行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・中南海ウオッチ】忍びない情に支えられた憂患が問われる

2015-12-28 18:22:14 | 日記
昨日、隠れたキーワードに選んだ「大同」に関連して、今年を締めくくる感慨を述べたい。康有為の『大同書』を読んでいて最も印象に残ったのは次の言葉である。

「人が、忍びないという愛の本質を失えば、人の道もまた絶える。滅絶してしまえば、その文明を捨てて野蛮に返り、野蛮を超えて禽獣の本質に戻る」

「忍びない」とは惻隠の情である。孟子は、「惻隠の情は、仁の始まりだ」と言っているが、康有為には儒教の根底に仏教の慈悲が横たわっている。「愛」には儒教の仁愛に加え、仏の慈愛が含まれているに違いない。

同書には、フランスがベトナムを占領し、康有為の住む広州に迫っている時代の様子が描かれている。

「寡婦は夫を思って毎夜泣き続け、孤児は飢えに苦しんでいつまでも泣き止まない。老人は着る服もなく、木の下で杖にもたれて過ごし、かける布団もない病の女性は、かまどのそばで夜を明かす。廃人や病人は困窮のすえ托鉢をもって物乞いをし、叫び求めるが帰る家がない」
 
こんな状況を目の当たりにしながら、「ああ痛ましい、人々が被っている災禍は激しいが、これを救うすべがない。人々は国が亡びるのを憂えるが、国があるからこうした災禍が起きるのだ」と嘆く。康有為の目には全世界が「憂患の世」、全天下の人々が「憂患の人」に映る。胸が痛み、悲しみがとめどなくこみあげてくるのはなぜか。憂患の情がますます深まるのはなぜか。それは人には生まれながらにして「忍びないの心」があるからだ。

救済を求める思索の末にたどりついたのが大道の道であり、それは「至平であり、至公であり、至仁であり、治世の極み」だという。儒家の教えを礼の身分秩序から解放させ、「天下為公」の平等を解く思想として息吹を与えた功績は大きい。なお今でも政治の理想であり続けている。

中国の伝統思想の中に「憂患意識」がある、と指摘したのは民国時代の思想家、徐復観である。日本の明治大学、陸軍士官学校で学んだ後、抗日戦争に参加。蒋介石の国民党に仕え、台湾で生涯を終えた。知識階級の憂患意識が中国人の道徳的使命感を生み、文化精神を育てたとする。

文学にもそれは表れている。憂いにあふれた杜甫の詩。『岳陽楼記』に「天下を以て己が任となし、天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しまん」と語った文人の范仲淹。北宋の詩人、蘇東坡は「人生 字を識るは憂患の始まり(学問をすれば思い煩うことが増える)」と説いた。

人生 字を識るは 憂患の始まり
姓名ほぼ記せば 休むべし
なんぞ用いん 草書の神速を誇るを
巻を開いて 惝怳として 人を愁えしむ
(人は文字を覚えてたらさいご、その日から人生のわずらわしさが始まる。文字などは、どうにか自分の姓名が書ければそれでよい。神業のような速さで達筆の草書が書けるのを誇ってもなんになろう。その巻物を開いても、なにが書いてあるのかさっぱりわからず、人をいたずらに嘆かせるだけである)

習近平総書記も憂患意識を取り上げている。2014年6月30日の第16回党中央政治局集団学習会で「我々の共産党員の憂患意識は、党を憂い、国を憂い、民を憂うことである。これは一種の責任であり、一種の任務である」と述べた。共産党員も士大夫の精神を見習うべきだと訴えたのだ。中華の伝統に帰する習近平思想の極みである。

だが中国の伝統的な憂患意識は内発的なもので、責任や任務として押し付けられてきたものではない。強制される憂患には民を思う基礎がない。むしろ憂患意識から中央と異なる意見を述べようものなら、たちどころに排除、弾圧されそうな雰囲気が生まれているのが現状だ。

習近平自身の憂患意識があるのはわかった。天下為公を標榜する以上、まず憂うべきは民であって党ではない。順序が逆である。民への憂いがあってはじめて、国や党への憂いへと派生するものでなくてはならない。それが戦争のない平和な時代に多くの人々が抱く願いなのではないだろうか。新年への期待を込め、ひとまずは筆を擱くことにする。

