行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・北京発】清水安三がつくった北京の崇貞学園を訪問

2016-03-30 15:54:25 | 日記
本日30日、北京市朝陽区の陳経綸中学を訪れた。現在の学校名は、香港の篤志家・陳経綸が1991年、私財を投じて改築したことで名を冠せられた。実は1921年、桜美林学園の創設者でクリスチャンの清水安三(1891~1988)が、女子のために設立した崇貞学園が前身である。「崇貞(貞節を崇める)」とは、当時、貧困ゆえに虐げられていた女子たちを救済する意味が込められていた。宣教師であった清水安三は、慈善事業として女学校を設立したのである。



(陳経綸中学の展示から)

同校内には桜美林大学の北京事務所が置かれ、小林信二所長が案内をしてくれた。正門を入って振り返ると、裏に「崇貞学園」の文字が刻まれている。



壁面には1921年からの同校の歴史が銅板のプレートで示されている。



清水安三が座右の銘とした「学而事人」(学んで人につかえる)の石碑も置かれている。



最初の妻、美穂夫人(1895~1933)の墓碑と一緒に上半身の銅像もある。その墓碑には、美穂夫人が「自分の全身の三分の一を学校に、三分の一を夫に、三分の一を女児た捧げた」と刻まれている。



清水安三は、望みを持ち続けることを教え、その教育の中心には人への愛があった。「現在の教育もまたその原点回帰が求められている」とは小林所長の言葉だ。全く同感である。

清水安三はまた、革命期の中国社会について多くの有益な著作を残し、孫文については「死んでも死なぬは孫文」(『支那当代新人物』)と彼の思想を高く評価した。孫文もまた「博愛」を語り、人類の平等な社会を思い描いた。

今年、孫文の生誕150年を迎えるにあたり、以下の講演会を企画した。孫文と直接交わった日本人の中で、特筆すべきは多額の資金援助によってその革命事業を支援した梅屋庄吉(1868~1934)である。梅屋庄吉もまた、孫文との交友の中で「愛」を語った。人類愛をもって中国人と交わった日本人2人を振り返ることは、日中の相互理解を深めるうえで有意義だと考えた。

【孫文生誕150年記念講演会】

※申し込みは(QVond3bxzR)まで

日時
2016年4月23日(土)午後2時から5時まで
13:30 開場、受付
14:00 講演、質疑応答、交流
17:00 閉会

場所
イトーキ・セミナールーム
http://www.synqa.jp/facilities/2floor/

講演者
日比谷松本楼副社長 小坂文乃「孫文と梅屋庄吉~transnationalな生き方を学ぶ」
桜美林大学教授 高井潔司「北京特派員も務めた桜美林大学創設者、清水安三」 


主催
日中の未来を考える会(代表 保思兆)
NPO法人日中メディア独創会(代表 加藤隆則)






【日中独創メディア】日中の未公開ドキュメンタリー

2016-03-30 10:44:50 | 日記




無錫に桜の植樹を続けている桜友誼林友好訪中団の新發田夫妻には、桜植樹のほかに実現させたい夢がある。

新発田喜代子さんの父親で、桜植樹の提唱者である長谷川清巳さんが中国の若者を日本に招く交流を続ける中で、その中の女性が2012年9月、国交回復40年記念に合わせて映画「千羽鶴」の制作を企画した。彼女の日本留学の経験と桜友誼林の活動が始まった当時の日本と中国の留学生の恋愛物語を描いた作品だ。第25次訪中時には、彼女と映画監督が無錫まで来た。制作は順調に進み、日本ロケ地も調べ、撮影スタッフの日本でのビザも取得したが、尖閣諸島問題で中国側のスポンサーが撤退し、制作が頓挫した。



桜植樹のグループには、中国人留学生の身元引受人になって世話を続けてきたメンバーもいて、多い時は20人もの世話をし、それぞれがその後立派に成長したことを嬉しそうに話している。無錫と揚州の子供たちが来日した時は、まるで孫の世話をするかのように毎日付き添ったメンバーもいた。

新発田喜代子さんはこう語っている。

「『過去の不幸な歴史を二度と起こさない』ために若い世代に引き継ぐことはこれからの課題である。小さな田舎の元兵士の願いがかなった時に世界は平和になることだろう。その時には映画「千羽鶴」を完成させ、世界に「平和と友好」が発信されることを願っている」

