行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア】教会の町・長崎にある寺院そして孔子廟

2016-01-30 21:25:54 | 日記
長崎・興福寺の黙子禅師が観光名所の眼鏡橋を架けたことはすでに触れたが、興福寺の歴史も振り返らなければならない。興福寺は、風頭山の山麓に散在する寺町通りにある。建つ興福寺は、日本最古の黄檗禅宗の唐寺で、福建人の隠元禅師が渡日後、最初に住んだ寺として知られる。隠元は京都宇治に万福寺を開き、日本の仏教界に不滅の功績を残した人物だ。中国から人の往来と同時に信仰も伝わった。興福寺をはじめ崇福寺、福済寺などは長崎唐寺と呼ばれる。日中間の戦火を経てなお現存していることが、この町の包容力を物語る。

明治時代、中国の清朝政府と華僑によって建てられた孔子廟も残る。琉璃瓦や青白石製品の欄干、孔子像、72賢人石像などすべて中国から取り寄せられたというから、信仰の篤さが感じられる。唐人屋敷には、福建会館や天后堂に海の神である媽祖が祀られている。東南アジアのチャイナタウンで必ず見かける航海の神だ。故郷を離れ、海を渡って異郷に移り住むことは命がけだったのだ。

さらに今、注目されているのが世界遺産登録に申請中の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」である。7月に決定されるというので、町中のあちこちに宣伝ポスターが張られている。フランシスコ・ザビエルが平戸にキリスト教を広めてから450年間。その間、江戸時代の250年に及ぶ弾圧、潜伏を経て、奇跡的に現在に伝わる信仰の歴史である。寺院や孔子廟が中国、東洋文化との交流だとすれば、キリスト教文化は西洋との出会いである。言うまでもなく、その中で残された文化遺産は、長崎にとどまらず日本全体に及んでいる。

長崎はかくも信仰の多様さを維持してきた点で特筆すべきである。当然、世俗的な軋轢や衝突、対立はあったにせよ、むしろそうした相互作用が自己保存の力を強化したとみるべきだろう。

歴史学者の宮崎市定は『世界史序説』で、イスラム教徒キリスト教が相互に影響を受け合った歴史について語っている。氏によれば「イスラム教はもともと西アジア地域における宗教的無政府状態に刺激されて起こり、キリスト教・ユダヤ教・拝火教等の堕落を慨嘆して、真の一神教を樹立し、庶民の救済を念願として奮起せしもの」である。それは宗教運動であると同時に社会運動であり、思想革命であると同時に政治革命であった。こうしてイスラム文明の発展がみられ、

「当時のイスラム文明は、西方ヨーロッパの中世社会に対し、東方より照らし耀ける光明であった。古代ギリシャの重要文献はアラビア語の翻訳を通してヨーロッパに紹介せられた。常に敵対意識の下にあったキリスト教僧侶ですら、イスラム諸国に留学してその寺院において神学の理論と実際とを研究せざるを得なかった」(同書)

ほどであった。氏によれば、イスラム文明の勃興とモンゴル民族による西アジア制服によって、イスラム教とイスラム教世界の反目が一時的に解消されてアジアとヨーロッパ密接に結び付き、ヨーロッパにおけるルネッサンスルと宗教改革につながっていく。歴史を断絶や分断、対立の視座ではなく、相互が響き合う変化、発展としてとらえる見方には賛成である。

教会と寺院、孔子廟が共存する長崎の町を歩きながら、そんな感慨をさらに強くした。

【日中独創メディア】「熱烈歓迎!」の垂れ幕が連なる長崎の町

2016-01-29 12:04:09 | 日記
孫文と梅屋庄吉との交流の源流を探るべく長崎を訪ねてきた。三菱長崎造船所で大型客船が建造中であり、かつ先日の歴史的な大雪が重なり、市内のホテルはどこも満杯。やむなく空港近くの大村のホテルに泊まった。高速道路はまだ閉鎖中だった。長崎市内へは列車で約1時間。車窓に雪景色を見ながら、のどかな列車の旅である。

