行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「飼育された記者人生との決別」と党機関紙を去った中国人記者(2)

2015-08-19 08:52:00 | 日記
(『法制日報』の記者として)報道の分野が時事問題だったため、官僚に取材しなければならならず、時にはお決まりのようにこうした官僚と記念写真も取らざるを得なかった。官製メディアの多くの記者はこれにとても熱心で、あたかも一枚の記念写真を虎の皮や護身札のようにしていた。一緒に記念写真をした、または私の記憶に残っている官僚の多くは血気盛んだったが、多くはすでに失脚した。

西安から戻ってしばらくして昆明に取材に行き、中央の機関が開いた行政監察会議に参加した。当時、雲南省省長の李氏は会議での発言で、彼は率直にものを言うタイプのイ族男性だったが、言い回しを間違え、雲南を”多民族の省”とすべきところ"多民族の国家"と言ってしまった。我々記者たちはやじ馬根性で演台の下にいる高官たちが困った表情に変わるのを観察した。私たちはそのあと、中央の官僚は雲南省長が忠誠心を欠いていると責めを負わせるのではないかとささやき合った。

数年後の出来事はみな知っているように、腐敗によってこの省長は執行猶予付きの死刑判決を受けた。もちろん発言のミスとは無関係だが、腐敗は必ずしも本当の理由ではなかった。何年か後、再び雲南に行くと、あるイ族の幹部が、李氏は彼らの民族の中で全人代副委員長か政治協商会議副主席になる可能性の最も高い人物だったと残念がっていた。建国50年来、イ族の幹部は最高でも大臣・省長クラス止まりだが、人口比では(より高位高官を出している)チベット族や回族とそう変わらない。さらに彼は言った。「我々の民族は物分かりが良すぎる。もしウイグル族やチベット族の高級幹部だったら、少し問題があっても上層部は摘発まではしない」と。その後、広西チワン族自治区へ行ったときも、地元の幹部たちは広西出身の成克傑・全人代副委員長が死刑に処されたことについて、同じような感慨を語っていた。

ある時、国家薬品監督部門の局長と一緒に江西省まで、医療機器に関するニセ報道を摘発しに行った。彼とは一週間過ごしたが、低姿勢で人当たりがよく、典雅な雰囲気があり、非常に印象がよかった。北京に戻ってしばらくは何度か電話をしたが、だんだん疎遠になっていった。最後に彼を見たのは、テレビで有罪判決を受ける姿だった。頭は真っ白で、憔悴しきっていた。私は心の中で、ため息をついた。

初めて全人代の報道に参加した時は、非常に感動した。あたかも自分が歴史の証人になるかのような気分だった。会議期間中、新聞社の同僚の紹介で、黒竜江省のある市の新聞弁公室主任が私を尋ねてきた。主任は同市党委書記に同行して会議に参加し、書記はこの主任のほか何人もの随員がいた。新聞弁公室は私に書記を取材するよう手配し、書記は得々と市の発展構想を語った。

これは私が全人代制度のあり方に疑問を抱いた最初だった。民意を反映する機関の存在目的はつまり行政、司法機関の監督にあるはずだが、地方の党委や政府、司法機関の指導者が全人代の代表になってしまえば、彼はいかにして自己の業務に対する監督を履行するのであろうか?その後、この書記のニュースを見て、彼が省人代の副主任で、収賄で調査を受けたことを知った。

私のある同僚はさらに不思議で、彼が取材した局長クラスや次官クラスの大半は失脚し、"高官殺し"と言われているとのことだった。こうして"太鼓持ち"をして数年後、私は一つの結論を導き出した。つまり、上層部がプラス報道の任務を遂行している際、一つの高、一つの低は大丈夫だということだ。"一つの高"とは、執政党全体に対する大雑把な肯定または最高指導部への賞賛を指し、基本的に問題になることはない。"一つの低"とは、報道の中で、この官僚マシーンの小さな釘を褒めたたえる、例えば基層の警官や一般兵士、低位の官僚などは問題が大きくない。最も問題が起きやすいのは、局長クラスや次官クラスで、彼らの"光輝ある業績"を記事にした途端、規律違反調査を受けるか判決に処される。。

もっともおかしかったのは、ある全人代で、私はすでに内勤の編集担当だったが、当時、江西省検察長(次官クラス)の丁氏が、人を介してわが社に連絡をし、新聞紙上に記事を出してほしいと要求してきた。私たちのある記者が記事を書いて、ゴマすりの限りを尽くした。原稿が私の手元に届いたとき、私は掲載しないよう意見を述べた。理由は、次官クラスの官僚は一般的に賞賛報道によって出世したわけではなく、ここまで来たら、むしろ低姿勢で、人の注目を集めないことが重要だ。さもないと、妬みや恨みを買うことがあり、彼らはしばしばメディアの報道に対してはこれを避け、ただ恐れるばかりなのだ。

だから今回、次官クラスの官僚が自主的にメディアに華々しく登場しようと思うのは、きっと彼が自分の失脚の危機を察知し、あらゆる方法を使って藁をもつかむような気持ちなのだ。おそらく彼は、官製メディアが彼を称える報道をすれば、関係部門は慎重にことを進めるよう考慮すると考えているのだろう。たとえ彼を取材したとしても、一般の全人代代表の建議として報道すべきであるところ、この原稿は赤裸々に個人の清廉潔白を賞賛している。私はこう主張した。

だが、その記者は新聞社の上層部に掛け合い、原稿はやはり掲載された。半年もたたないうちに、この反腐敗を任務とする検察長は自ら反腐敗の摘発を受け、『南方週末』は長編の記事で失脚の過程を報じ、さらに私の新聞が彼を大々的に持ち上げたあの記事を大幅に引用した。私は『南方週末』の記事を読んだ時、顔が赤くなった。このような新聞は、どのような"報道の格"があると言えるのだろうか?

※(3)に続く