行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

新学期には「日中文化コミュニケーション」の新コースが開設される

2016-11-30 14:48:41 | 日記
今晩、汕頭大学で日本の尺八演奏家、倉橋容堂氏の演奏会があるというので、教師や学生からの誘いが相次ぎ届いている。残念ながら上海への出張があり出席できないが、日本文化に対する大きな反響に驚くばかりだ。



来学期から「日中文化コミュニケーション」の講義を持つことになった。漢字の往来を含め、相互の文化交流を鏡のように振り返ることで、自らを問い直すきっかけとし、異文化コミュニケーションへの基礎理解を築くのが狙いだ。私が赴任前から準備していたもので、学院の指導者からも強い支持を得て、学内全校生徒を対象としたクラスにすることが決まった。これは当大学の学生だけではなく、中国全体の日本に対する強い関心の表れだと思っている。日本への環境保護取材ツアーには米大統領選取材に匹敵する応募があった。

先日、同僚教師が担当する国際時事問題の授業で日中関係をテーマとするというので、ゲストとして呼ばれた。戦争謝罪、慰安婦、靖国神社、戦後補償まで、日本の中国に対する対応を一つ一つ丁寧にたどる内容だった。村山談話のほか、小泉首相(当時)が盧溝橋の抗日戦争記念館を視察した際に残した「謝罪メッセージ」、元慰安婦に対する「女性のためのアジア平和国民基金」の経済補償、ODAによるインフラ整備など、中国メディアには埋もれてしまっている事実が多数紹介された。

学生たちの反応は様々だった。初めて知って驚いたという典型的なものから、すでにネットで知っていたという学生、日本に行ったことがあるのでだいたいのことはわかっていたという学生もいた。いずれにしても抗日や反日一辺倒ではない議論が、大学でごく普通に行われている事実は、多くの日本人が共有しなければならないと思う。

教師が「いつまでも被害を受けた弱者の立場ではなく、強くなった国の大局的な視点が必要だ」と締めくくったのが印象的だった。日本への関心は、大国化の余裕と自信がもたらした側面がある。そして、経済だけではなく文化においても、中国にはない日本のよさに目を向ける心のゆとりが生まれている。日本を通じ中国を再発見したというのが、この教師が私に漏らした言葉だ。

世界的な日本のアニメブームも、中国においては異なるフィルターを通してみる必要がある。アニメだけにはとどまらない、日本へのもっと深い理解を欲している。教科書やメディアが伝える日本だけでは飽き足らないのだ。今日も授業で、ある男子学生が行った発表のテーマは「kawaii文化と男女言語の差異」だった。

だが一方、日本はどうだろうか。ある日本の大学では中国ツアーを企画しながら、学生が予定数に達せず、やむなく中止したとの話を聞いた。これは特殊な事例ではない。むしろ同様のケースが増えているのだ。米大統領選にも日本の環境問題にも、等しく強い関心を示してくる中国の学生たちと比べると、日本の現状が危ぶまれる。新たな時代に応じた適切な世界観を抱くことができるのだろうか。入口のところで足踏みをしていては、取り残されるのが必至だ。

私のもとにはほぼ毎日のように、自分の受け持ちではない学生を含め、「日本の米軍基地について教えてほしい」「米大統領選は日本人をどう見たのか」「日本の書物に関する読書会を開くので講演をしてほしい」「日本の新聞の歴史を調べたい」と、リクエストがやってくる。私は孤軍ながら可能な範囲で答えを出すよう努めているが、限界もある。猫の手も借りたいほどだ。新学期の新コースでは、より多くの日本人に参画を求めるようカリキュラムを作った。日本からみればきっと、別世界のように感じるはずだ。



「辛苦了!(お疲れさまでした)」のひと声が持つ重み

2016-11-29 16:36:12 | 日記
先週末、日本への取材ツアー参加希望者を対象にした面接をしたことはすでに書いた。その後の反響が相次ぎ私の耳に届いている。SNSによる情報発信の時代、学生たちはすぐ意見や感想を書き送るのが習慣となっている。いわばどこにいても学生たちの澄んだ、正直な目にさらされ、値踏みされているわけである。教師が学生を面接をしていると思ったら大間違いだ。教師は面接を通じ学生に見られてもいる。

