行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

元気な年配者に囲まれて思い出したサミュエル・ウルマンの『青春』

2015-08-21 09:17:25 | 日記
昨日は国際善隣協会のアジア研究懇話会に招かれ、「習近平政権と日中関係」について講演をする機会を頂いた。同協会理事の矢吹晋横浜市立大名誉教授から紹介を受けたものである。同協会は戦前の1942年に設立。これまで中国・アジア諸国への理解を深め、友好親善にかかわる活動を行ってきた。主な活動には、旧満州からの引き揚げ港だった葫蘆島での植樹などがある。

会長の矢野一彌(やの・いちや)氏は引き揚げ者の一人だ。中国への思いはことのほか強い。8月初め、同協会のメンバーでノモンハンなど中国の東北地方を旅したが、折悪しく、9月3日の抗日戦争70周年記念日を控え「反日宣伝」が強化されていた。中国側は必ずしも「熱烈歓迎」ではなかったようで、若干、気落ちしているように見受けられた。戦争の傷跡を残す中国各地、特に旧満州エリアは、日本人と中国人の関係が近い分、敵意と友情が交錯する複雑な土地だ。長く交流を続けてきた同協会の方々には頭が下がる思いである。

みな人生の大先輩である。そして中国ウオッチャーとしても大ベテランである。中国の季節的な政治的パフォーマンスが一過性のものであり、過ぎてしまえば何事もなかったかのように正常化することも、中国との長い経験から学んでいるはずだ。固い政治の殻に包まれてはいても、その中には人間の熱い血が流れている。そう信じたい。

私の講演の趣旨は、習近平総書記は日本のメディアが伝えているような強面(=反日)のイメージではなく、訪日経験も豊富で、改革開放の先進地・福建で17年間勤務し、日本の貢献を間近に見た「知日派」であること。中国では強いリーダーのもとでは反日デモが起きないこと。革命世代を親に持つ「紅二代」を率いる習近平氏には、両親たちが目指した大国の夢を果たす使命感と責任感があること。中国がライバルとみなしているのは米国であって、日本の存在は米国の同盟国、アジアの一員としての位置づけにとどまること。大国の夢は、侵略を受けた被害者感情を克服し、強者の自信を取り戻すことであり、「反日」から「克日」「超日」に移っていくこと・・・こうした持論を約1時間話した。私が北京や上海での講演会で話してきたことと同じ内容である。

質疑は、講演後の暑気払い兼ねたビールパーティーに引き継がれたが、驚いたのは出席者がかなりの年配者でありながら、中国に対する深く広い関心を持ち続けていることだった。北京や上海では、実際にそこで暮らし、仕事をしている人々が対象なので、比較的理解を得られやすいが、メディアによる一面的な報道が目立つ日本では、容易に受け入れられないのではと危惧した。だが、それは杞憂であった。もちろん、長年にわたる中国との交流がその土台にあることは言うまでもない。

反腐敗運動の行方から天津爆破事故の政治的背景、軍事費増大への危惧から中国人論、中国社会論、周恩来の評価、ネット言論の行方に至るまで、息つく暇もないほど質問攻めにあった。議論は居酒屋での二次会にまで持ち越された。それぞれの質問には、中国への感情(好感から反感を含め)、好奇心、期待と不安が感じられ、ノスタルジーではない現実的な関心に支えられたものだった。中国問題の講演会では、一面的で偏った、感情的な反応に接し、閉口することも多いのだが、そうしたことは全くなく年輪と円熟さを感じさせられた。

関心の深さと広さがそうさせるのか、とにかく元気なのだ。すでに社会の一線は退いている方が大半だが、まだまだというか、まさにこれからだという若さがある。日中関係に不安があればあるほど、関心が研ぎ澄まされているようだった。中国、中国人との長い付き合いの中から、深い理解に支えられた楽観が感じられた。悲観的になるとすべてが好ましくなく、不快に見えてしまう。悲観からは何も生まれない。楽観の先にこそ光が差している。この心持の差は非常に大きい。日中の若者と接しながら感じたことを、対極にある年齢層の場で再確認できたのは意外でもあり、うれしくもあった。

忘れかけていた詩を思い出した。かつて日本の経営者が好んで引用したサミュエル・ウルマンの『青春』。5年前、ノートに書きとっておいたものをもう一度読み返した。この詩に、以前にも増して心を打たれるのは、私もそういう年を迎えたということなのだろう。


『青春』

サミュエル・ウルマン
(岡田義夫訳)

青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、たくましき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。


Youth

Samuel Ullman

Youth is not a time of life -- it is a state of mind; It is a temper of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love of ease. Nobody grows old by merely living a number of years; people grow old only by deserting their ideals.

Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt, self-distrust, fear and despair -- these are the long, long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.

Whether seventy or sixteen, there is in every beings' heart, the love of wonder, the sweet amazement at stars and the starlike things and thoughts, the undaunted challenge of events the unfailing childlike appetite for what next, and the joy and the game of life. You are as young as your faith, as old as your doubt; as young as your self-confidence, as old as your fear, as young as your hope, as old as your despair.

So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the earth, from man and from the Infinite, so long you are young. When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with snows of pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.

「飼育された記者人生との決別」と党機関紙を去った中国人記者(3)了

2015-08-20 08:44:17 | 日記
"飼育された記者”の仕事をして数年来、多くの中央メディアの同業者と知り合いになり、しかも、多くの記者と親友になった。彼らは大卒の優秀な人材で、入社当時は報道人としての理想を抱いていた。だが時間がたつに連れ、多くは揉まれ角を失ってしまった。進む道は、記者の身分を利用して金もうけをするか、権力とうまく関係を作り辛抱して昇進し役人に転身するかのいずれかだ。

あるとき、私は新華社通信と英字紙・チャイナデイリーの記者2人と一緒に河北省のある市の人代に取材に行った。仕事が終わり、3人がホテルのロビーで雑談をしていると、北京まで送り届ける車が迎えに来た。すると私服警官が近づいてきて、私たちを責め立てた。「すぐにここを離れなさい!」。非常に険しい様子だった。私たちは中央のある重要な指導者がこの市に視察に来ると知っていた。たぶんこのホテルに来るので、地元の警察が人を排除する任務を負っているのだろう。だがこうした上からの命令をさも重大なことのように言い触れる小役人の態度に、反感を持たない者はいない。

そこで私は彼に尋ねた。「あなたは誰だ?何の公務を執行しているのか?あなたが何の説明をしない以上、私たちはなんであなたの言うことを聞かなくてはならないのか」。彼は誰かがこうしたことを言うとは思いもよらなかったのだろう。声をさらに荒げて言った。「私はお前たちに教える必要はない。出ていけと言ったら出ていけ!」

まだ駆け出しの新華社通信記者は怒って、「私たちが出ていかなかったら、どうなるんだ?お前がどうするか見てやる」と言い返した。私がそれを受けて取り成すように、「あなたはせめて自分の身分を名乗ったらどうだ。そうすれば私たちもあなたが公務を執行していると了解する。これは法執行の基本的な心得じゃないか」。

一緒にいたチャイナデイリーの記者はかわいいお嬢さんだったが、私の言葉に続けて「あなたはああいう人に心得を説いたけれど、馬の耳に念仏じゃないの?あの人はたぶん心得という二文字さえも書けないでしょ」

この小役人は顔が真っ赤になって、このときちょうど市人代の職員がやってきて仲裁に入り、ひと悶着は終わった。数年後、あの女性記者は外国に行き、あの怒れる男性記者は"官界の海"に入り、小役人になったーー怒れる記者も常に成長しなければならない。こうした体制の下では、こうした選択も責めることはできない。私はと言えば、公務員を辞めて記者になったので、もうあちらに戻りたくはないのだ。

こんなメディアの中で、記者であるという実感が全くしなくなった。そして、沈黙し、昇進を放棄し、(コネを作るチャンスである)官僚取材の機会をみんな若い新人記者に譲った。だが、長く続けていくわけにはいかなかった。そして、別の創作活動によって、組織の一員として筆致を薄め、1人の社会人として書き記すという仕事に力点を移していった。こうして、少しずつ生き方を変え、周囲の人々は私を飼育された記者とは見なさなくなっていった。

