行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

日本人留学生の体験記「愛国と新聞」③

2017-09-30 10:22:35 | 日記
「愛国と新聞の隣り合わせで――復旦大学ジャーナリズム学院留学 松本祐輝」その3


(復旦大学ジャーナリズム学部)

「愛国」と「新聞」の奇妙な距離感
 新聞学院で最も印象的だったこと、それが愛国とジャーナリズムという、一見相反するイデオロギーが近くに、でも少し奇妙な距離感で共存していたことでした。
 日本を始めとした西洋諸国では権力の監視役と呼ばれ、権力と距離を取るべきとされていますが、中国の基本理論では「党の喉舌」とも呼ばれる、党を支え、人民へ宣伝するべき立場となっています。その一方で、改革開放以降、政府への批判もいとわないリベラル派のメディアも多く登場し、また最近では事件があるたびに答えを疑問視する投稿が雨後の筍のように、削除されては投稿されていき、多くの人の目に触れています。僕の出会った同級生の多くは、そんなリベラルメディアの在り方に憧れて入学し、それらに関する授業を受ける一方で、それを規制する側の論理からのメディア管理の授業を受けたり、レポートやインターン先での記事執筆でも「書きたいこと」と「書けること」のギャップに葛藤しています。
 このようなギャップの一方で、愛国と新聞が混ざり合う、印象的な場面がいくつもありました。
 一つは、先ほどから出てくる武警班の存在です。普通の学生と席を並べて学ぶ彼らは、将来武装警察に入ることを条件に学費免除で入って来ている学生であり、他の学生と同じ授業を取りながらも別の寮に暮らし、週末は軍隊のような訓練を受けています。それでも、教室にいる限り普通の学生と彼らの違いは全く分かりません。先ほど紹介した、僕を見るなり東野圭吾について語りだし、いつも世話を焼いてくれ男子生徒が武警班だと僕が知ったのも入学後しばらくたってからでした。
 新聞学院にはまた、共産党員を目指す学生たちがいます。共産党員といっても、必ずしも政治に携わるわけではなく、むしろ各職場での「模範職員」としての役割が強く、新聞学院で党員を目指す人たちも必ずしも政治の道に進みたいわけではありません。他に、大学と党をつなぐ共青団の学生組織もありますが、そこも日本でいう生徒会を代替しているところがあり、生徒会的な仕事を体験してみたくて入る人が大多数で、彼らの多くが学業が忙しくなるとやめていきます。 
 このような、普通の学生と、彼らと違う立場にいる学生たちも生活において分け隔ては全くなく、仲間として共に4年間を過ごしていきます。ジャーナリズムを目指す学生も、武警になる学生も、党員を目指す学生も、それぞれ違う不安や苦労、夢があります。そんな政治的立場が違う人間どうしが、ともに生活を送り、わかり合える環境があるということは、お互いを知らないまま批判し合うことよりもはるかにいいことですし、このような環境で国や愛国について考えなおすことは、単なるスローガンの刷り込みよりも、より意義があることなのではないかと思いました。

将来の悩み、それでも
 ジャーナリズムと愛国の間で学び続ける新聞学院の学生たち、そんな彼らですが、将来の夢を聞いたとき、「記者になりたい」と即答する学生はほとんどいません。以前、講演会で新聞学院のOBが壇上から「記者になりたい人はどれくらいいますか?」と挙手を促したところ、誰も手を挙げず、OBが戸惑ってしまう場面もありました。
 「入学するときはみんな記者になりたいけど、現実を知ってしまうと、もうなりたいとは思えない」。こう漏らす友人たちも少なくありません。規制の厳しさ、周囲からの批判の目に加え、中国のジャーナリストの給料は決して高くありません。更に、毎日のように、インターネットの発達で追い込まれていく新聞業界のニュースを聞いていれば、焦燥感が出てくることも確かだと思います。
 それでも、教授によれば、今でも3割の学生は卒業後メディア業界に進むと言います。同級生の中にも、本気でジャーナリストを目指して積極的に発信したり、メディアのインターンを繰り返す人、テレビの表現の限界を感じ、映画大学に進学するべく勉強を続ける人もいました。
 業界の危機だと言われながらも高い給料を維持している日本のメディアに比べ、中国でジャーナリズムの道に進もうと考えることは想像以上に大変なことだと思います。それでも、進もうとしていく友人たちを尊敬しています。

