天皇陛下が「お気持ち」ビデオを公表した翌日の9日、皇居・御所に皇太子殿下、秋篠宮殿下を招いた夕食会を開いた。民間人に嫁いだ長女の黒田清子さんも出席したということなので、天皇家の家族会議である。陛下が語った皇室の存続には、憲法の定める皇室制度という公的な側面と、長い歴史に支えられた天皇家という私的な側面の二つが含まれる。メディアを通じて論じられるのは前者だが、後者を語るのが家族会議の場である。
皇位の継承は、表向きの法的手続き以上に、祭祀をつかさどる家長としての責務がともなう。皇太子が天皇の姿を見ながら、実践を通じて伝えられていく、いわゆる「秘儀」も多いという。現状において不都合なのは、代替わりがあったとしても、その次を継承する皇太子、皇太孫がおらず、天皇家の家長としての務めをいかに伝えていくか、非常に不安定な状態にあることだ。皇位継承者は皇太子殿下、秋篠宮殿下、そして秋篠宮家の長男、悠仁親王の順だが、皇室典範の改正内容によっては皇太子家の長女、愛子内親王が秋篠宮家に先んじる可能性も出てくる。後継者が読めない状況では、祭祀主宰者の安定的な継承が難しい。
だが、この点については天皇家の私事に関することであり、かつ宗教的な色彩も強いので、表向きに発言することはできない。陛下の苦悩はここにもある。
以前、皇居・宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)で11月23日に行われる「新嘗祭(しんじょうさい、にいなめさい)」に、宮内記者会の一員として参列したことあがる。新嘗祭は天皇が祭主となり、五穀の新穀を天地の神々に勧め、自らも口にして収穫に感謝する儀式であるとされる。暗闇の中、たいまつに照らされた白装束の天皇が神前に進む。秋篠宮殿下をはじめとする皇族や三権の長らの参列者は、神殿から離れた前庭=庭上からそのシルエットを遠目で見るしかない。殿上あるのは天皇と、そのそばに控える皇太子のみ。皇太子はそばにいて、天皇の所作を学ぶ。マニュアルがあるわけではない。
神との距離がくっきりと演出される仕組みだ。天皇のみが祭祀の重みを知る立場にある。天皇家の祭祀は、伝統に支えられている意味で公的色彩を帯びていると言えるが、憲法の規定に照らせば、私的領域の行為に限定される。だが、「国民を思い、国民のために祈る」ことを務めと考える陛下の中においては、公私が峻別されず、一体化していると考えられる。天皇の心の中にのみある信仰は、権利や義務を論ずる法律論にはなじまない。
しばしば、内外において日本国内の皇室報道のタブーが指摘される。だが実際はそれほど単純ではない。たしかに戦前は神としてあがめられ、その記憶は戦後にも引き継がれた。だが象徴天皇を定めた新しい憲法のもとで、皇室は福祉重視の姿勢が国民の支持を得て、民主的な存在として定着した。もしろ天皇はその個人自体が制度であるため、生老病死がすべてニュースとされ、プライベート空間は極めて限定されている。憲法の象徴規定があいまいであるため、触れることのできない空間ができあがり、それが禁忌を招いている側面が強い。
陛下の「お気持ち」は、その内容ばかりでなく、その手法においてもタブーを破るほどの決意が感じられる。議論をする国民の側が、つかみどころのない空気に流され、架空の世論を忖度し、タブーを作ってしまってはならない。
(完)
皇位の継承は、表向きの法的手続き以上に、祭祀をつかさどる家長としての責務がともなう。皇太子が天皇の姿を見ながら、実践を通じて伝えられていく、いわゆる「秘儀」も多いという。現状において不都合なのは、代替わりがあったとしても、その次を継承する皇太子、皇太孫がおらず、天皇家の家長としての務めをいかに伝えていくか、非常に不安定な状態にあることだ。皇位継承者は皇太子殿下、秋篠宮殿下、そして秋篠宮家の長男、悠仁親王の順だが、皇室典範の改正内容によっては皇太子家の長女、愛子内親王が秋篠宮家に先んじる可能性も出てくる。後継者が読めない状況では、祭祀主宰者の安定的な継承が難しい。
だが、この点については天皇家の私事に関することであり、かつ宗教的な色彩も強いので、表向きに発言することはできない。陛下の苦悩はここにもある。
以前、皇居・宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)で11月23日に行われる「新嘗祭(しんじょうさい、にいなめさい)」に、宮内記者会の一員として参列したことあがる。新嘗祭は天皇が祭主となり、五穀の新穀を天地の神々に勧め、自らも口にして収穫に感謝する儀式であるとされる。暗闇の中、たいまつに照らされた白装束の天皇が神前に進む。秋篠宮殿下をはじめとする皇族や三権の長らの参列者は、神殿から離れた前庭=庭上からそのシルエットを遠目で見るしかない。殿上あるのは天皇と、そのそばに控える皇太子のみ。皇太子はそばにいて、天皇の所作を学ぶ。マニュアルがあるわけではない。
神との距離がくっきりと演出される仕組みだ。天皇のみが祭祀の重みを知る立場にある。天皇家の祭祀は、伝統に支えられている意味で公的色彩を帯びていると言えるが、憲法の規定に照らせば、私的領域の行為に限定される。だが、「国民を思い、国民のために祈る」ことを務めと考える陛下の中においては、公私が峻別されず、一体化していると考えられる。天皇の心の中にのみある信仰は、権利や義務を論ずる法律論にはなじまない。
しばしば、内外において日本国内の皇室報道のタブーが指摘される。だが実際はそれほど単純ではない。たしかに戦前は神としてあがめられ、その記憶は戦後にも引き継がれた。だが象徴天皇を定めた新しい憲法のもとで、皇室は福祉重視の姿勢が国民の支持を得て、民主的な存在として定着した。もしろ天皇はその個人自体が制度であるため、生老病死がすべてニュースとされ、プライベート空間は極めて限定されている。憲法の象徴規定があいまいであるため、触れることのできない空間ができあがり、それが禁忌を招いている側面が強い。
陛下の「お気持ち」は、その内容ばかりでなく、その手法においてもタブーを破るほどの決意が感じられる。議論をする国民の側が、つかみどころのない空気に流され、架空の世論を忖度し、タブーを作ってしまってはならない。
(完)