今年の孫文生誕150周年を記念して拙稿『時空を超える愛』を書いた。報道ではとかく政治の側面から国際関係が語られるが、歴史上には国境を超えた人と人との関係も多く刻まれている。政治家の言説に惑わされることなく正しい世界観を持つために、人に焦点を当てた視点を探索しようと試みた。何回かに分けて紹介する。
孫文(1866-1925)は革命事業に身を投じた30年のうち三分の一を日本で過ごし、多くの日本人と交わった。政治的な利害を含んだ付き合いもあったが、彼は国境を超えた人類愛をだれよりも多く語った政治家である。革命家としての生きながら、激動の時代は思想家たらんことも要求した。貧農の家に生まれた孫文は若くしてハワイへ留学し、クリスチャンの洗礼を受けた。帰国して西洋医学を学び、中国が王朝体制から共和制に移行する陣痛の中で、東西の思想を教養としてばかりでなく、救国の糧として尋ねた。孫文の『三民主義』には次の言葉がある。
「仁愛も中国のよき道徳である。かつて、愛という言葉について、墨子ほど多くを語った者はいない。墨子が語った兼愛は、キリストの説いた博愛と同じである。かつて、政治の面で愛の道理を語ったものには、『民をわが子のように愛する』や『民に対しては仁(いつく)しみ、ものに対しては愛する』といった言葉があり、何事に対しても「愛」という言葉を含んだ。こうしたことから、古人が仁愛をどのように実行していたかがわかる」
孫文は、外国人が中国で学校や病院をつくり、中国人を教育し、中国人を救おうとしていることを指摘し、仁愛という道徳において、「今の中国ははるかに外国に及ばないようにみえる」と述べる。だが、孫文の主張は次の点にある。「仁愛はやはり中国の古い道徳であり、わが国が外国に学ぶべきは、かれらのそうした行動だけでよい。仁愛を取り戻し、さらにその輝きを増していくことがすなわち、中国が固有に持っている精神なのだ」
『墨子』は、世の中の乱れを愛の不在に求める。「もし天下が兼(ひろ)く相愛することになれば、国と国が攻め合わす、家と家が乱し合うことなく、盗賊はすべてなくなり、君臣父子はみな互いに孝行と慈愛の行いをすることができ、天下は治まる。天下がひろく相愛すれば治まり、たがいに憎みあうと乱れる」(兼愛編)。『墨子』が「他人を見ること、自分をみるようにする」と説くのは、一視同仁の思想である。中山陵にある孫文の墓碑銘には「凡我民衆、一視同仁(あらゆる人々を一視同仁にする)」の言葉がある。万人への深い愛に支えられた思想である。
一方、孫文より1年早く生まれた譚嗣同は(1865-1898)は、湖南省瀏陽の名家に生まれ、体制内革命に身を投じる。康有為や梁啓超らが光緒帝を担いだ戊戌変法に「六君子の一人」として加わるが、西太后一派に弾圧されると、潔く処刑の道を選んだ。33歳の短命だった。譚嗣同は北京の日本公館に逃げ込む梁啓超に対し「あなたは西郷(隆盛)となれ、私は月照となる」と遺言を残した。だれかが血を流さなければ国の変革はできないとの信念があったのだ。
彼は名著『仁学』の中で、「仁を身につけ、自在に無に通じた3人」として仏陀、孔子、キリストを挙げ、宗教を越えた愛によって差別のない社会の実現を訴えた。中国の知識人は儒教を柱としながらも、仏教の無常観や道教の無為自然をも取り入れ、人生に豊かな態度を保ってきた。近代以降はこれにキリスト教が加わった。孫文の語る「愛」はこうした歴史的な背景を持っている。
孫文が日本で最も多く残した書はおそらく「博愛」だろう。贈られたものがオークションにかけられ、数百万円の値段をつけているほどだ。だが「博愛主義」ではない。主義ではなく、実践である。真の心である。(続)
孫文(1866-1925)は革命事業に身を投じた30年のうち三分の一を日本で過ごし、多くの日本人と交わった。政治的な利害を含んだ付き合いもあったが、彼は国境を超えた人類愛をだれよりも多く語った政治家である。革命家としての生きながら、激動の時代は思想家たらんことも要求した。貧農の家に生まれた孫文は若くしてハワイへ留学し、クリスチャンの洗礼を受けた。帰国して西洋医学を学び、中国が王朝体制から共和制に移行する陣痛の中で、東西の思想を教養としてばかりでなく、救国の糧として尋ねた。孫文の『三民主義』には次の言葉がある。
「仁愛も中国のよき道徳である。かつて、愛という言葉について、墨子ほど多くを語った者はいない。墨子が語った兼愛は、キリストの説いた博愛と同じである。かつて、政治の面で愛の道理を語ったものには、『民をわが子のように愛する』や『民に対しては仁(いつく)しみ、ものに対しては愛する』といった言葉があり、何事に対しても「愛」という言葉を含んだ。こうしたことから、古人が仁愛をどのように実行していたかがわかる」
孫文は、外国人が中国で学校や病院をつくり、中国人を教育し、中国人を救おうとしていることを指摘し、仁愛という道徳において、「今の中国ははるかに外国に及ばないようにみえる」と述べる。だが、孫文の主張は次の点にある。「仁愛はやはり中国の古い道徳であり、わが国が外国に学ぶべきは、かれらのそうした行動だけでよい。仁愛を取り戻し、さらにその輝きを増していくことがすなわち、中国が固有に持っている精神なのだ」
『墨子』は、世の中の乱れを愛の不在に求める。「もし天下が兼(ひろ)く相愛することになれば、国と国が攻め合わす、家と家が乱し合うことなく、盗賊はすべてなくなり、君臣父子はみな互いに孝行と慈愛の行いをすることができ、天下は治まる。天下がひろく相愛すれば治まり、たがいに憎みあうと乱れる」(兼愛編)。『墨子』が「他人を見ること、自分をみるようにする」と説くのは、一視同仁の思想である。中山陵にある孫文の墓碑銘には「凡我民衆、一視同仁(あらゆる人々を一視同仁にする)」の言葉がある。万人への深い愛に支えられた思想である。
一方、孫文より1年早く生まれた譚嗣同は(1865-1898)は、湖南省瀏陽の名家に生まれ、体制内革命に身を投じる。康有為や梁啓超らが光緒帝を担いだ戊戌変法に「六君子の一人」として加わるが、西太后一派に弾圧されると、潔く処刑の道を選んだ。33歳の短命だった。譚嗣同は北京の日本公館に逃げ込む梁啓超に対し「あなたは西郷(隆盛)となれ、私は月照となる」と遺言を残した。だれかが血を流さなければ国の変革はできないとの信念があったのだ。
彼は名著『仁学』の中で、「仁を身につけ、自在に無に通じた3人」として仏陀、孔子、キリストを挙げ、宗教を越えた愛によって差別のない社会の実現を訴えた。中国の知識人は儒教を柱としながらも、仏教の無常観や道教の無為自然をも取り入れ、人生に豊かな態度を保ってきた。近代以降はこれにキリスト教が加わった。孫文の語る「愛」はこうした歴史的な背景を持っている。
孫文が日本で最も多く残した書はおそらく「博愛」だろう。贈られたものがオークションにかけられ、数百万円の値段をつけているほどだ。だが「博愛主義」ではない。主義ではなく、実践である。真の心である。(続)