告から党籍剥奪までの処分を定めた。その行為の一つとして挙げられたのが「中央の大きな政治方針を妄議し、党の集中統一を破壊した」行為だった。周永康や薄熙来による政権転覆クーデターや暗殺計画などが背景にあると思われる。

習近平が一年前の2014年10月23日、第18期第4回党中央委員会第2回全体会議で、党内の腐敗現象について「ある者は党の政治規律や政治規矩を無視している」として、その事例として分派活動や猟官活動のほか、「上層部をものともせず、中央の意向を妄議する」ことを挙げていることが改めて注目され、「妄議中央」が「中央の言うことを聞かない」「中央を批判する」などと拡大解釈されていった。

前任者の摘発で河北省党委書記に就任したばかりの趙克志が8月、同省唐山を視察した際、「党員幹部は政治上、絶対に自由主義を犯してはならず、中央に対して妄議してはならず、中央と省委の精神と悖る言論を広めてはならない」と忠誠を表明したのに続き、11月に入ると新疆ウイグル自治区の元『新疆日報』編集長、趙新尉が「政治規律と政治規矩に著しく違反し、党中央と自治区党委の重要な活動方針、政策、決定に対し妄議した」として摘発された。中央に対する「妄議」に党員はますます震え上がった。「党中央に盾を着いたら身が危ない」との受け止め方が広がったのも無理はない。

こうした空気の中、『人民日報』の論評は、言論の封殺や言論の自由に対する弾圧、党内民主を妨げるものだとする見方に対し。「明らかな偏見や見落としがあり、誤りである」と指摘し、党内の不安を鎮めようとする意図が感じられた。「妄議」は、「事実を捻じ曲げ、ルールを破った議論」を指し、党内の団結を乱し、中央の権威を傷つけるものだという。「我々の党は一貫して党内民主や批判と自己批判の優れた党の作風を重んじてきた」と弁護し、党内民主は個人主義や自由主義の民主とは異なり、党規約からかけ離れ、ましてや違反することは許されないとクギを刺した。要するに、憲法が保障する言論の自由も、党の権威を汚すようなことがあってはならないという原則論の中において有効であり、その範囲内を超えた場合に妄議だと断罪されるということなのである。

法を超えた議論である以上、線引きの基準は人の判断に委ねられた恣意的なものとならざるを得ず、多くの幹部がわずかなリスクでも避けるため、より小心翼々となるのは必然である。地方大学の一学者が解説をしたところで説得力はない。耳慣れない言葉を持ち出した習近平自身が、定義をきちんと定めない限り、下の者たちは安心して自由な発言をすることができない。「妄議中央」を、「お上にたてをついたらわが身が危ない」とする認識はそう簡単に打ち消されるものではない。強力な権力を握った習近平政権は一方で、羊の群れのように従う官僚群を生み出してしまった。

新たな改革に挑む気力や積極性は大きくそがれている。1980年代の改革が、現場の創意工夫や進取の精神によって推進されたことを思うとき、「妄議」がもたらした圧力がいかにして生まれ、どう影響を及ぼしていることを深刻に受け止めない限り、次の一歩はないように思う。、

「真理の基準」”未完”の石碑に名前が刻まれる日が来るのを願いつつ・・・再見!

2015-11-27 12:06:28 | 日記
北京首都国際空港で帰国の便を待っている。胡耀邦生誕100周年記念の旅は終わろうとしている。様々な感慨が湧いてくるが、湖南省中和鎮の胡耀邦故居で見た光景が、時間を経るにしたがい、より深い意味を持っているのに気づいた。

故居の奥には噴水のある池を望む丘に完成したばかりの建物群が並んでいた。「胡耀邦芸術館」などの看板が掲げられていたが、内装工事の途中でオープンには至っていなかった。故居入り口の「記念広場」もガランとして何もない。「来年には胡耀邦の銅像が建てられる」と報道があった。生誕100周年を迎え、にわかに拡張工事が行われているのだった。