だが、どうであっても私はまだ飼育された記者の一員だった。年の初め、遼寧省のある県党委書記が警察を新聞社に送り、同僚を捕まえたことがあった。これには私も驚いた。現在の権力はすでに白昼堂々と悪事を働くようになった。"身内"としての穏当な批判さえもう受け入れられない。官製メディアが"わずかに批判して大いに助ける"として招かれることもあり得ない。主人におべっかを使うのも十分、技術を究めなければならない。お世辞のつもりがかえって相手を怒らせてしまっては大変なことになる。こんな場所にはもう寸分の未練もない。私はとうとう逃げ出すことを決意した。

初めてこの新聞社に入ったのは1999年3月8日だ。新聞社の建物の外には春を告げる花が輝き、淡い黄色の花びらに黄金色の陽光が映え、私の目の前できらめいていた。今離れる際、時はまさに秋風が寂しく吹き抜け、落ち葉が庭に舞っている。繁華事散逐香塵(華やかな生活も沈香の粉が飛び散ってしまうように消えてなくなってしまった ※杜牧の七言絶句)。去るにあたって私はいぶかしむ。この場所に果たして花が錦のように咲いた春はあったのであろうか。あれはただの幻ではなかったのか。(了)

「十年砍柴」こと李勇は私よりも一回り若い。その後、男の子の父親になった。故郷の湖南省は、毛沢東や辛亥革命を率いた黄興ら多くの革命家を輩出し、メディア界にも著名人が多い。中国の中でも特に個性的な人物が多い。彼は正義感の強い、実直な記者だった。周囲は彼のことを、敬意を込めて「無頼の文人」と呼んでいる。正義を貫こうとする記者の生存空間はどんどん狭まっていく。“飼育されたメディア界”の檻はますます狭まっている。理想に燃える若い記者はどんどん職場を去っていく。対岸のこととして見過ごしてよいのか。全訳をしながら、我が身、我が国のことを振り返った。

「飼育された記者人生との決別」と党機関紙を去った中国人記者(2)

2015-08-19 08:52:00 | 日記
(『法制日報』の記者として)報道の分野が時事問題だったため、官僚に取材しなければならならず、時にはお決まりのようにこうした官僚と記念写真も取らざるを得なかった。官製メディアの多くの記者はこれにとても熱心で、あたかも一枚の記念写真を虎の皮や護身札のようにしていた。一緒に記念写真をした、または私の記憶に残っている官僚の多くは血気盛んだったが、多くはすでに失脚した。

西安から戻ってしばらくして昆明に取材に行き、中央の機関が開いた行政監察会議に参加した。当時、雲南省省長の李氏は会議での発言で、彼は率直にものを言うタイプのイ族男性だったが、言い回しを間違え、雲南を”多民族の省”とすべきところ"多民族の国家"と言ってしまった。我々記者たちはやじ馬根性で演台の下にいる高官たちが困った表情に変わるのを観察した。私たちはそのあと、中央の官僚は雲南省長が忠誠心を欠いていると責めを負わせるのではないかとささやき合った。

数年後の出来事はみな知っているように、腐敗によってこの省長は執行猶予付きの死刑判決を受けた。もちろん発言のミスとは無関係だが、腐敗は必ずしも本当の理由ではなかった。何年か後、再び雲南に行くと、あるイ族の幹部が、李氏は彼らの民族の中で全人代副委員長か政治協商会議副主席になる可能性の最も高い人物だったと残念がっていた。建国50年来、イ族の幹部は最高でも大臣・省長クラス止まりだが、人口比では(より高位高官を出している)チベット族や回族とそう変わらない。さらに彼は言った。「我々の民族は物分かりが良すぎる。もしウイグル族やチベット族の高級幹部だったら、少し問題があっても上層部は摘発まではしない」と。その後、広西チワン族自治区へ行ったときも、地元の幹部たちは広西出身の成克傑・全人代副委員長が死刑に処されたことについて、同じような感慨を語っていた。