同じように未完の作品がある。同じく2012年、日中国交正常化40年を記念して企画されながら、日の目を見なかったドキュメンタリー映像『暖流』である。

『暖流』の企画は胡耀邦元総書記の長男、胡徳平氏が総責任者を務め、聶栄臻元中央軍事委副主席の長女・聶力氏が総顧問、張愛萍元国防相の甥・李鷹氏が総監督と、将軍を含む革命世代の2代目、いわゆる紅二代の65人以上が発起人に名を連ねた大プロジェクトだった。毛沢東や周恩来など中国指導者と日本人との交流、日本人戦犯の反省、国交正常化を支えた民間交流、日本の対中援助など友好交流の歩みを記録したものだ。

胡徳平氏は2011年12月8日、人民大会堂での制作発表会見で、自身の体験を踏まえた日本人との思い出を語った。北京の八一学校で、教育、医療に従事していた日本人技術者の子どもたちと一緒に学んだこと。大平正芳が始めた対中円借款で、谷牧副首相が調印する場面をテレビで見た谷牧の母親が「売国奴!売国奴!」と叫んだが、2009年までに2248億元の借款や無償援助があり、中国のインフラ建設に使われたこと。父親の胡耀邦が重い肝臓病を患った時、日本人医師の稗田憲太郎に治してもらったこと。胡耀邦が1984年、日本の青年団3000人を中国に招いた際は、空軍が飛行機を手配し、軍が多数のホテルを提供してくれたこと、などのエピソードだ。

八一学校は聶栄臻が建てた幹部子女の通うエリート校で、『暖流』制作委員会に総顧問として加わった聶力氏も胡徳平氏の同級生。聶力氏は人民解放軍初の女性中将である。習近平総書記や兪正声人民政治協商会議主席、さらには失脚した薄煕来元重慶市共産党委書記も同校に通ったことがあり、紅二代は幼少期から日本人の子どもたちと交わってきたことがわかる。

聶栄臻は、中国の核兵器開発を推進し「原爆の父」と呼ばれる一方、毛沢東に文革の中止を直言し、天安門事件では武力鎮圧に反対したと伝えられ、気骨ある軍人として知られる。日中戦争時の1940年8月、戦火に巻き込まれた宮崎県都城市出身の少女姉妹を河北省石家荘の近くで救い、日本側に送り届けた。1980年、読売新聞がこのエピソードを取り上げたことで姉妹が名乗りを上げ、北京の聶栄臻を訪れて40年ぶりの再会を果たした。

人道的な行動が両国で感動を呼び、聶栄臻の出身地である重慶江津市と都城市の交流が始まり、中南海にある聶栄臻記念館への訪問者も増えた。聶力氏が「日本からのお客様を接遇するに当たり、友好の印として是非、桜を植えたい」と、八一学校の同級生だった日本人の吉田進・環日本海経済研究所理事長に相談したことが縁で、2010年11月25日、聶栄臻記念館の前庭で桜が植樹された。桜の苗は上海在住の企業家、工藤康則さんが上海で育てた。工藤さん夫人で、「日本さくらの会」女王委員でもある工藤園さんが「植樹式には軍からも将校や士官が加わり、聶力将軍の力強いスコップ運びに日中両国の明るい未来が感じられた」と記している(日本僑報社『日中関係は本当に最悪なのか』)。

工藤さん夫妻は今回、無錫の桜祭りにも参加した。桜を通じた縁である。縁が広がれば、二つの「未完の作品」もいつの日か日の目を見るに違いない。

【日中独創メディア・上海発】善意を受け入れる側の心

2016-03-28 16:37:05 | 日記
27日、上海の日本総領事館で日中文化講演会「桜を通じた絆」が開かれた。NPO法人日中独創メディア、日中の未来を考える会上海支部主催、在上海日本総領事館が共催したものだ。江蘇省・無錫市において29年間に渡り「平和の象徴」として桜の苗木を贈る活動を行ってきた日中共同建設桜友誼林保存協会の新發田豊会長と、第4代日本さくら女王の工藤園子・上海理工大学日本文化交流センター名誉センター長が、それぞれ桜を通じた日中の草の根交流について語った。地元日系企業や日中の学生、留日同学会など100人以上が集まる盛会だった。

片山和之総領事のあいさつに続き、帰国フライトの都合で中座したが、無錫桜祭りに参加した日本さくらの女王の初代、蓮實久子さん、第26代の増田愛子さんも冒頭、工藤さんとともに壇上に上がり、無錫で受けた歓迎ぶりや桜を通じた人の縁について語った。