巨石に刻まれた「廉」は今年に入って登場した。習近平の反腐敗運動に合わせ、故居全体を全国廉政教育基地にしようとしているのだった。園内の山肌を利用し歴代指導者の反腐敗に関する演説を記した石碑が並んでいた。習近平については、2014年1月14日の中央規律検査委員会第3回全体会議で、「劇薬で病気を治すように、刑罰をもって風紀の乱れを正す決心、骨を削って毒を取り出すように、腕を切断する覚悟を持った勇気をもって、党風廉政の建設と反腐敗闘争を断固として徹底的に行う」と述べた言葉があった。

「実践は真理を検証する唯一の基準である」

ひときわ大きな岩に書かれていた。文化大革命後、中央党校校長だった胡耀邦が封建思想に根を持つ個人崇拝を否定し、思想の解放を求める論争を提起し際のスローガンだ。毛沢東の後継者を自任した華国鋒党主席が、「毛主席が下した決定であれば、我々はすべて断固支持し、毛主席の指示であれば、われわれはすべて終始一貫して順守しなければならない」(二つのすべて)との方針を掲げたことに対抗する理論的根拠を提供し、小平の復権を助けた。小平は、真理の基準論争で軍や世論を味方につけ、華国鋒から政権を奪還することに成功した。

だが胡耀邦は晩年、小平ら保守派長老の不評を買って総書記の座から平の政治局員に二階級格下げされる。20日の生誕100周年記念座談会には胡耀邦を攻撃した小平らの親族は参加していなかった。完全な名誉回復には至っていないのだ。

「実践は真理を検証する唯一の基準である」の石碑には名前がない。中国では一人前の石碑とは認められない。この筆は小平のものに違いない。胡耀邦の名誉回復が不完全なことを、この未完の石碑が物語っていた。

搭乗時間が来た。再見!

【独立記者論9】「新聞は社会の公器でなくてはならない」と訴える中国人学者の胸中

2015-11-26 10:40:35 | 独立記者論
広辞苑で「公器」を引くと、「おおやけのもの。公共の機関」とあり、「新聞は社会の――」と用例が示されている。だが今や新聞を「社会の公器」とする社会通念は薄れ、人気就職先ランキング上位からも姿を消した。インターネットの出現で発行部数の拡大が見込めない中、じり貧の危機に直面しているのは世界に共通する新聞業界の課題である。海外ではペーパーがいつ消滅するかという予測まで行われている。

2008年の金融危機後は欧米で新聞社の倒産が相次いだ。経済情勢に左右されやすい広告に収入やすい広告に収入の7~8割を頼っていたためだ。買収によって大資本のコントロールを受ける危険も指摘されている。日本の新聞社は宅配制度による定期購読者が95パーセントを占め、収入の六割に達する販売収入が経営の安定を支えてきたが、そのビジネスモデルがいつまでも続くとは思えない。もっとも多額の不動産収入に頼る新聞社も少なくなく、新聞販売事業だけでは経営が難しい台所事情がある。

日本の新聞は、独占禁止法の適用除外規定で販売価格の統一が認められ、報道による個人情報の取得は個人情報保護法の義務規定を受けない。宅配には関係が薄いが、第三種郵便物として郵送料金も割引されている。新聞記事に対する名誉毀損訴訟においても、記事内容が真実で、公共にかかわり、報道の目的が公益を図るためであると認められれば免責される。「社会の公器」の名が廃れてもなお幅広い優遇措置の恩恵に浴しているのは、無条件に与えられた特権ではない。報道機関が言論の自由、国民の知る権利を体現し、民主主義社会において不可欠な存在だと広く認められているためだ。形の上では私企業であっても、もっぱら営利を追求する一般企業とは異なる。もっとも松下幸之助の言葉を借りれば企業そのものが「社会の公器」であり、「企業は社会とともに発展していくのでなければならない」となる。

忘れかけていた「社会の公器」論を、意外にも北京で手にした『炎黄春秋』11月号で見つけた。元社会科学院新聞研究所長の孫旭培と教え子の中山大学コミュニケーション・デザイン学部准教授、盧家銀が連名で発表した「报纸应该是社会公器」(新聞は社会の公器でなくてはならない)とする寄稿だ。