ある時、国家薬品監督部門の局長と一緒に江西省まで、医療機器に関するニセ報道を摘発しに行った。彼とは一週間過ごしたが、低姿勢で人当たりがよく、典雅な雰囲気があり、非常に印象がよかった。北京に戻ってしばらくは何度か電話をしたが、だんだん疎遠になっていった。最後に彼を見たのは、テレビで有罪判決を受ける姿だった。頭は真っ白で、憔悴しきっていた。私は心の中で、ため息をついた。

初めて全人代の報道に参加した時は、非常に感動した。あたかも自分が歴史の証人になるかのような気分だった。会議期間中、新聞社の同僚の紹介で、黒竜江省のある市の新聞弁公室主任が私を尋ねてきた。主任は同市党委書記に同行して会議に参加し、書記はこの主任のほか何人もの随員がいた。新聞弁公室は私に書記を取材するよう手配し、書記は得々と市の発展構想を語った。

これは私が全人代制度のあり方に疑問を抱いた最初だった。民意を反映する機関の存在目的はつまり行政、司法機関の監督にあるはずだが、地方の党委や政府、司法機関の指導者が全人代の代表になってしまえば、彼はいかにして自己の業務に対する監督を履行するのであろうか?その後、この書記のニュースを見て、彼が省人代の副主任で、収賄で調査を受けたことを知った。

私のある同僚はさらに不思議で、彼が取材した局長クラスや次官クラスの大半は失脚し、"高官殺し"と言われているとのことだった。こうして"太鼓持ち"をして数年後、私は一つの結論を導き出した。つまり、上層部がプラス報道の任務を遂行している際、一つの高、一つの低は大丈夫だということだ。"一つの高"とは、執政党全体に対する大雑把な肯定または最高指導部への賞賛を指し、基本的に問題になることはない。"一つの低"とは、報道の中で、この官僚マシーンの小さな釘を褒めたたえる、例えば基層の警官や一般兵士、低位の官僚などは問題が大きくない。最も問題が起きやすいのは、局長クラスや次官クラスで、彼らの"光輝ある業績"を記事にした途端、規律違反調査を受けるか判決に処される。。

もっともおかしかったのは、ある全人代で、私はすでに内勤の編集担当だったが、当時、江西省検察長(次官クラス)の丁氏が、人を介してわが社に連絡をし、新聞紙上に記事を出してほしいと要求してきた。私たちのある記者が記事を書いて、ゴマすりの限りを尽くした。原稿が私の手元に届いたとき、私は掲載しないよう意見を述べた。理由は、次官クラスの官僚は一般的に賞賛報道によって出世したわけではなく、ここまで来たら、むしろ低姿勢で、人の注目を集めないことが重要だ。さもないと、妬みや恨みを買うことがあり、彼らはしばしばメディアの報道に対してはこれを避け、ただ恐れるばかりなのだ。

だから今回、次官クラスの官僚が自主的にメディアに華々しく登場しようと思うのは、きっと彼が自分の失脚の危機を察知し、あらゆる方法を使って藁をもつかむような気持ちなのだ。おそらく彼は、官製メディアが彼を称える報道をすれば、関係部門は慎重にことを進めるよう考慮すると考えているのだろう。たとえ彼を取材したとしても、一般の全人代代表の建議として報道すべきであるところ、この原稿は赤裸々に個人の清廉潔白を賞賛している。私はこう主張した。

だが、その記者は新聞社の上層部に掛け合い、原稿はやはり掲載された。半年もたたないうちに、この反腐敗を任務とする検察長は自ら反腐敗の摘発を受け、『南方週末』は長編の記事で失脚の過程を報じ、さらに私の新聞が彼を大々的に持ち上げたあの記事を大幅に引用した。私は『南方週末』の記事を読んだ時、顔が赤くなった。このような新聞は、どのような"報道の格"があると言えるのだろうか?