反響の中で印象的だったのが、ある学生が「ウィーチャットのサークルで、先生のことが話題になっていますよ」と転送してくれた一文だ。



日本語に訳すると次の通りになる。

「学院プログラムの面接があった日は雨が降ってすごく寒かったでしょ。面接が終わった後、加藤先生がウィーチャットで、『今日はお疲れさまでした!』と送ってくれた。私はちょっと反省した。先生は2時間以上も面接をしてくれたのに、私は『お疲れさまでした』のひとことを言えなかった。それなのに先生は私に『お疲れさま』と言ってくれた。ただすごく温かい言葉だと感じた。こうした先生たち触れ合っていて、強く感じることがある。ただ当たり前のようにこの生活に甘んじていてはいけないのだ」

私は、よく知っている担当科目の学生には全員、同じようにねぎらいの言葉を送った。バタバタとした流れ作業のような面接で、学生たちが落胆しているような気がしたからだ。自分でも十分に学生の能力ややる気を把握できたとは言えなかった。ほんのひとことが時として大きな意味を持つことを教えてくれた。特に異文化が触れ合う場では、しばしばこのひとことが決定的な印象を残すことがある。

もう一つの反響は、ある学生が自分のウィーチャットに、仲間だけで共有する日記として書き込んだ内容だ。そこにはこう書かれていた。

「面接中、ある学生が、日本の環境問題について取材したい点について、日本の環境保護理念を学んで中国の環境意識向上に生かしたい、と答えた。すると日本の加藤先生がこう言った。『日本の環境保護理念の中には、もともと中国から伝わってきている思想もある。みんなはを知ってますか?』と。短いひとことだったけれど、非常に印象に残った。西側の思想が圧倒的な地位を占めている時代に、私たちは、表面的な制度から深層の文化に至るまで、多くのものを西洋に求めているけれど、、、」

私は、「天人合一」「無為自然」「知足安分」など中国の古代思想は、人間が自然と一体となり、共生する知恵を教えていると伝えたかった。その第一歩として、学生たちの反応をみたのだ。日本では明治以降、「nature」の訳語として中国語の「自然」があてられたが、前者が人と対立する概念であったのに対し、後者は不可分であった。翻訳上の齟齬が自然と人間の関係にまで混乱を招いたのではないか。そんなことを中国の学生たちと探求したいという思いがあった。

池に石を投げ、水面に輪が広がっていくさまを思い浮かべる。まだ芽をのぞかせたばかりの初々しい心は、わずかな空気の揺れにも奏でを響かせる。教師のひとことは岩のような重みと責任を持っている。

米大統領選に匹敵する日本取材ツアーの人気

2016-11-27 09:31:09 | 日記
汕頭大学新聞学院は毎年、数回、学生の取材団チームを選抜し、海外での短期テーマ研究を実施している。来年の計画の一つとして、3月、日本の九州へ環境保護をテーマに取材団を派遣する。通訳が不要で経費が削減できるということで、着任したばかりの私が引率をすることになった。1週間前に募集の告知をし、昨日、応募学生の面接が行われた。50人近くが参加し、今年の米大統領選挙取材ツアー並みの人気だったという。

教師が3人並び、5,6人の学生に対し集団面接をするのだが、当然、日本人である私が質問の大半をすることになる。あらかじめ日本の環境問題についてネットで検索し、入念に用意してくる学生から、漠然とした日本への関心から抜け切れていない学生までさまざまだ。福島原発、リサイクル社会、ごみ分類、環境教育、公害訴訟まで関心の範囲も多様だ。他学生の意見に触発され、追加の発言を求めてくる者もいる。すると討論会のような流れになり、面接であることを忘れてしまいそうになる。