会場には無錫市政府からも于錦華さん、朱紆晴さん2人が参加し、北京からは国際友人研究会の田濤秘書長が駆け付けた。今回、無錫から上海にかけての行事で感じたのは、29年に及ぶ桜植樹活動の意義ともう一つ、それを受け入れた中国、無錫の人々の存在だった。

無錫桜祭りが開幕した翌日の26日、日本さくらの女王3人と無錫郊外、霊山の祥符禅寺を訪れた時のこと。79歳になる無相法師から寺の歴史を聞かされたが、その中で日本との戦争で壊されたとの話があった。日本軍が多数の非戦闘員を虐殺した南京事件は、上海での激戦を経て、当時、国民政府の首都があった侵攻した末に起きたが、無錫はその中間に位置する。当然、深い侵略の傷跡を残している。

桜植樹は1986年の訪中団が「二度と戦争を繰り返さないよう」と提案したことから始まるが、当時を知る無錫市の元幹部によると、受け入れるべきか、辞めるべきか、意見が分かれたという。反対意見は日本に対する抵抗感からだ。だが結局は、積極意見が通って、1988年から植樹が始まる。いくら善意があっても、それを素直に受け入れてくれる相手がいなければ実は結ばない。相互に少しでもズレがあれば、善意が無になるどころか、反作用を生むこともある。双方の息が合わなければできない。

完全な民間による草の根の活動だが、受け入れるのは地元政府であり、当然、政治と無関係ではあり得ない。これまでの間、日中間の政治的緊張や政治家の不用意な発言によって、何度か危機を迎えたが、双方の信頼関係がそれを乗り越えてきた。並大抵の苦労ではないことは容易に想像できる。だからこそ来年、30年を迎える営みが尊い。

上海総領事館での講演では最後に、同保存会理事で同会会長夫人の新發田喜代子さんからひと言をお願いした。彼女の父が、植樹を発案し、基礎を作った三重県出身の長谷川清巳さんである。突然の指名で戸惑った様子だったが、飾ることなく、静かに、一言一言かみしめるように語る姿が参加者の感動を誘った。



「私も人前で話せるようなことはないのです。父もまた肩書きも学歴もない、壇上でのあいさつも、原稿を見ながらぎこちない話しかできない口下手な田舎のお爺さんでした。中国での戦争経験がありましたが、父は私達家族にも戦争体験のことは多くを話しませんでした。でもそういう経験があったから、桜を植えて、二度と戦争が起きないようにと願ったのだと思います」

長谷川さんが2009年、86歳で亡くなると、訪中団員が一気に減少したが、「一度やめたら次に立ち上げることは不可能だ」との気持ちで続けてきた。その気持ちをまた、無錫市側も共有してきた。桜植樹は新發田夫妻の二人三脚であると同時に、無錫側との二人三脚があったからこそ継続できた。新発田喜代子さんは「二人三脚と言うけど、だんだん歳を取って二人で一人、二人で半人前になっちゃうね、なんて話しているんです」と話した。彼女ももう60半ばである。心配になる気持ちはよくわかるが、今回は上海から日本人留学生ら50人も参加した。若者たちはもうすでに来年の計画も始めている。

しばしば「謝罪」が問題となる。謝罪もまた、する側、される側の息が合わなければ成り立たない。そんなことも無錫の実例は教えてくれている。


【日中独創メディア】語り継ぐべき無錫の日中民間交流史30年

2016-03-27 09:23:16 | 日記
24~26日にかけての無錫桜祭りツアーを終え、上海に着いた。本日27日は当地の日本総領事館で報告会を開く。



無錫は上海から高速鉄道で40分。1人当たり域内総生産(GDP)が2万ドルを超える豊かな都市だ。琵琶湖の3倍以上もある太湖に面し、自然環境にも恵まれている。日本企業が1200社余りあり、1800人の邦人が暮らす。1986年に尾形大作が歌った『無錫旅情』がレコード大賞を受賞し、日本で一気にその名を知られた。この年、民間有志が当地を訪れ、1988年からの訪中桜植樹につながる。受け入れる無錫側の決断もあった。日本軍による南京での虐殺事件は、上海から無錫を経て南京に侵攻した末に起きている。日本軍の歩んだ道が中国人にとっては傷跡だった。