※(3)に続く

「飼育された記者人生との決別」と党機関紙を去った中国人記者(1)

2015-08-18 09:05:15 | 日記
ずいぶん前のことになる。司法報道を担当する中国共産党中央政法委機関紙『法制日報』で9年半記者を務めた李勇が2008年10月18日、新聞社を離れる際、ブログに残した一文「飼育された記者人生との決別」がある。彼の筆名は十年砍柴(「10年柴刈り」の意)。歴史、時事などをジャンルにする著名作家だ。1970年代生まれで湖南省の田舎で農作業をしながら育ち、蘭州大学文学部を卒業して上京した。彼とは記者仲間を介して知り合い、今でも親交が続いている。新著が出るといつも私に署名をして贈ってくれる。自分の理想に誠実で、精神の独立を求める彼に敬意を表し、同文章を分けて全訳する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私が人事部に記者証を返しに行った時、人事部の先輩たちは記者証の写真をはがし、私に「記念に」と言って戻してくれた。写真の私は28歳で、やせて、表情は生き生きとしており、目にも潤いがあった。私はもともとそれほど感傷的ではないと思っていた。感傷は、9年半の歳月をこのオフィスで過ごすうちに、あたかも石を底知れない水たまりに放り込んだように、忘れられていた。

段ボールを二つ荷車で引き、いつもの仕事帰りと同じように正門を潜り抜けると、歩哨に立つ武警はいつものように塑像の如くたたずんでいた。水の流れのように過ぎ去った日々の中で、この歩哨は何回立つと新しい兵が老兵になり、退役したのち、再び新しい兵が来るのであろうか。かつて私は何度か社員証明書を忘れ、歩哨とやりあったことがある。退役し故郷に帰ったあの歩哨たちはどうしているだろうか。彼らは生計のため必死に働く中で、折に触れあの歩哨の仕事を思い出すのだろうか。

段ボールの中には数千枚の写真と十数冊のノート、五十万回の取材記録、山のような会議資料、さらに華やかな表彰状。9年半の歴史は、かくも簡単に荷造りされた。

記者人生に別れを告げる理由は自分でもはっきりわからない。もう何年も前からこの仕事にうんざりしてきたけれど、本当に辞職の覚悟を決めたのは、今年の初めだ。記者証を与えられているから身分は"記者"に違いないが、数年来、本当の記者をする機会があったと言えるだろうか?2000年以上前、司馬遷が事実をありのままに書き残し、君主への批判もはばからなかったことを、今日の我々はなし得ない。真実を記録できず、自由に表現することもできず、私は記者と言えるのだろうか?ただ飯の種を探しているだけじゃないのか!こうした記者人生に、どうして別れを告げないでいられようか?

家に戻って写真や取材記録を整理しながら、多くの興味深い、また憤りを覚える出来事が思い出されてきた。ここ数年、私はほとんどこうした記憶に触れずにきた。自分が恥ずかしくなるからだ。写真は私が9年半歩いてきた場所を記録している。香港、マカオを含め全国で足を運んでいないのは四つの省や自治区だけだ。だが、縦横無尽にあちこちを歩いても、一体何が残ったというのだろうか。異なる風景を見て、異なる人に会った以外、何もない。私と一緒に親しく寄り添い記念写真を撮ったあの人たちの半分以上は、もうだれだったのか思い出すことができない。当時、酒席で盛んに杯を交わし、長年の友人のように語り合ったはずだが、記念写真を残し、いよいよ劇が終幕を迎えると、こうした各地への取材は、"心と心をつなぐ芸術団"の巡業と大差のないものとなった。

一番最初に取材に行ったのは西安だった。武警本部が現地で第一回の会議を開いた。数日間の会議はいくら聞いても同じ話ばかりだった。社会人になったばかりの私は真面目に書き取ったが、心の中でつぶやいた。「こんな意味のない内容が記事になるのか?」と。会議がまだ終わらないうちに、報道担当者が事前に用意された統一原稿を私に渡し、若干修正をし、私の署名を加えれば万事めでたしというのだった。

私は考えた。たとえこういうやり方をするのであったも、どうして記者を会議に参加させなければならないのか。武警の報道担当者が直接、統一原稿をファックスで新聞社に送れば済む話ではないか。あとで私はその理由がやっとわかった。記者、特に中央のメディアが参加すれば、会議の格が上がるというのだった。記者はまた商店をにぎやかに見せるさくらの役割も演じた。取材と会議はみな気楽なもので、残った時間は当然、漢と唐代の都だったこの古都を観光し、大雁塔や華清池、兵馬俑は必ず立ち寄るべき場所だった。