中国研究月報に『日中関係は本当に最悪なのか』の書評

2015-12-28 17:24:09 | 日記
年の瀬に日本僑報社の段躍中編集長からうれしいニュースが届いた。30人以上でまとめた『日中関係は本当に最悪なのか 政治対立下の経済発信力』(日本僑報社)の書評が、中国研究所の発行する『中国研究月間』12月号に掲載されたとのこと。以下が表紙と原稿だ。しかも筆者の1人、稲垣清さん著『中南海 知られざる中国の中枢』(岩波新書)の書評もセットで掲載された。中国語で言えば「双喜」である。





中国語版の出版も間近に迫っており、力強い励みとなった。関係者のみなさまに改めてお礼を申し上げたい。

【日中独創メディア・中南海ウオッチ】2015~16年の隠れたキーワードは「大同」

2015-12-27 22:55:32 | 日記
年末になると決まって今年の流行語が話題になるが、みんながすでに知っている言葉を繰り返しても回顧にしかならない。そこで隠れたキーワードを探してみた。隠れているから流行語ではない。来年以降にも引き継がれるから「2015~16」とした。宣伝しないからこそ、真実が表れているということもある。それは「大同」である。

2015年9月28日、習近平国家主席がニューヨークの国連本部で一般討論演説を行った。第70回国連総会の節目ではあったが、米中首脳会談の後でもありほとんど注目されなかった。強いて言えば、日本では、中国が「戦勝国」の立場を強調し、日本を歴史認識問題でけん制したという紋切り型の報道が目立った。国連は「United Nations」なので中国語では連合国とそのまま訳される。文字通り第二次世界大戦の戦勝国の集まりだ。

その目立たない演説の中で、習近平が引用したのが儒書『礼記』礼運の「大道之行也、天下為公(大道の行われる世は、天下は万人のものとされる)」だ。習近平はこの言葉に続け、「平和、発展、公平、正義、民主、自由は人類共通の価値であり、国連の崇高な目標でもある。目標はまだ達成できていないが、我々は努力をしなければならない」と述べた。実は「大道之行也、天下為公」は、彼が国家主席就任後、しばしば口にしている言葉だ。『礼記』礼運ではその世を「大同」と呼ぶ。習近平の儒教重視は歴代指導者の中で際立っており、その象徴として「大同」を挙げた。外遊先でも「天下大同」を連発している。

大同の世とは、人々が親や子の区別なく和睦し、弱者をいたわり、それぞれが分に応じたことをなし、財貨を等しく分配されるユートピア社会だ。「謀略が張り巡らされることのない」社会であり、政敵による政権転覆や暗殺計画にさらされた習近平には、救いの教えでもあるだろう。近代に入り大同思想に息吹を吹き込んだのが日本亡命の経験もある清末の官僚、康有為である。

康有為の書『大同書』は列強の侵略を受けた国難にあって書かれた。西洋の文明が押し寄せる中、忠実な儒教官僚であった彼は、孔子への回帰から王朝体制の存続を図ろうとした。それにしては余りにも楽観的だ。彼の仏教に対する深い信仰があって初めて到達した境地である。同書には、国境をなくして万国統一の政府を打ち立て、奴隷階級をなくし、人種差別を根絶させ、男女を等しくし、家族制度をも消滅させるプランが描かれている。孫文も大同思想に共鳴し、「天下為公」は孫文が頻繁に引用する言葉となった。

共産主義にも通ずる思想は毛沢東にも受け継がれ、建国直前、毛沢東は「階級や国家権力や政党が極めて自然に死滅し、人類が大同の世界に入れるように、活動に励み、条件を作り出すということだ」と共産党の使命を総括した。もっとも封建官僚の康有為には批判的で、「康有為は『大同書』を書いたが、大同に達する道は見つけ出せなかったし、見つけ出せるはずもなかった」と切り捨てた。毛沢東にすれば、自分こそ大同社会の創造者であるとの自負があったのだろう。だがその後、中国が経験した悲惨をみれば、大同とは逆の方向に流れていった。

そこで毛沢東を崇拝する習近平が改めて、大同を持ち出しているというわけだ。ユートピア思想が生まれるのは、洋の東西を問わず国や社会が閉塞状態にある時、危機的事態を迎えている時だ。腐敗、格差、環境汚染、信仰の不在と解決困難な課題が山積している。わらをもすがる気持ちで探し出したのが伝統文化を代表する孔子、そして大同だったということになる。ユートピア思想の裏には、悲壮な現状認識がある。