今年はあれから30年。桜植樹グループは日中共同建設桜友誼林保存協会と命名され、植樹した桜は約1万5000本に達した。無錫市政府も整備に乗り出し太湖湖畔に計3万本の桜園が誕生。園には「中日桜花友誼林」と書かれた大きな石碑が建てられ、シーズンには1日数万人の人出でにぎわう。一時は1000人を超えた日本からの桜植樹ツアーも今年は12人に減ってしまったが、上海の日本人留学生ら50人が植樹に加わり、歴代三代の日本さくらの女王も無錫市のゲストとして招かれた。日中の政治関係が緊張状態にある中、得難い人の交流だ。その土台にあるのは30年に及ぶ実績の土台である。



前保存協会会長の長谷川清巳氏は戦時中、中国での体験があった。二度と戦争を起こしてはならないとの思いが、多くの人をリードしてきた。30年の歩みは過去の反省、教訓、そして未来への願いの上に成り立っている。無錫側にも多くの人物が日本人の好意を受け入れる寛容さを示した。無錫市対外友好協会の王錫南会長をはじめ、同市外事弁公室主任を11年間務めた蔡大鋼氏(現同市物価局局長)の存在を抜きにはあり得なかったであろう。蔡氏はすでに関係の職務から外れているが、必ず桜祭りの開幕式会場に姿を見せ、旧交を温めている。

今年は24日夜の市長主催レセプションで、王会長が予定された発言原稿に加え、「日本さくらの女王は非常にきれいだ。無錫も来年は無錫のさくら女王を作ろう」とスピーチし、拍手喝さいを受けた。中国には「女王」の呼称はなじまないかも知れないが、さくら娘、ミス桜、桜ベービーなどいくらでも考えようがある。是非、実現させて欲しいものだ。こうした新しいアイデアが、若者たちの参画を呼ぶことになる。王会長は参加した第26代日本さくらの女王の増田愛子さん(22)に、「今度はお友達を連れてきてください」と繰り返し話していたが、それも次世代に語り継ぐことの大切さを痛感しているからこそだ。



桜の苗木と同様、まだよちよち歩きのNPO法人日中独創メディアも、日中の情報発信を強化するため、微力ながら今回の行事を側面から支えることに力を注いだ。学ぶべきは、困難を乗り越え、着実に、地道に、黙々と桜を植え続けてきた人々の営みである。その土台を継承し、さらに発展させるべく、汗をかき、知恵を出していきたい。植えた桜は春ごとに花を咲かせ、いずれ大木に育ち、今度は新たな芽を育てる。今日午後の講演会が来年への期待と希望につながることを願っている。



習近平総書記の権威が高まっている証拠なのか?

2016-03-27 00:56:55 | 日記


本日、上海・虹橋地区でタクシーに乗っていて、信号で止まったと思ったら、運転手が「こりゃ面白い演出だ」と言い出した。彼が指さす右手を見ると、二階建て建物の壁面いっぱいに習近平総書記のポスターが張られていた。全部で数百枚はあるだろう。圧巻だ。最初はなにかのパフォーマンスかと思ったが、やがて合点がいった。周囲は高層ビルが立ち並ぶ。谷間のようにぽっかり空いた空間に建つ老朽化した建物は、早晩、立ち退きの運命にある。



立ち退きの補償交渉がこじれているのだろう。総書記・国家主席のポスターを錦の御旗にして、抗議の意思表示をしているのだ。「壊せるものなら壊してみろ。総書記が許さないぞ」というわけである。開発が進む中国で立ち退き紛争は日常茶飯事だ。上海ではかつてかなり強引なやり口がまかり通っていた。政府の意を受けた地上げ屋が、反対している老人の家に放火し、殺人事件まで起こしている。

近年はインターネットでの監視も厳しく、そう手洗いまねはできないが、補償条件をめぐるトラブルは絶えない。反対住民は中国の国旗や横断幕を掲げて抵抗するのが一般的だが、指導者のポスターを張り巡らすのは初めて見た。交渉が決裂し、最後にすがったのが国家指導者の習近平ということなのだろう。彼の権威がそこまで高まっていることの証でもある。

夕食を終えて夜、同じ場所を通り過ぎると、すでにポスターははがされ、隠されていた商店の看板が現れていた。国家主席は肖像権の侵害を訴えるだろうか。難しい選択を迫られるに違いない。