同寄稿によると、国際共産主義運動史においては、マルクスがドイツ社会民主党を批判した『ゴータ綱領』批判が、彼の死後、党理論誌『新時代』で発表された例を引き、党内における言論の自由が存在していたが、レーニンが第三インターナショナルを設立して後、「各級の党組織に軍規律のような鉄の規律を実行する」との方針が採用され、言論の自由は否定された。

中国では民国時代に発行され、幅広い読者を得た『大公報』が「各党を等しく見て、公民の立場で意見を公表する」「言論による取引はしない」「独立した思考により、盲従をしない」とする編集方針(1926年復刊時)の下、「社会の公器」として力を発揮し、蒋介石も毛沢東も愛読していた。中国共産党史においては、重慶に拠点を置いた『新華日報』が抗日戦争中、庶民の声を重視し「社会の公器」としてのイメージを持ったものの、延安で発行された『解放日報』は「一字一句の独立を認めない」「党紙は党の喉と舌」との立場に立ち、党の宣伝道具と化した。

建国後の1956年7月1日、『人民日報』が「人民日報は人民の公共武器であり、公共財産だ」と社説を掲げ、多様な意見の公表を呼びかけたが、「毛沢東の不評を買って、半年もたたずに元に戻ってしまった」という。1959年冬、河南省信陽地区では大飢饉により100万人が餓死していたにもかかわらず、『河南日報』は計7本、「共産主義に進軍する」とする連載が行われ、「メディアが政治の力に利用され、公器の役割を完全に失う悪い結果を招いた」。2003年、広東省で起きた新型肺炎(SARS)感染の情報隠しもまた、こうした公器の私用化によって起きた。

同寄稿は、歴史の反省に立ち、党機関紙が党内で公器の役割を果たすようにするほか、民間による公共新聞の発行を求めるような政策を求めている。また、中国の世論が、党の意見を代弁する主流メディアと庶民の声を反映するインターネットとに二分されている現状を踏まえ、両者の相互乗り入れを提言している。それは中国共産党が範とするマルクス・エンゲルス思想が「言論出版の自由」を唱えていることにもかなっている、と正論を述べている。

公器という言葉は、2000年以上も前の著作『荘子』に登場している。「名誉は公器であって、一人が多くを占めるものではない。仁義の徳は、先王の宿に泊まるようなもので、折に触れこだわるのはよいが、長くかかわっていると災いとなる」との教えだ。みんなが共有すべき器なのだ。ある特定の組織や団体が占有すべきものではない。孫旭培はそう言っているのに違いない。

一方、言論の自由が憲法で保障されている日本で、新聞が「社会の公器」の役割から遠ざかっているのはなぜなのか。

世界に冠たる新聞王国日本は高度成長期、きめ細かい宅配サービスによって形成された。だが、一億総中流社会と呼ばれ、みなが同じ夢、同じ価値観を追い求めていた時代はとっくに終わった。価値観が多様化し、家族観やライフスタイルも千差万別だ。均質な最大公約数をイメージした大量発行部数時代の紙面作りはもう時代遅れだ。真ん中にあったニーズが両極に広がり、さらに多面化しているにもかかわらず、ひたすら人のいない中間地帯にボールを投げ続けることになりかねない。

だが新聞社内は官僚化し、異なる意見を戦わせる空気は全くない。記者が会社に隷属して独立した思考を持たず、社内では言論の自由が存在していない。事なかれ主義がはびこり、直面している課題に対する全体的な危機感は驚くほど欠けている。その新聞が言論の自由という錦の御旗にすがって「公器」を標榜するのは自己矛盾である。新聞が「社会の公器」から遠ざかっているのは、情報化社会の変化という外部環境の要因に加え、ダブルスタンダードの矛盾に気づかない内部の要因によるところが大きい。内部にいた者として、私はそう感じる。