驚いたこと、新たな発見がたくさんあった。チャンポンの語源が福建語の「ごはん食べた?」であること。江戸時代、出島を通じて中国人を受け入れ、彼らが町の建設に貢献したこと。観光名所の眼鏡橋も江戸初期の寛永11年、江西省出身の僧で長崎市内の興福寺にいた黙子禅師が作ったこと。日本語と中国語の通訳も豊富な人材が育ち、明治の開国後、日中通訳も長崎人が活躍したこと。



やはり現場に行かなければ気付かないこと、わからないことがたくさんある。自分の不勉強を恥じるばかりである。香港上海銀行も英国領事館もきちんと残されていたが、上海のそれは何倍も規模が大きく、20世紀初頭における上海発展のすさまじさを改めて実感することにもなった。

日本の開国は長崎にとって、オランダ、中国以外の強国が貿易に訪れることを意味した。それは経済交流の拡大、社会発展のチャンスであったが、一方の上海は敗戦によって強制的に開かれたもので、半植民地化の第一歩であった。上海の繁栄、富は主として外国人とそれに結びついた者に占有され、中国人が主人公になれない悲哀もあった。長崎から様々な日中の歴史が透けて見えた。

そして今、新地の中華街は2月8日からの春節(旧正月)に向けたお祭りの準備に忙しい。広場には動物のオブジェも並んでいた。赤い灯(ランターン)をあちこちに飾り付け、ランターン祭りと呼ばれる。2週間も続く一大イベントだ。梅屋庄吉が生まれ育ったエリアにはアーケードの商店街ができている。近くのふ頭に接岸される春節の爆買ツアーを見込んで、「熱烈歓迎!」の赤い垂れ幕が途切れなく吊り下げられ、竜の飾りが頭上を練っていく。





中国にいるのではないかと錯覚するが、ランターンに「春節祭」と書いてあるのがいわゆる和製中国語っぽい。道行く人たちの表情は、ごく自然にお祭りを迎えようとしているように見える。長い交流の歴史が日常に溶け込んでいるように感じた。

【日中独創メディア】中国文学から学んできた日本、今は?

2016-01-26 23:08:45 | 日記
森鴎外の短編小説『魚玄機』は、唐代の著名女流詩人が、嫉妬ゆえに破滅する不運を描いたものだ。短い文章の中に、愛情に翻弄される女の悲哀が引き締まった漢語で凝縮されている。それを読んでいたら、期せずして白居易に出会った。『魚玄機』にはこうある。

「詩が唐の時代に最も隆盛であったことは言を待たない。隴西(ろうせい)の李白、襄陽(じょうよう)の杜甫が出て、天下の能事を尽した後に太原の白居易が踵(つ)いで起って、古今の人情を曲尽し、長恨歌や琵琶行は戸ごとに誦んぜられた」

「古今の人情を曲尽し」とは、人の感情をあますところなく言い表したということだ。詩人に対する最高の賛辞である。白居易は日本人に最も親しまれてきた詩人の一人であり、『源氏物語』にもしばしば引用され、清少納言は『枕草子』で「文(ふみ)は文集(もんじょう)」とまで言った。文集とは白居易の詩文全集『白氏文集』である。「文集」とはすなわち『白氏文集』を意味したほど親しまれたのである。

白居易は、『長恨歌』ばかりがもてはやされることに不満で、作詩は政治に奉仕すべきとの持論を語ったが、国境を越え、時間を越え愛唱されているその事実が、政治を越えた普遍的な価値を有していることを証明している。それは弱者への優しいまなざし、愛ではなかろうか。本人は栄達を極め、余りあるほどの名声に浴したが、決して恵まれた家庭でなかった生い立ちも影響しているだろう。

