行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『人民日報』が老害を批判・・・人が去れば茶は冷める

2015-08-10 15:34:54 | 日記
8月10日の『人民日報』理論面に「"人が去れば茶は冷める"の対処を論考する」とのコラムが掲載された。この時期にどうしてこのコラムが掲載されたのか。興味が湧いたので分析してみたい。http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2015-08/10/nw.D110000renmrb_20150810_3-07.htm

中国では政治家が引退しても、在任中の人脈や影響力を行使して政治に口出しをし、一派の利益を守ったり、さらに勢力を拡大させようとする事例がしばしばある。お客を招いている間は熱い茶を用意するが、客人が帰ったら自然に茶は冷めていく。つまり、引退したら後任の仕事に干渉せず、静かに隠居生活を送るべきだとするのが人の本来あるべき道だ。同コラムはこう言っている。まともな見解である。

ではなぜ今の時期に?

今年の夏は、恒例の河北省・北戴河における党指導部と長老の会議が見送られた。従来、重要事項は避暑地で行われるこの公式・非公式会議で協議されてきたが、すでに夏休みに入る前、正規の党中央政治局会議を相次ぎ二回開いて懸案事項を決定したため、不要となったのだ。『文藝春秋』8月号で指摘したが、昨年の北戴河会議では江沢民元総書記が習近平政権の反腐敗政策に支持を表明したことが党内の幹部会議で報告され、習氏の江氏ら党長老に対する権力の優位が確立された。習氏はもう年寄りに気遣って政治をする必要はなくなったということなのではないか。

"人が去れば茶は冷める"はもともと、花街における男女の感情をたとえたものだという。会っているときは情を交し合っても、帰ってしまえば他人になる。そんな悲しい人の性が込められているのだが、老人については逆に、そうした淡白な身の処し方こそ望ましいと言っているのである。長幼の序は、儒教の影響を受け家族の人間関係を重んじる中国の伝統的価値観に支えられたものだ。それを変えるのは容易でない。高齢化社会を迎えようとしている中国で、老人ホーム拡充のネックとなっているのは、老人の世話を放棄し、他人に任せることへの抵抗感、罪悪感である。

とは言っても、中国は改革・開放後、制度上は幹部の若返りを進めており、70歳を過ぎた老人が現役でいることはほとんどない。実権のない老人クラブが集まり、政策を決定することは起こりえない。むしろ日本の方が、組織における高齢化が際立っている。80歳を過ぎても権限のあるポストに残り、実際に実務を行っているケースは珍しくない。豊富な経験が組織運営に生かされればいいが、東芝事件が物語るように、悪弊も大きい。年齢が災いして唯我独尊となり、人の声が耳に入らず、時代の流れに疎くなるためだ。

日本ではこれを「老害」と呼ぶが、実は中国でもこの漢字が逆輸入されてきている。どうもアニメの影響らしいのだが、私はアニメ自体に詳しくないので若者に聞かないとわからない。もっとも中国ではまだ、年寄りを指して「老害」と言えるほど、伝統文化はの力は弱くない。当面は"茶が冷める"と比喩的な言い方をしているが、もしかするといずれは明確に「老害だ!」と批判の声が上がるかも知れない。これもまた習権力の強弱を図るバロメーターになるのだろうか。

寅さんの闘病仲間からもらった手紙

2015-08-10 09:28:03 | 日記
映画『男はつらいよ』シリーズ48作で寅さんを演じ続けたで俳優の渥美清さんがこの世を去ったのは19年前、1996年の8月4日だ。実はその3年後の1999年同日、私は渥美さん(本名・田所康雄)が眠る東京新宿の源慶(げんきょう)寺にある墓前にいた。この日、墓参に来るゆかりの人たちを取材しようと待っていた。

