行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

厳しい表情の習近平氏、安倍首相との会見では笑顔だった!

2015-08-07 10:02:10 | 日記
戦後70年を迎える8月15日の終戦記念日を前に、安倍首相の演説が注目されているが、その内容を最も気にしている人物の一人が中国のトップ、習近平総書記である。とはいえ中国はこれまで安倍首相に対し、歴史認識や安全保障問題で「右傾化」「軍事大国化」と厳しい批判を浴びせてきただけに、演説の言葉だけで態度を急変させることは考えにくい。8・15に向け日中両国のメディアは演説のレトリックをめぐる言葉遊びを繰り返すだろうが、皮相的な言説に惑わされないよう、正しい目を持たなければならない。

2014年11月10日、中国が主催したAPEC北京会議の場で、習近平総書記が安倍首相と会見した際、報道陣の前で無表情を装い、不遜ともいえる態度を取った習氏の姿が日本に伝えられた。私は当時、北京に駐在していたが、日本では会議の成果よりも、習氏の表情が強烈に印象に残ったようで、相当の不評を買ったようだった。首脳会談は約25分ほどだったが、メディアが不在だったため、習氏の表情は柔らかく、笑みさえ浮かべていた、との話を聞いたことがある。

私はそれを聞いても驚かなかった。政治家がメディアに見せる表情はどこの国でも外に向けたパフォーマンスに過ぎない。怖い表情とか、笑顔だとか、そんなことから国と国との複雑な利益が交錯する関係を論じても意味がない。逆に、みなが見えない場所で見せる表情には個人の感情がストレートに表れる。なぜ驚かなかったと言えば、習氏は、親日とは言えないまでも知日派であり、対日関係重視の政治家だからだ。

習氏についてはとかく対日強硬的な側面が強く伝えられているため、すぐには耳に入らないと思うが、最低限、以下の事実は知っていた方がよい。

北京の日本大使館は毎春、北京で開かれる全国人民代表大会に合わせ、上京する各地方政府の指導者を会食に招いているが、習氏は浙江省トップの同省党委書記時代、これに応じ日本大使公邸を訪れている。同省と友好関係にあった静岡県の訪中団ともしばしば会っている。「天皇特例会見」で有名になった国家副主席としての訪日のほか、福建省にいた17年間、アモイ市副市長や福州市党委書記、同省省長として計5回、東京や沖縄、長崎を訪問している。訪日歴は、党最高指導部の常務委員の中では最多の6回である。

天皇陛下に対して習氏は「今年は新中国が誕生して60周年です。60年間、特に改革開放の30年間、中国は目覚ましい発展を遂げ、人民の生活も絶えず改善されてきました。陛下が訪中された17年前と比べてもまた、中国の様子は大きく変わりました。この過程において、我々は日本国民の理解と支持を得ました」と感謝の言葉を述べている。

中国が改革・開放政策を導入した当初、外資導入の窓口である経済特区に指定されたのは華僑の多い広東省の3市と福建省のアモイだった。福建出身者には日本の華僑が多く、習氏は改革開放の最前線である福建で、日本存在感を十分認識したのだ。総書記就任直後の2012年12月、最初の地方視察地として選んだのは改革開放のスタート地点である広東省深圳だ。同省トップの同省委第一書記として、深圳が飛躍的な成長を遂げる土台を作ったのが父親の習仲勲元副首相だった。

米ハーバード大名誉教授のエズラ・ボーゲル氏は邦訳『現代中国の父・小平』(日本経済新聞出版社)の中で次のように指摘している。
「1980年代に、日本人たちはさらに多くの援助を行い、他のどの国の人々よりも多く中国に工場を建設した。中国に造られた日本の工場が物差しとなり、中国はこの基準との比較で、効率的工業生産の達成度合いを測った」

日本が1970年代末以降、中国の改革・開放政策に対して官民をあげて多大な貢献をしたことは自他ともに認める歴史の事実だ。改革開放を強く推進した小平や胡耀邦が対日協調路線を取った結果でもある。習近平政権もその延長線上にあることは間違いない。表向き、いくら安倍政権批判を繰り返したとしても、対日重視であることには変わらない。

もっと言えば、彭麗媛夫人は人民解放軍の歌手で、これまで日中交流イベントで何度も日本の歌手、芹洋子と「四季の歌」をデュエットしている。日本語で歌ったこともある。

このへんでとりあえずやめておこう。辛抱強く事実を拾っていくと、今まで見えていなかった姿が見えてくる。メディアは、自分たちが作り出したイメージをいつの間にか受け手の市場だと勘違いし、そのイメージに縛られて抜け出すことができなくなる。自縄自縛である。情報の受け手はもっと賢くならなければいけない。刷り込まれたイメージから脱すれば、違った世界が広がってくる。