日本の学生と大きく異なるのは、面接の際、自分のセールスポイントを堂々と語ることだ。冒頭、院長が「あなたの『長所』(中国語では「特徴」)は?」と尋ねる。するとこんな答えが返ってくる。

「私は映像制作ではテレビ局での実習経験もあり、学校のコンテストでも入賞した。私がチームに加われば、発信力の面で大きい力になるはずだ」
「私は学内組織の責任者を務めた豊富な経験があるので、リーダーとしての能力がある。日本に行って取材団の班長になることもできる」
「私は新聞社での研修中、記事作成能力を認められ、単独での取材まで許可されたので、取材の能力は実証されている。カメラ撮影も全国の大学メディアコンテストで入賞歴があるので自信がある」

こちらは相手の履歴書を見比べながら、発言に耳を傾ける。履歴書の枠に収まりきれないような実習歴、受賞歴、課外活動歴を見て、彼ら、彼女たちがなぜ、授業をそっちのけで、ふだんからあれこれの活動に忙しくしているのかに合点がいった。おそらく就職試験の面接も同様なのだろう。この空欄をぎっしり埋めなければ、厳しい競争に勝てないのだ。では授業の意味はどうなるのか・・・深刻にならざるを得なかった。

だが、枠の中に自分が選択した科目しか書いていないような学生がいる。そういう学生は面接でも発言が控えめで、必要最小限のことしか言わない。だが、心を打つ言葉が交じっている。

「日本の環境問題についてはよく勉強していないのでわからないけれど、この機会に学びたい」
「取材や撮影の技術は特に秀でていないが、学習に対する熱意は強い」
「日本の経験を通じ、中国の環境問題解決に役立てたいと思った」

どういいうわけか、私の授業をとっている学生に後者のタイプが目立った。就職の即効力を考えれば、日本人教師の授業は実用性が低い。だから、私の授業には本当に外国人教師から何かを学びたいと思う学生が集まる。そういうことなのかも知れない。

面接後、教師による選考の話し合いが行われた。当然、「目立つ」学生がリストアップされる。私はどうしても「目立たない」学生を入れたかった。かなり強引にアピールしたが、印象が薄いためなかなか納得を得られない。私が「自分は自費でもいいから、定員をもう1人増やしてほしい」と主張したため、当初の定員5人を6人にし、私が推薦する学生が加えることができた。

計画は始まったばかりだ。学生たちに、功利だけではない、人生にとって価値あるものを学ぶ機会を与えたいと思う。

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「九州での環境保護問題」というテーマのほか、1週間の具体的な取材スケジュールはまだ決まっていないので、これから手探りの準備が始まります。人員を増やしたため経費も限られ、心配の種は尽きません。是非、各方面の方々からアドバイスを仰ぎたいと思っています。よろしく願い申し上げます。
メールはkato.takanori@hotmail.com。

季節感の薄い南方の地にようやく寒気がやってきた

2016-11-26 13:36:28 | 日記
広東の地はかつて、文化の中心だった中原を戦乱や災害で追われた人々が流れ着いた場所であり、官僚にとっては政治闘争による左遷の地だった。蘇東坡は汕頭の南にある恵州に流され、人生の達観をうたった。中央からの距離がまたこの地の独立心を育てることになった。客家文化、華僑の伝統にはこうした背景がある。

多湿な亜熱帯・熱帯の気候により、四季の変化が乏しい。だから詩人は生まれにくい環境だ。繊細な自然を有し、多数の名歌を生んだ江南地方とは趣が異なる。12月を前にようやく気温が10度台に下がり、秋がやってきたかと思ったら、地元の人々はこれが冬だという。紅葉もなく、秋はサッと素通りしてしまった。湿気があるので寒さが肌の中に染み入るように感じられる。





冬だが、花が咲き、地面に花が散っている。重たくなった空気から季節を感じ取るしかない。

学生たちと季節感について雑談をしていたら、冬の花として梅の話をする女子学生がいた。学校の授業でみなが覚える詩に南宋・陸游の「詠春」があるという。彼女はすらすらとそらんじてみせた。