「3年たっても忘れない友こそ、真の友だ」

渥美清さんは私生活を一切明かさず、派手な交際も好まなかった。ベールに包まれたその名優の素顔に迫ろうと試みたのである。彼の母校、板橋区立志村第一小学校の松尾民子校長から、同校創立70周年で人と人のかかわりを学ぶ「寅さん研究」をしたいと聞かされ、新聞紙面で参画しようと思いついたのが発端だった。こうして読売新聞都内版に同年8月から12月にかけ計71回、友人たちが語る連載企画「拝啓 渥美清様」が生まれた。同シリーズは好評で、中央公論新社から単行本、文庫本としても出版された。

同企画の語り部の一人に梅村三郎さんがいた。渥美さんはフランス座で役者の下積みをしていた1954年5月から約2年間、埼玉県春日部市の病院で結核の療養生活を強いられた。その際、同じ病室で知り合い、弟のようにかわいがったのが7歳下で板金工の梅村さんだった。同病院では入院患者の半数近くは助からなかった。渥美さんは梅村さんを、坊主をもじって「ボンズ」と呼び、梅村さんは本名の「田所康雄」から「ヤッサン」と慕った。

渥美さん闘病仲間にたたき売りの口上をやって見せ、人気者だった。その後の寅さんの片鱗がうかがえる。トイレに立つのにも、タオルを肩にかけ、歌舞伎役者みたいに口をひん曲げて「それじゃあ行ってくるぜ」とおどけて見せた、とは梅村さんの述懐だ。畑仕事をしている農家の人には、大きな声で「みなさま一日お仕事ご苦労さんでした」と、セリフの練習をするように呼びかけた。
 
梅村さんが涙ながらに語ったエピソードがある。退院後、結核患者だからという偏見から以前勤めた工場の職を失い、落ち込んでいたころ。住まいのあった赤羽駅近くで突然、フランス座に復帰していた渥美さんとばったり再会し、「なんてつまんなそうな顔してんだよ。おれの舞台見に来いよ」と誘われた。

「自分よりも多く肺を取った人が、舞台で額に汗をかき、客を笑わせていた。感動したなあ。肺を取った者のツラさは経験しなけりゃわからない。言葉じゃ何とでも言えるけど、ヤッサンは芝居で『負けるな』と励ましてくれたんだ」

梅村さんがずっと大切にしている言葉だ。二人の関係は途絶えることなく続いた。

梅村さんとは取材で知り合い、その後、折に触れ直筆の手紙をもらった。わざわざ都内の我が家まで自分の趣味で撮った花の写真を届けてくれたこともある。その梅村さんが先日、私の書いた『文藝春秋』8月号の記事を読み、かつての結核病棟の見取り図を添えた手紙を送ってくれた。冒頭の写真が見取り図だ。それぞれの場所に記憶に残された思い出が書き込まれ、「雪割草は 踏まれても踏まれても 雪を割って出てくる逞しさがある」と話していた渥美さんの言葉が記されている。

文面には「私11月で80歳になり体力の衰えはありますがまだ元気です」とのことで、私の独立宣言に「いつかこの日が来るのではと感じていましたよ!心より大きな拍手を送ります」とあった。そんな目で見られていたことを知り、驚いた。人はえてして、他人はよく見えるが、自分のことはよくわかっていないのかも知れない。

また「お守り」として、渥美さんと山田洋次監督が写っているテレフォンカードが同封されていた。手紙には「私のこれまでの人生の中で特に、記者魂の加藤隆則さんと、役者魂の渥美清さんとの出会いを誇りに思い幸せだと思っています」とありがたい言葉も書いてあった。固く結びついた私たち二人の関係もまた、渥美さんの遺徳なのだろう。

連載企画後、私は時々、冗談半分にメールの最後に「寅次郎」と署名するようになり、いつしか私を「寅さん」と呼ぶ友人も出てきた。退職の通知をした他新聞社の親しい記者からはこんなメールも届いた。

「少し落ち着いて考えてみると、結構前からいつかそんなときが来るようなが予感がしていたのでした。いずれにしても、寅さんのことですから、みんなをあっと言わせる新たな道を進まれることでしょう」

期待には応えられないと思うけど、地道に励むことを約束します。『男はつらいよ』第5作には「地道な暮らしってのはいいなあ」なんて、旅人らしいセリフもありますので・・・。