本日、自宅近くの中野駅北口で、都知事選に立候補している鳥越俊太郎氏の選挙演説があるというので足を運んでみた。記者会見やこれまで報じられた演説内容に疑問を持っていたので、実際にこの目で確かめる好機かと思った。自民、民主党を問わず組織を背景にした候補には飽き飽きしたので、特段の期待があったわけではない。ジャーナリストを肩書にしていた人物が平気な顔をして政界に転身する日本の異常さについて、何か考えるヒントが得られればという気持ちがあった。
演説内容は目新しいものがなく、「非核」「原発反対」のスローガンが際立った。対立候補への攻撃もこのテーマに関するものだった。安倍批判をするたびに、明らかに動員されたと思われる人たちの拍手が起き、国政選挙かと見まがう印象を持ったが、都政については大した中身はなかった。だが大きなミスもなく、たびたび耳にしていた悪評に比べ、大過のない演説だったと感じた。気になったのは応援演説をした地元選挙区選出の民主党、長妻昭衆院議員のスピーチだった。舛添前知事の政治資金不正流用問題を指摘し、長妻氏はこのように話した。
「鳥越さんはジャーナリスト出身なので、情報公開には熱心に取り組んでくれるはずだ」
長妻氏も元日経ビジネス記者なので、同じように元ジャーナリストの身分を持つ。ジャーナリスト=透明というステレオタイプの図式を群衆に刷り込もうと思ったのだろうが、強烈な違和感を感じた。政治家は多くの情報に接するが、自分に都合の悪いものは隠すのが習性だ。権力を握った者の宿命だと言える。それを暴くのがジャーナリズムの重要な使命である。立場が変わればものの言い方も、考え方も変わる。ジャーナリストであろうとなんであろうと、政治家になれば政治家の利益と責任に応じた行動規範に従うのは、自明の理である。鳥越氏本人は行政の透明性について一言も触れていないので、特段、ジャーナリスト出身であることを売り物にしているようには思えなかった。
ずいぶん「ジャーナリスト」が安っぽく使われたなあ、という後味の悪い感じが残った。職業選択の自由は憲法で保障されており、違法でない限り、だれがどのような職業を選ぼうと自由だ。だが、権力と一線を画し、権力を批判する立場に立つべきジャーナリストが、一転して権力者を志す以上、しかるべき理由をきちんと説明する責任がある。この点、近年、とみに増えている‟元ジャーナリスト”の立候補者が、180度の転身について、有権者が納得する答えを述べた例はないように思う。突然、身を翻すようにしてもっともらしい政治公約を掲げ、その公約がジャーナリストではなぜ実行できず、なぜ政治家の道を選ばざるを得なかったのか、肝心なことは飛び越えている。選挙民もそんなことには関心がない。テレビでなじみのある顔がどうかが大事なのだろう。
それほどジャーナリズムの権威がなくなっているのだとしたら、それはそれで悲しい現実だ。確かに、「安倍政権の言いなりになる都政を許してはならない」という長妻氏の発言には拍手喝さいが起きたが、「ジャーナリスト出身だから情報公開には熱心」と聞いても反応はなかった。気にする私が非常識なのかも知れない。
明治期に発行された主要新聞は、政治主張を中心とした「大新聞」だった。国会開設を前に、それぞれの政党が異なる政論を戦わせる場が新聞だった。新聞はオピニオンリーダーとしての主導権争いをする手段だった。だから新聞人と政治家の境は無きに等しかった。その後、商業ジャーナリズムが主流となり、ニュースや娯楽を主な内容とする「小新聞」の時代を迎える。不特定多数の大衆を読者に想定するため、「不偏不党」「政治的中立」を標榜するいわゆる客観報道がキャッチフレーズとなり、脱政治化が進む。
一方、テレビの登場でメディアの娯楽化、脱政治化がますます進む一方、メディアで知名度を上げ、選挙に出るタレント候補が続出する。メディアの脱政治化を反映し、タレント候補自身にも特段の政治思想があるわけではない。政党にとっては広告塔の役割を担うだけで十分なのだ。個別テーマで賛成・反対を表明するのが関の山である。普通の庶民がある日突然、「反対」と叫ぶだけで政治家になってしまう奇異な世の中になった。