杜甫の詩に「朱門朱肉臭し 路に凍死の骨あり」がある。権力者の腐敗と兵役と課税に泣く老百姓の苦境を凝視した有名な一首だ。官途に恵まれず、貧困にあえぎながら諸国を放浪した杜甫は、各地で社会の不条理を目にし、「路に凍死の骨あり」と言い放った。同句を収めた詩『自京赴奉先県詠懐五百字』の中には、愛児を餓死させ「人の父として恥じとなす」と悲嘆に暮れる父親の心情も詠われている。杜甫自身は士族で、老百姓に課せられる兵役や税は免れているが、老百姓の置かれた苦境を思い、悲嘆は収まるところを知らなかった。有徳の士を意識した儒者の気負いを思わせる。

だが、白居易は平易な言葉で、徹底して庶民の心に寄り添うおうとする愛が感じられる。有名なのは『売炭翁(ばいたんおう)』だ。以前、拙著『中国社会の見えない掟 潜規則とは何か』(講談社現代新書)で全文を引用したことがある。「魚肉百姓」という言葉が象徴するように、権力がほしいままに無防備な庶民を食い物にする圧政はやまない。

顔をススだらけにした翁が牛車を引き、飢えをしのぐため炭を売り歩いている。雪が降り、路面は凍り付いているが、身につけているのは単衣だけだ。皇帝の使者だという役人が通りかかり、引っ立てられる。炭を持って行かれるが、代わりにわずかな布を与えられただけで、不平を漏らすこともできない。

 炭を売る翁、薪を伐り炭を焼く 南山の中。
 満面の塵灰 煙火の色、両鬢蒼蒼 十指黒し。
 炭を売り銭を得て 何の営む所ぞ、身上の衣装 口中の食。
 憐れむ可し 身上 衣 正に単なり
 心に炭のやす賤きを憂え 天の寒からんことを願う。
 夜来 城外 一尺の雪、暁に炭車に駕して氷轍をひきにじ輾る。
 牛はつか困れ人は飢えて 日已に高く、市の南門の外 泥中にやす歇む。
 へんぺん翩翩たる両騎 来るは是れ誰ぞ、黄衣の使者 白衫の児。
 手に文書を把り 口に勅と称し、車をめぐ回らし牛を叱り 牽いて北に向わしむ。
 一車 炭の重さ 千余斤、宮使 駆りも将て惜しみ得ず。
 半匹の紅紗 一丈の綾、牛頭に向かって繋け 炭のあたい直に充つ。

 〈訳〉
  売炭翁は、終南山と呼ばれる山の中で、薪を伐り、炭を焼く。満面はホコリだらけで 炭がすすけたような色だ。髪には白いものが混じり、手も真っ黒だ。炭を売って小銭を 稼ぎ、一体何をしようというのか。身を覆う服と飢えをしのぐ食べ物が必要なのだ。か わいそうに、着ているのは単衣だけだ。心配なのは炭の売値が安いことで、値が上がる ように天候が寒くなることを願っている。長安城の外は、昨夜からの雪が三十センチほ ど積もり、朝方、炭を載せた牛車に乗って、凍結した路面を走ってきた。牛は疲れて、 翁も空腹だ。日はとうに高くなっている。南門の外の泥道で休んでいると、さっそうと 二人が馬に乗って現れた。だれかと思っていると、黄色の官服を着た宦官と白の服を着 た若者だった。手に文書を持ち、皇帝の命令だと称し、牛車を引き返させて、北の方へ 引っ立てられた。牛車に積んだ炭の重さは六百キロ以上、役人が持ち去ったとしても、 翁が文句を言うことはできない。受け取った六メートルの紅の薄衣に三メートルの綾絹 を牛の頭にかけて、炭の代金にするしかないのだ。(松枝茂夫訳)

詩はその担い手である科挙選抜のエリート官僚を失い、大衆化への道を歩んできた。その意味で、政治講話として詩を取り込んだ毛沢東は特異だったと言える。だが中国にはその後、匹敵するほどの文芸を持ち得たであろうか。日本もまた白居易の残したものを継承、発展し続けてきた熱意は、冷めてしまっていないだろうか。今夜、仲間内の新年会で、日中出版物の翻訳事情について語り合いながら、新たな道を模索しようと意気投合したところである。