私が最も驚いたのは、秦始皇帝陵遺跡公園に行った際の光景だ。正面は閉まっていたが、外の壁に石灰で"殺人は命をもって償う"と大きな文字が書かれ、一人の女性と二人の子どもが跪き、麻をかぶって喪に服し、後ろには怒った民衆が立って、中にいる者は出てこいと叫んでいた。記者の本能で私は前に進み、話を聞いたところ、女性の夫が近くの農村の農民で、数日前、公園の中でものを売っていて捕らえられ、地元の派出所に連れて行かれた。二日目、家族に連絡があり、夫は派出所で病死したという。家族と村人はきちんとした説明を求め、この事態になったのだ.

私が質問をし、写真を撮るのを見て、村人はおそらく私の身分を察知したのだろう、私を囲んでとめどなくまくしたてた。すると私と一緒に見ていた武警や同伴者は、そっと私を連れ出し、我々はこんな余計なことにかかわりに来たのではない、と言った。私は国家公務員を経験したことがあるが、たとえ官僚の規則がわからないものでも地元の主人にはメンツを与えなければならないことはわかる。記者の卵であっても、職場の指導者が命じていない"余計なことにかかわる"がどのような意味であるかわからないはずがない。結局、私は人込みから逃げ出してきた。

今から思えば、私の"処女取材"はすでに私の記者人生の基調を決していた。これはメディア学でいうところの本当の取材ではなく、ある劇の役回りを演じているに過ぎない。秦始皇帝陵遺跡公園のあのひと幕は私の心の中の一つの陰影となり、ある時は、たとえあの場に残って取材をしても、十中八九出稿はできなかったと自分を慰めた。だが、振り返ってまた考えれば、たとえ発表できなくとも、もし全力を尽くしていたらきっと良心に照らし恥じることがなかっただろうが、私は結局、力を尽くさなかった。

私はあの西安取材で、特別に時間を作って西北政法学院に行き、有名なオブジェ"地球を頂いた憲法"を見に行った。今、このオブジェの写真を見返せば、まるで隔世の感があり、瞬く間に時間が過ぎていったように思える。私と私が住む国家は、いったいどのような道を進んでいくのであろうか?

※(2)に続く

人命は泰山より重いか、鴻毛より軽いか・・・天津爆破事故で感じたこと

2015-08-17 11:29:48 | 日記
中国の李克強首相が16日、とうとう天津の爆発現場を視察した。これまで判明した死者112人(うち24人が身元判明)、行方不明が95人。うち消防隊員85人の消息が途絶えている。李首相は「消防の英傑たちよ、永久に!」と書かれた遺影の並ぶ祭壇に向かい、哀悼をささげた。遺影の表情は若い。正式な消防兵士だけでなく、企業が雇った民間の消防士も多い。首相は遺影を前に遺族を慰めた。

「彼らは英雄だ。社会全体が敬意を払うに値する。(官兵も企業消防士も)一視同仁に栄誉を与え、家族補償を行い、英雄に編隊外ということはない」

十分な訓練を受けず、必要な知識も経験も欠いた彼らは、この国が抱える不十分な都市安全管理、つまりソフトパワーの弱点の犠牲者だ。だが首相がそれを認めるわけにはゆかない。超法規的なお上からの「仁愛」は、当座の不満を和らげるために不可欠な選択なのだ。彼はなお奮闘する消防隊員にこう言うしかない。

「人民群衆の生命が危険にさらされている時、あなたたちが自分の危険を恐れず、一歩も退かない勇気と犠牲を払っていることに、党と政府は感謝している。みんな救援の際は、自信の安全保護に注意するように」

李克強首相は3月5日、全国人民代表大会の開幕式で、前年度を回顧し「我々は自然災害と突発的事件に適切に対処し、社会の矛盾を秩序正しく解消するとともに、メカニズムの構築と健全化をはかり、根源からの防止対策を強め、人民の生命の安全を保障し、良好な社会秩序を守った」と絶賛した。