まとめ、日本は何を見るべきなのか

 ここまで、実感を書いてきた僕ですが、自分自身、帰国した今も、メディア業界に進むかどうかはまだまだ悩んでいます。異国で同じように悩む同年代の友人ができたことは、大きな励みになりましたし、大きな刺激を得ることもできました。
 また、中国の大学に過ごす中で、日本が学ぶべき姿も多く見えてきました。大学ひとつ取ってみても、学内の格安の寮や食堂を全員が利用できる中国の大学の方が、バイトをしなければ大学生活も成り立たない日本よりも学習環境も優れていますし、少し過ぎた学歴重視も、国も企業も大学の学問を軽視する傾向が強い日本を見ると違和感を感じるところです。また、学生や、旅で出会った様々な人たちが、それぞれに問題や不安を抱えてながらも、国が成長していく中で前向きに生きている様子は、社会全体が後ろ向きになりつつある日本も、こうなってほしいと強く感じました。
 先ほど、「日本は中国から学ぼうとはしていない」という風に書きましたが、これからは、自分自身が、「中国から何を学べるか」を意識しつつ、得意な分野で発信し続けたいと考えています。

(完)

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日中両国に架けられた橋に芽生えた若い力が、しっかりと根を張って力強く育ち、いずれ美しい花を咲かせますように。そして、大人たちは彼らにどんな力を注ぐことができるのか。ともに手を携え、一歩一歩進むしかない。

日本人留学生の体験記「愛国と新聞」②

2017-09-30 10:16:28 | 日記
「愛国と新聞の隣り合わせで――復旦大学ジャーナリズム学院留学 松本祐輝」その2


(復旦大学バスケットサークルの案内ポスター)

意外と変わらない日中の学生
 留学前の復旦大学の学生の印象は、皆が海外進学を目指し「がり勉」していたり、国内の起業ブームに乗ってビジネスを考えているような、ガツガツしたエリート学生像でした。その予想はいい意味で裏切られました。
 皆勉強もしますが、それ以上にゲームや漫画が大好きで、授業中にノートを取っているように見せかけながらゲームやチャットをしている人も結構いたり、授業をさぼってしまったりと、ある意味「学生的」な姿もありました。また、サークル活動も盛んで、年2回の新歓期には、「百団大戦」というイベントが開かれ、バスケやダンスなど定番のサークルから、マンガやコスプレのサークル、外交の研究会やボランティア団体まで、多くのサークルが熱心に新しい学生を集めていました。また、学生起業の数が盛んなのは確かですが、新聞学院では特に起業を考えている同期はいませんでした(個人メディアで発信を行い、広く人気を集めている人たちは少なからずいました)。皆の性格も、好きなことも、性格も、日本の学生とほとんど変わらないように感じました。
 もっとも、生活は日本以上に「テスト」を中心に回っていたのも事実です。普段は一緒に食事に行っていた友達も、期末試験1か月前からは全く食事に誘ってくれなくなりましたし、ほとんどの学生が大学院への進学を考えている以上、皆がかなり成績を気にしています。また、休みの期間も授業の一環であるインターンに日本以上に時間を費やしている学生が多く、尊敬する一方、自由さという意味では疑問を感じる部分もありました。

中国の学生と日本
 そんな彼らにとって、日本は身近な存在です。多くの同級生たちが日本のアニメを見て育ち、日本の小説を読み、今でもインターネットを通じて日本のドラマに通じています。留学中も大規模なマンガフェアやコスプレ大会が学内で2回あり、同級生たちも参加していました。冒頭で述べた武警班の生徒が話しかけたとたん、自分の好きな東野圭吾作品について熱く語ってくれた時はイデオロギーを超えたサブカルチャーの力を強く感じました。
 また新聞学院の授業を見てみると、日本の文庫文化やテレビと新聞が一体化した経営の姿など、サブカルに留まらず日本の出版文化についても深く理解している生徒が多くいました。「先行する日本から学ぶ」という意思を強く感じました。
一方、いわゆる歴史問題や日中関係については自分から話さない限り聞かれることは少なかったです。ただ、それは彼らが気を使っているわけではなく、そもそも日中関係そのものに学生たちが無関心であったからでした。この留学中、友達の縁をたどって、北京大学の日本外交についての授業を受けに行ったことがあるのですが、その授業を取っている学生のうち、ほとんどが日本人で中国人はたったの2人だけという有様でした。国としての中国の目線は既にアメリカや「一帯一路」に向かっており、日本は目すら向けてもらえていないという、ある意味冷酷な事実がそこにはありました。
これらを象徴するのが日中の本屋の書籍の並びの違いです。北京や上海の本屋の、政治関係の本以上に、日本の建築や文学、経済について深く分析した本が並ぶ様子は、日本の嫌韓、嫌中本が多く並ぶ姿とは大きく異なります。もちろん、中国のインターネット上には、ヘイトスピーチがあふれていますし、地方部にバックパックに行くと現地の人に質問攻めにされることもありました。ですが、この相手から学ぶ姿勢こそ、今の中国に溢れていながら、日本には全く無い姿勢であり、個人的には単純な日中関係の悪化よりもより危機感を持つべきことだと思っています。