康有為によると、大同に至る前には「小康」社会がある。小康社会は「ゆとりある社会」と訳され、2020年にGDPと1人当たりの収入を2010年の倍に増やし、全面的な小康社会を建設するのが「中国の夢」だ。投資が鈍って経済が減速し、一方、不均衡な成長がもたらした環境破壊が深刻化する中、極めて厳しい経済運営を強いられる。大同は小康社会が実現した先の話だ。道のりは長い。

一方、大同には個や私を飲み込み、異質な存在を排除する怖さも持っている。中国の指導者には伝統的に多かれ少なかれ道徳を備えた人格者像が求められる。その上に立った大同思想である。だが実際はみながそうなれるわけではない。むしろ大半は実行できない。建前が独り歩きをすると、しわ寄せは権力に振り回される弱者に及ぶ。それは毛沢東の時代に多くの代償を払って学んだ。2016年は文化大革命50周年である。やはり「大同」が隠れたキーワードにふさわしい。


グリーンネックレスが花びらのない花をつけた

2015-12-26 15:27:52 | 日記
大掃除をしていてベランダのグリーンネックレスが花をつけているのを見つけた。





アフリカ産の多肉植物で、グリンピースのような球状の葉をつける。この中に水をたくわえているので、乾燥に強いそうだ。文字通りネックレスのようで、そこが人気を呼んでいるのだが、逆に、気味が悪いと敬遠する人もいる。和種を好む私はむしろ後者の方だった。

開いたのは紫色の花は、よく見ると花びらではなく、花糸と呼ばれる雄しべの一部だ。先に黄色い花粉がついている。着飾らない素朴さを表しているようでもあり、寒風をじかに受ける力強さを主張しているようでもあり、この遠方からの来客に親しみがわいてきた。年の瀬に思わぬ贈り物が届いたような喜びか。人の気持ちは勝手なものである。

【日中独創メディア・北京発】「北京の空気は改善された」との発表に怒る市民たち

2015-12-26 11:13:10 | 日記
昨日25日の北京紙『京華時報』が、「北京の大気汚染対策は段階的に効果を上げている」とする市当局の発表をそのまま掲載し、連日、スモッグにせき込む市民からブーイングが起きている。気持ちは痛いほどわかる。怒るのももっともだ。

記事は9面の総合ページに掲載され、見出しは「北京の今年の経済成長は6・7~7% 来年も安定的な運営を維持する見込み」。北京市統計局と国家統計局北京調査総隊、北京市発展改革委員会が共同で北京市の1月から11月までの経済状況を説明したものだ。金融、情報、科学技術などのサービス産業が伸び、国家目標である産業構造の変革が進んでいることを強調している。また、1~9月の都市部可処分所得が前年同期比で8・5%増、農村部が9・3%増となり、所得格差も縮まっているという。おまけに石炭燃焼量を大幅に減らし、1~11月のPM2・5平均値は前年同期比で16・6%減となった。いいことづくめである。

ふだんはこの手の公式発表に関心を示さない市民も、つい先日、初の大気汚染レッド警告が出て、連日のスモッグにさらされている実感と大きく隔たっている数字には異論がある。11月までの統計だと言われてしまえばそれまでだが、市民の神経を逆なですることを承知で公表し、それをなんの論評もなく掲載するメディアは、庶民感情というものをもう少し考慮した方がよい。こうした時に、習近平がしばしば指摘する「政府・党が大衆から遊離している」現状が露呈される。

ただ、北京市の肩を持つとすれば、北京のスモッグは北京市内だけでなく、むしろ河北省や内モンゴルなど周辺の内陸部からの影響が大きいことに留意すべきだ。環境基準を下回る工場の排出物や粗悪な大型トラックの排気ガスが行政区分に関係なく流れ込んでくる。北京市の発表には「うちはちゃんとやっているんだ」という恨み節も感じられる。

中国の環境問題はしばしば湖や川の水域が複数の省にまたがっているなど、汚染源と被害エリアが必ずしも一致していないことが課題として指摘される。各省はそれぞれの経済目標があり、指導者が自分の栄達をかけて取り組んでいる。各省はしばしば国から金やポストを奪い合う競争相手となる。責任を押し付け合っているようでは、広域的な環境問題には対処できない。自分の住んでいる土地、国を大事にしようという指導者がいなければいくら法律を作っても実行されない。

日本の公害対策も、法を武器にした集団訴訟とそれを支えた弁護士、そして市民運動とそれを支えたメディアの存在があったからこそ成果を上げることができた。政府と汚染企業が進んで対策に乗り出したわけではない。その意味で、冒頭に挙げた記事の責任は「泰山」より重い。