野村萬の狂言『木六駄』は圧巻!86歳の円熟と衰えぬ体力

2016-01-24 22:52:27 | 日記
今日は元日本さくら女王の工藤園子さんに誘われ、国立能楽堂で狂言を見に行った。中国に狂言を紹介する長期プロジェクトがあり、我々のNPO日中独創メディアも支援協力に加わろうという準備を兼ねたものだった。これまで数えるほどしか見たことがなかったが、圧巻だった。門外漢ながら、素朴な庶民の人情と笑い、形式美を備えた表現力は、間違いなく国境を越えると実感した。

演目は12歳の野村眞之介がシテを演じる「二人袴(ふたりばかま)」、和泉流の野村万蔵と大蔵流の山本則孝の共演による「節分」、最後は人間国宝の野村萬(和泉流)と善竹十郎(大蔵流)の大御所による「木六駄(きろくだ)」。

「木六駄」の筋書きはこうだ。主人の言い付けで、薪六駄、炭六駄を牛12頭を率いて伯父に届けるよう使用人の太郎冠者が命じられる。大雪の峠を越えて行くのだが、吹雪の中、牛12頭を従えるのは容易でない。主人から一緒に預かった贈呈用の酒があったが、峠の茶屋でその店のおやじにそそのかされ、寒さをしのぐためと2人で酒を空けてしまう。いい気持になった太郎冠者は、おまけに薪も茶屋に置いて行ってしまう。千鳥足になった太郎冠者が伯父の家にたどり着いて、伯父が怒り、
「やるまいぞ、やるまいぞ」と追いかけ、太郎冠者が「ゆるせられい、ゆるせられい」と逃げていく。

他愛ないストーリーだが、太郎冠者扮する野村萬が、舞台をいっぱいに使って飛び回り、雪山をのらりくらり歩く12頭の牛を現出させる渾身の演技を見せる。荒い息づかいが観客席まで伝わり、あたかも吹雪の中にいるかのような錯覚をする。茶屋で2人が酒を飲みかわす場面では、こちらも一緒に酔いが回ってきそうなほど迫真の演技だ。86歳の年は全く感じない。その年輪の円熟さのみが伝わってくる。終演後、「やっぱりすごいね」「見事だ」と周囲からも声が上がった。

親子を対象にしたファミリー狂言や、お笑い芸人の南原清隆(ウッチャンナンチャン)とのコラボによる「現代狂言X」もすでに10年を迎えた。伝統文化が時代の波に洗われてさらに磨きをかけ、国を越えて新たな光が当たるよう願っている。

私が以前、拙著「『反日』中国の真実」(講談社現代新書)で書いた一節を以下に再録しておく。


日中関係が悪化していた一九二六年、上海を訪れた谷崎潤一郎が興味深い体験談を書き残している。谷崎は、魯迅と親交の深かった書店主、内山完造が主催した招宴で、日本滞在経験のある郭沫若(かく・まつ・じゃく)や田漢(でん・かん)、欧陽予倩(おうよう・よせん)ら文人たちの知遇を得る。中国側から盛大な答礼の宴に招かれた時の様子を、『きのふけふ』に記している。

「あの時分にも日貨排斥の声は頻々と聞こえてゐたのであるし、そして恐らくは、所謂抗日教育なるものも、もうあの頃から彼の国の為政者に依って暗々裡に実施されつゝあつたのであろう。にも拘わらず、その歓迎会の空気は実に和気藹々たるものであつた」(『上海交遊記』)

 酒席の盛り上がりようは、谷崎が「しまひには私が胴上げをされ、頬擦りをされ、抱き着かれ、ダンスの相手をさせられた」と書いており、十分伝わってくる。谷崎が同作品を著したのは、日中戦争中の一九四二年だ。次の言葉は、今なお読み返すべきものである。