(続)

日本人留学生の体験記「愛国と新聞」①

2017-09-30 10:08:39 | 日記
先日、上海の復旦大学新聞学院(ジャーナリズム学部)で1年間留学した東京外国語大学中国語学科3年の松本祐輝くんからメールが届いた。留学の成果を書き綴った文章と写真が添えられていた。3月末には無錫の桜祭りにも参加してくれた。彼とは、私が主催にかかわった講演会で知り合った。ちょうど1年前は井の頭公園で、無錫での桜植樹を続けている新發田夫妻と一緒に花見をした縁があった。


(2017年3月、無錫・太湖畔で開かれた桜植樹30周年記念式典で)

彼の通った復旦大学は、中国でも有数のエリート校なので、すべての大学生を代表するわけではない。むしろ特殊な環境かも知れない。1年間の時間的な制約や、大学内の空間的な制約もあるだろうが、素直な学生の目に映った隣国の情景に偽りはない。私も1980年代、北京に留学した際、日本の新聞の読者欄に投稿し、何度か掲載もされた。そんな昔の自分を思い出させてくれた。松本くん本人の了解を得て、3回に分け彼の留学感想記全文を掲載する。

湖面に投げた石の波紋が広がるように、彼の貴重な経験ができるだけ多くの日本の若者に共有されることを願って。



「愛国と新聞の隣り合わせで――復旦大学ジャーナリズム学院留学 松本祐輝」

 初めまして。東京外国語大学昨年の9月から今年の8月まで、中国のジャーナリズム学院である復旦大学新聞学院に留学していました。今回は、自分が新聞学院でしてきた経験から、中国の、特にジャーナリズムを学ぶ学生を取り巻く環境や彼らの考え方、そしてそこから日本が学ぶべきことについても共有したいと思います。

復旦大学とは
 上海にある復旦大学は、1905年に設立された総合大学で、中国では北京大学、清華大学などと並ぶ名門校の一つです。特に有名な学部がジャーナリスト養成学部である新聞学院で、これまで、大メディアの編集長から党幹部まで、中国メディアを支える学生を輩出してきました。学部には、比較的リベラルなメディアを研究する先生や学生がいる一方で、党に近い仕事をしてきた先生や、学生党員や「武警班」とわれる、将来武装警察に入ることを前提としたコースに入学してきた学生もいる、まさに愛国と新聞が隣り合わせに共存する、日本人からすると不思議な学部でもあります。
 僕がこの大学を選んだ理由は二つあります。一つは、将来中国メディアを支えるだろう立場の人たちが日本をどう見ているのかを知るためです。大学に入ってから、中国人留学生や日本語学部の学生と交流を重ねる中で、日中関係や歴史問題についても多く議論してきましたが、比較的日本に近い学生だけでなく、その世論を作っている中国のメディアとその中にいる人たちについてもっとよく知りたいと思いました。もう一つは、インターネットと社会の関わりが日本以上に強まる中国で、メディアがどう変化しているかを見ようと考えていたからです。僕自身がメディアと、中国のメディア事情に興味があったのもありました。

「デジタル化」していく授業と関係性
 新聞学院で授業に出て最初に驚いたのは、授業が「デジタル化」されていることでした。授業の板書は全てパワーポイント、学生もパソコンでノートを取るのは当たり前で、資料や宿題も全て、授業毎に先生が作ったチャットアプリのグループの中で共有されていました。新聞学院では各授業で、グループによる制作や発表の課題があるのですが、そのグループも、教室内で決められるのではなく、チャットグループの中でお互いに連絡を取りながら決めるので、留学生も積極的にアプリ内の会話に加わる必要があり、最初は戸惑いました。
 もちろん、今では日本の大学でもパワーポイントを使って授業をすることは普通にありますし、パソコンで板書を取ることも大学によってはあると思います。ただ一方で、高齢の先生までが、アシスタントの学生と協力しながらこうしたツールを使いこなしている様子は、日本とは大きく違うように感じました。