政治家の悪口だけを言っても、世の中がよくなるとは思えない。ジャーナリストの素質を説いたところで、サラリーマン記者が多い世の中では暖簾に腕押しだろう。では傍観するしかないのか。少なくとも私は、「投票しないのも権利だ」という似非民主主義者にはなりたくない。
演説内容は目新しいものがなく、「非核」「原発反対」のスローガンが際立った。対立候補への攻撃もこのテーマに関するものだった。安倍批判をするたびに、明らかに動員されたと思われる人たちの拍手が起き、国政選挙かと見まがう印象を持ったが、都政については大した中身はなかった。だが大きなミスもなく、たびたび耳にしていた悪評に比べ、大過のない演説だったと感じた。気になったのは応援演説をした地元選挙区選出の民主党、長妻昭衆院議員のスピーチだった。舛添前知事の政治資金不正流用問題を指摘し、長妻氏はこのように話した。
「鳥越さんはジャーナリスト出身なので、情報公開には熱心に取り組んでくれるはずだ」
長妻氏も元日経ビジネス記者なので、同じように元ジャーナリストの身分を持つ。ジャーナリスト=透明というステレオタイプの図式を群衆に刷り込もうと思ったのだろうが、強烈な違和感を感じた。政治家は多くの情報に接するが、自分に都合の悪いものは隠すのが習性だ。権力を握った者の宿命だと言える。それを暴くのがジャーナリズムの重要な使命である。立場が変わればものの言い方も、考え方も変わる。ジャーナリストであろうとなんであろうと、政治家になれば政治家の利益と責任に応じた行動規範に従うのは、自明の理である。鳥越氏本人は行政の透明性について一言も触れていないので、特段、ジャーナリスト出身であることを売り物にしているようには思えなかった。
ずいぶん「ジャーナリスト」が安っぽく使われたなあ、という後味の悪い感じが残った。職業選択の自由は憲法で保障されており、違法でない限り、だれがどのような職業を選ぼうと自由だ。だが、権力と一線を画し、権力を批判する立場に立つべきジャーナリストが、一転して権力者を志す以上、しかるべき理由をきちんと説明する責任がある。この点、近年、とみに増えている‟元ジャーナリスト”の立候補者が、180度の転身について、有権者が納得する答えを述べた例はないように思う。突然、身を翻すようにしてもっともらしい政治公約を掲げ、その公約がジャーナリストではなぜ実行できず、なぜ政治家の道を選ばざるを得なかったのか、肝心なことは飛び越えている。選挙民もそんなことには関心がない。テレビでなじみのある顔がどうかが大事なのだろう。
それほどジャーナリズムの権威がなくなっているのだとしたら、それはそれで悲しい現実だ。確かに、「安倍政権の言いなりになる都政を許してはならない」という長妻氏の発言には拍手喝さいが起きたが、「ジャーナリスト出身だから情報公開には熱心」と聞いても反応はなかった。気にする私が非常識なのかも知れない。
明治期に発行された主要新聞は、政治主張を中心とした「大新聞」だった。国会開設を前に、それぞれの政党が異なる政論を戦わせる場が新聞だった。新聞はオピニオンリーダーとしての主導権争いをする手段だった。だから新聞人と政治家の境は無きに等しかった。その後、商業ジャーナリズムが主流となり、ニュースや娯楽を主な内容とする「小新聞」の時代を迎える。不特定多数の大衆を読者に想定するため、「不偏不党」「政治的中立」を標榜するいわゆる客観報道がキャッチフレーズとなり、脱政治化が進む。
一方、テレビの登場でメディアの娯楽化、脱政治化がますます進む一方、メディアで知名度を上げ、選挙に出るタレント候補が続出する。メディアの脱政治化を反映し、タレント候補自身にも特段の政治思想があるわけではない。政党にとっては広告塔の役割を担うだけで十分なのだ。個別テーマで賛成・反対を表明するのが関の山である。普通の庶民がある日突然、「反対」と叫ぶだけで政治家になってしまう奇異な世の中になった。
政治家の悪口だけを言っても、世の中がよくなるとは思えない。ジャーナリストの素質を説いたところで、サラリーマン記者が多い世の中では暖簾に腕押しだろう。では傍観するしかないのか。少なくとも私は、「投票しないのも権利だ」という似非民主主義者にはなりたくない。