 「これは今云ってももう追い着かないことではあるが、せめてあの時分から日支双方の文壇人の間にあゝ云ふ会合がもつと頻繁に催され、又相互の作品の翻訳紹介がもつと盛に行はれてゐたならば、それが両国民全般の融和と諒解とを促進する上に何程か役立ちもし、引いては不幸なる事端の発生に対しても幾分の防壁になつたことであろう。われわれ文芸家は、両国の政治上の衝突とか、経済界の不和とか、一般大衆の日貨排斥とか云ふことゝは無関係に、これを行はうと思へば行ふことが出来る立場にゐた」

 谷崎は中国の文人との交流を通じ、共有できる価値観と東洋人としての親近感を感じ取り、「今こそ余儀なく交際を絶つてはゐるが、将来又もとの親密さに戻れるやうに思はれる」「国と国との間もさうだが、個人と個人との間にしても、斯様な不自然なる絶交状態が、そんなにいつ迄も続き得るものとは、私には信じられないのである」と書き残した。文化の交流を絶つ愚行は繰り返してはならない。








    


  
.

習近平が白居易『長恨歌』を引用したのは正しいか?

2016-01-23 21:32:49 | 日記
昨日、孫文と宋慶齢の純愛について書いた際、白居易(白楽天)の『長恨歌』が思い浮かんだ。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の愛と別れ、死してもなお雲上でかなわぬ魂の再会を求める悲哀を詠んだ。

在天願作比翼鳥(天にあっては常に離れない比翼の鳥となりますように)
在地願為連理枝(地にあっては木を結びつける連理の枝となりますように)

だが

天長地久有時盡(天地は永遠にあるとは言っても尽きるときがある)
此恨綿綿無盡期(この恨みは延々と続いて尽きることがない)

玄宗は愛する楊貴妃を安禄山の乱の中で自害に追い込んだ。それでも思いが尽きず、道士に頼って天上の楼閣に楊貴妃を訪ねさせた。楊貴妃もまた形見の品を永久の誓いのしるしとして渡した。だが現実はどうだろうか。2人の魂は救われぬまま、さまよい続けるしかない。純愛は多くのものを犠牲にした。だが水晶のような輝きは失われていない。輝きがあるからこそ恨みも深い。そう訴えているように思える。

孫文と玄宗。時代背景も身分も異なり、純愛の結末も全く違うが、女性を想う気持ちにおいては同じだったのではないか。少なくとも白居易には愛への共鳴が感じられる。皇帝の不行跡を責める責めるだけであれば、この情深き長編叙事詩は生まれなかった。

古典や古詩の引用を好む習近平も『長恨歌』の一節を引用している。

春宵苦短日高起(春の夜はとても短くて太陽が昇ってから起きた)
従此君王不早朝(楊貴妃を娶って以来、皇帝は早朝の謁見を取りやめてしまった)

宮中の堕落が安禄山の乱を招いた歴史の教訓から、習近平は禁欲や色欲に溺れて腐敗した官僚を戒めた。党中央規律検査委員会の会議での発言だ。だが、『長恨歌』のテーマは果たしてそこにあるのだろうか。白居易は詩を言葉の遊びではなく、政治を批判し、世論を喚起するものでなくてはならないと主張した。文芸と政治を不可分とする士大夫の発想は、「文芸は政治に奉仕すべき」とする毛沢東の延安文芸講話や「文芸戦線は党と人民の重要な戦線だ」とした習近平の文芸工作座談会講話に通ずる。だが、『長恨歌』について言えば、ただただ政治の腐敗を言わんがために七言120句を書いたとは思えない。毛沢東も『長恨歌』を書に残しているが、やはり指導者の戒めとしたとしたものであって、人の心の中にある純愛に触れたとは思えない。

古典や古詩の引用も「つまみ食い」だけでは十分、その精神が伝わらない。ましてや誤った引用は、伝統文化の価値や評価を損なうことにもなる。そしてもっと言えば、白居易のように、皇帝の囲む官僚集団の中にいて苦言を詩に託する責任感、使命感を負った士大夫が今の時代にいるのかどうかも、問われるべきである。習近平のスピーチを練っている幕僚たちも、人の情を知り、かつ指導者に耳の痛いことを直言する腹を持たねばならない。

これは日本の政治においても同様である。メディアも自省した方がよい。