 僕が特に面白いと感じたことが、先生と生徒の距離が「グループチャット」というネット上の空間を通じてより近いものとなっていることでした。授業外でも、先生が興味深いニュースを投稿し、学生と議論をしたり、お互いがイベントに誘いあうようなことが起きます。先生に質問をしたいときにも、気軽に会話ができるメリットもあります。また、チャット上でつながると、先生や学生が日々投稿している書き込みを見たり、そこにコメントをすることもできるので、先生と生徒という立場を越えて、人となりを理解することにも繋がります。
 印象的だったのは、中国の祝日である「教師の日」や、先生の助手の結婚といった慶事の時に、様々なチャットグループで先生に対するお祝いのメッセージが送られていたことでした。インターネットは現実での人の結びつきを希薄にさせるという意見もあります。確かにチャット上でのあいさつは現実でのあいさつよりも希薄なのかもしえません。しかし、チャットが先生と学生の垣根を低くしたことが結果的にコミュニケーションの総量を増やすことに繋がったことは確かだと感じました。

(続)

物事の尊さは、そこに隠れた人の力があるから

2017-09-30 07:21:28 | 日記
日中国交正常化45年に合わせ、昨日の朝日新聞夕刊に以下の記事が掲載された。この記事の裏方として取材のアレンジをした同社の逸見那由子記者から知らされ、朝日新聞のサイトで記事を読んだ。私も長らくかかわってきた無錫の桜、そして、それを支えてきた長谷川清巳さん、娘の新発田喜代子さん、夫の豊さんが紹介されているのを見て、うれしく思った。

関係者の高齢化が進んでおり、いかに継承するかが深刻な問題となっている。上海の日本人留学生たちが参加し、徐々に活動への理解が広がっていることは喜ばしい。今回の記事がさらに大きな力となることを願いたい。

何事においてもそうだが、物事の尊さは、そこに隠れた人の力があるからである。30年以上も続けられてきた桜植樹も、そして、この記事もまたしかり。逸見記者の思いが形になった喜びを共有したい。

(9月29日)http://digital.asahi.com/articles/ASK9V761NK9VUHBI03L.html

(以下、ネットから引用)
 中国江蘇省無錫市の太湖湖畔は中国有数の桜の名所として知られる。約30年前、苗木を植え始めたのは元日本兵だった。29日は日中国交正常化から45年の節目の日。友好の思いは、両国関係の冬の時代を乗り越えて引き継がれている。

友好の桜、中国はや満開 江蘇省で国際花見ウィーク

 元日本兵は、三重県出身の長谷川清巳さん(1922~2009)。娘の新発田喜代子さん(67)によると、長谷川さんは42年、中国安徽省に出征し、戦地を転々とした。生きるため、中国人の空き家から食べ物を盗んだこともあったという。

 終戦後、衣料品店を営んだ長谷川さんは中国と関わりを持たなかったが、78年、出張する機会が訪れた。当時の中国は文化大革命が終わった直後で混乱していた。それでも、現地の人は長谷川さんを温かく歓迎。「過去のことは忘れましょう」と一緒に酒を酌み交わした。

 「こんな国の人たちと、どうして戦争をしなければいけなかったのか」との思いが募ったという。

 「日中の友好と平和の印として桜を植えたい」。長谷川さんは「日中共同建設桜友誼林保存協会」を立ち上げ、88年に太湖湖畔にある公園に苗木を植えた。以来、毎年春になると50人ほどで訪れ、植樹を続け、今は3万本を超えた。現地友好団体の呼びかけで中国の市民も活動に加わってきた。

 長谷川さんが亡くなった後、尖閣諸島を巡る対立などで日中関係は極度に悪化した。協会の活動を引き継いだ喜代子さんと夫の豊さん(65)の元には、「なぜ中国と仲良くするんだ」という批判が寄せられることもあるという。だが豊さんは「関係が難しい時だからこそ、草の根で交流を続ける意義がある。受難の時代を乗り越え、両国間の友情がさらに深まる日が来ることを願いたい」と話す。

 喜代子さんは「父には贖罪(しょくざい)の念があったのだと思う。桜が今も毎年咲くことを、きっと喜んでいる」と話す。協会は来春も無錫市を訪れる予定だ。(軽部理人)

45年前の今日、日中は握手をした。

2017-09-29 19:42:43 | 日記
1972年の9月29日、北京の人民大会堂で周恩来と田中角栄の日中両首相が国交正常化の「日中共同宣声明」にサインをした。その後、二人が交わした握手は、両国の歴史上、最も熱のこもった握手に違いない。今週の授業「日中文化コミュニケーション」で、「忘れがたい握手」と前置きし両国首脳、特に周恩来の力のこもった握手を紹介した。



学生たちの多くは、1972年に日中が国交正常化したことを授業で習って知っているが、力強い握手にまでは思いが及んでいない。そこで、当時のフィルムを上映し、往時を振り返った。

