行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国知識人の良心は保たれたか?『炎黄春秋』が万里追悼記事

2015-08-22 16:51:53 | 日記
一時期は存亡の危機が叫ばれていた民主派の歴史月刊誌『炎黄春秋』の8月号に、「万里的政治担当」と題する追悼記事が掲載された。万里・元全国人民代表大会常務委員長は7月15日、満98歳で亡くなった。天安門事件では外遊先で学生デモを愛国的行為と称えながら、戦友である小平に説得され、武力弾圧を受け入れた。日和見とも評されるが、開明的な政治姿勢を持ち、引退後は一切政治と距離を置いた潔白さに対し、民主派知識人の中でも慕うものが多い。同誌の記事はその表れである。

編集責任者の徐慶全氏が執筆し、杜導正同誌社長の娘で秘書長の杜明明氏が名を連ねているのは、彼女の関与で社内対立が生まれているとの風評に対し、団結を示す意図があるのだろう。俗物的な手法だが、記事は政治の民主化を唱えた万里の功績を正面からたたえる内容で、同誌の顕在ぶりをアピールしたことにはなる。

万里は習近平総書記の父、習仲勲のよき理解者で、晩年を深圳で不遇に過ごした習仲勲をしばしば見舞った。政治闘争に振り回された習仲勲は在任中、不当なレッテルで政敵を打倒する弊害を訴え、異なる意見を許容する「不同意見保護法」の構想を語った。万里には「党が異なる意見を受け入れる政策を推進できなかったことは遺憾だ」と、日の目を見なかった同法の無念を漏らした(『万里国慶節講話』)。

万里は保守派の反対で党中央政治局常務委入りを阻まれたが、国共内戦を同じ部隊で戦った小平の強い信任を得て官途を全うした。明暗は別れたが、習仲勲と万里はともに改革開放の基礎を作った盟友関係だった。万里は農民の意欲を引き出す請負制を導入して飢えを救い、「コメが欲しければ万里を探せ」との言葉をはやらせた。だが同誌の万里追悼記事は、農村改革だけでなく、政治改革論者としての素顔に焦点を当てた点で際立っていた。

万里は副首相だった1986年の公式会議で、「建国後、我々は民主と法制の問題について自覚を欠き、法制建設を重視せず、多くの事は指導者の言うままだった。上から下まで指導者の言葉に従う習慣が出来上がり、問題が起きても法律によって解決することに慣れていない。我々には人治の経験しかなく、法治の観念を欠いている」と述べた。また同年、大きな反響があった民主と科学の不可分性に関する演説では、以下の通り習仲勲と相通ずる発言をした。

「(自由な発言や研究を認めた)『百花斉放、百家争鳴』の方針が貫徹されなかった重要な原因は、しばしば政治問題上の異なる意見を“反党”“反社会主義”“反革命”とみなし、こうした概念が副作用をもたらしたからだ」

「指導者は人々が十分意見を発表する民主的な権利を尊重し、他人が異なる意見を述べたり、自分の話に反対したりしても、恐れるべきではない。かつて『言う者に罪はなく、聞く者は戒めとする』と言った。これは正しいが、まだ後ろ向きだ。前向きな言い方は『言う者に功があり、聞く者は益を受ける』とすべきだ」

こうした政治的立場はもともと、毛沢東が政権奪取前、国民党の一党独裁を攻撃し、共産党の民主を強調する中で語られてきた。毛沢東は抗日戦争終結前の1945年4月24日、各党派との連携を呼びかけた演説「連合政府論」で、「人民の自由がなければ、真の民選の国民大会はない」と大幅な言論の自由を訴えた。習仲勲や万里ら開明的な指導者は、毛沢東が語った党の原点に忠実だった。

『炎黄春秋』は、歴史の真相を明かにし、教訓をくみ取ることを編集方針とする。現代へのメッセージを発することが目的だ。天安門事件で中国が国際的に孤立する中、中国知識人の良心を伝えようと創刊された。すでに24年を迎え、発行部数は定期購読者が大半で約20万部にのぼる。組織を持たない、独立した硬派雑誌としては極めて多い。

同誌が存続できたのは、習近平氏が父に対する最低限の礼を尽くしたとも言える。だが知識人に対する冷淡さは、「建国の父」毛沢東を学び過ぎている。二人の父を持ったリーダーは、いったいどのように折り合いをつけているのだろうか。


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