行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「戦後70年談話」有識者懇の重大な認識の誤り

2015-08-08 05:51:49 | 日記
安倍首相の諮問を受け、戦後70年談話について検討してきた有識者懇談会が6日、報告書を公表した。メンバー16人が計7回の会合を経て作成した、計38ページに及ぶ力作である。これがそのまま首相談話になるわけではないが、メディアには肯定的な評価があふれているので、あえて異なる視点を提供する。この批判精神こそが、日本が戦後、「痛切な反省」に基づいて自由民主主義を育ててきたとする同報告書の趣旨に合致するからである。

日本が「満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった」(3~4ページ)と述べ、「侵略の定義は国際的にも定まっていない」とする安倍首相を牽制した。戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話にも「侵略」への言及があり、報告書の指摘は当然である。

むしろ複数メンバーの異議に触れたことは、安倍発言への同調がうかがえ、後退の感がある。これは言論の自由とは異なる次元の問題ではないのか。学術的な侵略論争と、日本が実際に行った事実の自己反省に立った歴史認識は、分けて考えなくてはならない。報告書は自ら「痛切な反省」に冷や水を浴びせる自己矛盾を含んでいる。近現代史教育の強化を提言しているが、報告書自体が立派な副読本の性格を持っており、どのような教育を示唆しているのか疑問が残る。

もし「侵略」の「痛切な反省」に立つのならば、「被害者の側もこの加害者の気持ちを寛容な心を持って受け止めることが重要である」との物言いは生まれてこない。この一文はあえて入れる必要があったのだろうか。かえって物議をかもす逆効果を生むように思う。報告書は本来、侵略を受けた国に対する提言をするために作られたものではない。

私は中国と縁が深いので、中国に関する記述についてはより深く読み込んだが、「抗日教育」や「反日意識」に対する認識には非常に違和感があった。

まず、「現在まで続く中国における抗日教育の素地が醸成されたのは、この時期(1980年代)の小平の指導の下でのことであった」(21ページ)とあるが、中国共産党による抗日教育は、毛沢東が指導した戦時下にあって、バラバラだった中国の民を団結させるために強調したのが発端である。戦後、毛沢東が日本の要人に対し「日本の侵略に感謝する」と述べているのはこのことを指している。さらに戦時中は国民党統治下の北京や上海などの大都市において、現在とは比にならない抗日デモが起きているが、これらには背後で国民党が関与していたことを、リットン調査団が指摘している。

だから、それに続く「抗日教育による歴史認識の高まりと共に中国国民の間で徐々に反日意識は強くなっていったが」というくだりは根拠を欠く。次に「1980年代においては経済分野における友好関係が歴史認識問題を相殺し、日中双方の国民感情は比較的良好であった」とあるが、中国にとって建国に直接かかわる抗日戦争の歴史問題は、経済とバーターできるほど簡単な問題ではない。

私の中国留学は1986年だが、中国人にとって豊かな日本はあこがれの対象ではあったが、戦争の歴史が話題に上ると、身内に何らかの犠牲者を持つ大半の中国人は急に表情をこわばらせ、語気を強めた。日本の軍国主義と戦争の犠牲者である一般国民を分ける「軍民二元論」による日中国交正常化も、毛沢東、周恩来というカリスマ性を持った指導者がいたからこそ、中国庶民を納得させることができた。戦争を率いた強いリーダーが去り、社会で言論の自由が進めば、軍民二元論の重しも弱まるのである。

歴史と経済の関係は「相殺」ではなく、経済=共通利益を土台として歴史=対立を乗り越え、歴史を乗り越えることで経済が強化される不可分な循環の関係である。だから「1990年代初頭から続いた日中間の歴史認識を巡る対立は、この戦略的互恵関係の確認により、一応の区切りを見せた」(22ページ)とあっさり言い切っているのは、非常に浅薄な認識だと言わざるを得ない。こういう「相殺」的発想は、どんな親日的な中国人であっても絶対受け入れないだろう。歴史と経済は別々だが、相互に不可分のものであるという認識に立たなければ、真の戦略的互恵関係は築くことができない。

中国には2万社以上の日系企業が1000万人の中国人を雇用している。中国はかつてのように廉価な労働力を使い低コストの製造によって利益を上げる生産の拠点ではなく、13億人の巨大な消費市場である。外資はそこをターゲットとしたマーケティングの必要に迫られており、中国人の思考や発想、文化や歴史に深い理解がなければビジネス自体が成り立たない。有能な中国人をパートナーにするためにも、正しい対中認識は極めて重要だ。

また報告書では中国での反日意識がすべて抗日教育の成果であるかのように指摘されているが、これも大きな間違いである。1980年代以降、日本の政治家による侵略のや南京事件の否定発言が、中国における抗日教育に拍車をかけた側面を忘れてはならない。この経緯の反省を欠き、反日感情のすべてが共産党政権の自己都合によるものだという認識を抱き続く限り、永遠に日中は和解できない。ただ救いなのは、報告書が「国策としてアジア解放のために戦ったとすることは正確ではない」(4ページ)と暗に政治家の発言を戒めていることだ。中国で働く日本人ビジネスマンの本音は、「商売は自助努力でやるので、政治家に望むのはその邪魔をしないでほしいということだけ」である。

それと最後に、懇談会のメンバーに読売新聞と毎日新聞の記者が2人入っているが、これはよくよく考えた方がよい。政府の諮問機関にメディアが加わるべきか否かの議論は常にあるが、今回の懇談会は首相個人の色彩が色濃く、国際社会も注目するセンシティブな政治的、歴史的内容を含んでいる。報道機関の独立性を保つためにも、中に入るべきではなかったと思う。

言論機関の意見を反映する方法は、部外者からのヒアリングという形で十分可能である。本来、日々の報道が監督の機能を期待されている。記者も個人の資格で参加しているわけではない。官僚主義がはびこる大新聞社は、記者のブログ開設も禁じられるほど個人の言論が制限されており、いやが上にも新聞社を代表しての発言となる。このためメンバーに加わった途端、そのメディアは独立した、公正な立場を失うことになる。それでなくても体制化するマスコミが批判され、権威を失ってる中、ますます体制寄りの印象を強めることになる。得るものがなく、失うものが大きすぎる。

以上が、報告書の批評を通じ、より深い戦後70年の反省をしたいとの思いで書いた雑感である。酒を飲んで寝てしまい、午前3時時過ぎから書き始め、気が付いたらもう5時を過ぎていた。8・15までちょうどあと1週間である。