年末、上海・外灘(バンド)のカウントダウンで、36人の若者が群衆の波にのまれて死亡した事件には言及がなく、私が開幕式後、政府の公式ブリーフィングでこの点を尋ねると、担当者は「中国には13億の人口があり、一定の確率で事件は起きる」と言ってのけた。このことは拙著『上海36人圧死事件はなぜ起きたのか』(文藝春秋)で指摘した。天津事件も人口大国のやむを得ぬ事件として、何の教訓も残さず処理されていくのだろうか。「人の命は何よりも尊い」と何度言ったところで、説得力を欠く。

「人の生命は地球よりも重い」。これは戦後間もない1948年、日本の最高裁が死刑合憲判断を下した際に述べた言葉だ。戦前、戦中は「お国のために死ぬ」ことは愛国的英雄とされた。戦争は1人の命よりも重いものを自由自在に作りだした。命の等しい重さこそ、我々が戦争から学んだ最も尊い核心の価値である。

武士の時代はいわば日々が戦時体制にあった。新渡戸稲造『武士道』でも、林子平や水戸光圀が「死ぬべき時に死ぬ」ことを説いたとして、時宜を逸した死は「犬死」と蔑まされる武士道の神髄を語った。『葉隠』の書に「武士道というは死ぬことと見つけたり」とあるのがまさにそうだ。いかに死ぬかによって、重い命と軽い命があったのである。

中国にはもっと古くから同様の思想がある。前漢の歴史家、司馬遷は獄中につながれ死刑を待つ友人、任安への手紙『任少卿に報ずる書』で、こう語っている。この手紙は「九牛の一毛」で知られる有名な文章である(『漢書』司馬遷伝)。

「人はもとより必ず死ぬものだが、その死はある場合は泰山よりも重く、ある場合は鴻毛より軽い。どのように死ぬかによって異なるのだ」

少数の軍馬を率いて匈奴に乗り込み、挙句の果てに投降した李陵を弁護して、宮刑(去勢の刑罰)を受けた司馬遷。人間として最もひどい辱めを受けながら、史書を編纂する大事業に命を捧げることこそ天命だと悟った彼が、まさに血を吐きながら語った言葉だ。

毛沢東はこの司馬遷の言を戦時下の思想工作に利用した。1944年9月8日、炭焼き作業中、窯が崩れて命を落とした戦友、張恩徳を追悼する講演『人民に奉仕する』で司馬遷の言葉を引用したうえで、「人民の利益のために死ぬのは泰山より重い。ファシストのために働き、人民を搾取し抑圧する者のために死ぬのは鴻毛よりも軽い」と述べた。そして強調したのは次の点である。

「今後、我々の部隊では、誰が死のうと、それが炊事係だろうと兵士だろうと、少しでも有益な仕事をした者であればみな、彼らを弔い、追悼会を開かなければならない。これは一つの制度にすべきだ。この方法は一般庶民の中にも広めていく。村人が死ねば追悼会を開く。こうすることで我々の哀悼の気持ちを伝え、全人民を団結させるのである」

戦争と革命の時代は去ったとはいえ、毛沢東思想の強い信奉者であり、推進者である習近平政権のもと、時流に媚びた学術界の権威たちが「階級闘争の継続」を主張する時代風潮が生まれている。価値観が多様化する時代に合って、敵味方を二分し、彼らの考える異端を抹殺する発想は、世界秩序の維持に貢献すべき大国の責任からは遠ざかる。

今は戦時でなく平時である。追悼が団結を固めるための政治ショーであってはならない。戦後70年の節目に起きた天津の爆発事故は、政権の分岐点を占う、紛れもない歴史的事件である。一人一人の生命が尊重されない社会風土の中で、個々人の活力、創造力が積み上げる国の「軟実力(ソフトパワー)」は育たない。ソフトパワーを欠いた軍事力の「硬実力(ハードパワー)」だけでは、消防士1人も救えないことが証明された。どんな最新兵器をもってしても庶民の生活を豊かに、幸福にすることはできないのだ。これはどの国でも同じことである。