周恩来の過剰なジェスチュアに笑いがもれたが、45年が経過し、そんな余裕が出てきたいうことなのか。日本の学生は1972年と聞いてもピンと来ないだろう。周恩来と田中角栄の心中を察することのできる者も、日中双方において、もう少ないのかも知れない。

日本国際貿易促進協会発行の機関紙『国際貿易』に求められて、45周年記念号にコラムを寄稿した。何人から感想をいただき、思わぬ近況報告ができたことをうれしく思った。



今日の記念日に、原文を添付する。

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 縁あって昨秋から広東省の汕頭大学ジャーナリズム・コミュニケーション学部でメディア論を講じている。香港の実業家、李嘉誠(リ・カシン)氏の個人基金によって運営されているユニークな学校だ。同大の学生総数は1万人余り。外国人教師も多く、国際色豊かだが、日本人は私1人である。
この1年間、何よりも驚かされたのは、学生たちの日本に対する関心の広さ、深さだ。爆買いツアーを奇異な目で見ているだけでは、中国社会に芽生えている新たな対日観はわからない。
 私の赴任直後、学部生を引率し、九州で環境保護関連の取材をするプロジェクトが決まり、人選からビザ取得、取材日程の立案、そしてアテンドまですべてを任された。参加枠5人に10倍以上の応募があった。同学部は毎年、複数回、海外への取材ツアーを行っているが、この応募倍率は米大統領選取材ツアーに匹敵する人気だった。

面接で学生たちの熱意に打たれ、なんとか1人増員できないかと学部の責任者に相談すると、あっさり認められた。女子ばかり6人。重い器材を背負って9日間、農村から環境保護関連企業、政府機関、大学までを休みなく取材し、帰国後に書いた記事は、新華社通信の携帯向けニュース・アカウントを通じて発信された。
なんでもトライすれば、必ず答えが返ってくる。「ダメ出し」のない世界だと実感した。あれこれ憂慮して足踏みするよりも、とりあえず走り出そうじゃないか。そんな雰囲気がある。

ふだんも私の担当授業外の学生が訪ねてきて、いろんな相談を持ち掛けられる。靖国神社参拝問題について調べようと思ったが、中国メディアではなかなか日本人の本音がわからない。そこで「直接、日本人にアンケートしてみたい」という。あるいは、沖縄の米軍基地について、「沖縄の人たちはどう思っているのか」と質問をぶつけてくる。
学生たちにとって、私は身近にいる唯一の日本人なのだから、労をいとわず誠心誠意答えてあげたいと思う。彼ら、彼女らは私の一挙手一投足から日本人のにおいをかぎ取ろうとする。私は逆に、一人一人を通じて中国社会の将来をのぞこうとする。そんな緊張感が心地よい。

学生たちの姿に刺激され、専門のメディア論だけでなく、10年におよぶ中国特派員の経験を活かし、日中文化コミュニケーションに関する授業を開こうと思った。大学に計画書を提出すると、すぐに「面白い」と反応があり、全校生徒を対象にした科目としてスタートした。
30人の定員枠はすぐに埋まり、毎回、傍聴も出た。学生に好きなテーマで研究発表をしてもいいと言ったら、日本の弁当文化から俳句、書道、日本刀、敬語、妖怪、ユーチューバーまで、様々な話題が飛び出した。
6月末、卒業式の前日、体育館での記念コンサートに誘われていったら、ジブリ映画の主題歌オンパレードだった。会場に魔女の宅急便やトトロなどが映し出され、どこにいるのかと錯覚しそうになった。

来年も日本取材ツアーを計画している。気の早い学生は、「今度はどこへ行くんですか?」と聞いてくる。日本語を習っても英語のようには就職に直結しない。功利的ではない。ただ日本の文化に引かれ、もっと知りたいと思っているのだ。
日清戦争後の日本留学ブーム、改革開放後の日本留学熱、どれとも似ていない。中国がかつてないほど日本に対して純粋な関心を抱いている。授業では、中国の若者たちに「義理、世間体とは」「わび、さびの心」といったことまで説明を求められる。単なるアニメブームだと思ったら大間違いだ。

一方、対岸から日本をみると、認識ギャップの深さにうんざりとさせられる。いまだに中国は「危険」「汚い」「怖い」の3Kでしか見ていない日本人が多い。好き嫌いどころか、見たくはないと目を背け、関心すら失っている。ふたたび鎖国時代に逆戻りしたような感じさえ受ける。中国の若者たちの熱意を日本に送り届けることが、少しでも刺激になってくれればいいのだが。

(完)