卜算子·詠梅

駅外断橋辺、寂寞開無主。

已是黄昏独自愁、更著風和雨。

無意苦争春、一任群芳妬。

零落成泥碾作塵、只有香如故。

川にかけられた橋も朽ちているようなひなびた場所で、さびしく梅の花が咲いている。「無主」とは、気に掛ける人も、愛でる人もいないことを言っている。政争に敗れ、野に下った詩人の境遇でもある。人生も下り坂にさしかかる黄昏時、憂いも深まるが、さらに風雨が加わって心の惑いを深める。梅の花は四散して地面を覆っている。

落梅は古来、春の訪れでもある。「寂寞」という孤独は、強さの裏返しだ。だれにも見出されなくとも、自らの意志で花をつける気高さに、自らの愁いを重ねる。だが愁いはそのまま受け止めるしかない。慰めもごまかしもきかない。詩人は「醉自醉倒愁自愁(酔ってつぶれても、愁いは消えずにやってくる)」(『春愁』)ともうたっている。その覚悟こそが孤独であり、強さである。

花々が春を先取りしようと争うように、人もまた名利を求めて競い合う。だが、自分にはそんなつもりはない。すでに追われた身なのだから、そんな俗界の些事にかかわる必要もないし、そんな世界とは無縁なのだ。浮沈に一喜一憂する人々はなすがままにさせておけばよい。花が落ちて泥にまみれ、土となっても、その香りは変わらずにとどまるのだ。精神の高貴さが失われることはない。

梅の強い香が、強さと同時に痛ましさを伴って広がるのは、もののあわれに親しんだ日本人の感傷なのか。梅を愛する民族と、桜を愛でる民族との違いかも知れない。自然に向き合う態度は環境のほか文化によっても大きく左右されるのだ。









雨上がりに見つけた大きな蝸牛(ウォー・ニュウ)はカタツムリではない。

2016-11-25 18:52:12 | 日記
自分が見聞きした事象からニュースバリューを引き出し、そのニュースを通じて自分の人生観や社会認識、世界観を掘り下げていくことができないかと考えた。メディアが伝えるニュースの分析、読者を想定した取材実習、こうした授業に慣れた学生たちは、知らず知らずのうちに型にはまったニュース観、取材テーマの選択を身につけてしまう。ステレオタイプの再生産を繰り返していることになる。

メディアの編集現場は限られた時間、想定される読者層という市場の制約を受ける中で、ニュースの鋳型を作り、規格に合った商品として送り出す流れ作業に習熟する。だが時間的制約や商品価値を考慮することのない学生たちは、こうした作業をまねる必要はない。むしろ制約は最小限にとどめ、可能な限り自分の思考、表現の空間を広げる機会を与えるべきではないか。

学生に身近なニュースの発掘を求めたが、逆に、具体例を挙げてほしいと求められた。そこで、9月初め汕頭大学に赴任した直後、雨上がりに大きな巻貝を背負い込んだカタツムリを見つけ、びっくりした経験を思い出した。海辺で見かけるような、厚ぼったいしっかりした貝だ。当地に特有の種類だと知った。

カタツムリの中国語表記は、日本人にも理解できる蝸牛だが、読みは「ウォー・ニュウ」でまったく異なる。柳田國男は『蝸牛考』を著し、デンデンムシやマイマイ、カタツムリの呼称の分布を調べ、時代によって方言が京都から同心円状に伝播していったとする説を唱えた。書名に中国伝来の漢字「蝸牛」を用いたのは、カタツムリから時空感覚を排除するための表現技術だったのだろう。だが私にとって「蝸牛」の表記は切実な認識の問題となる。

巨大なカタツムリとの出会いは、私が中国語による生活圏に加わったこと、それを「蝸牛(ウォー・ニュウ)」と認識することをも意味していた。私にとってのニュースバリューは、巨大カタツムリの新規さ同時に、言語環境の変化をも含んでいた。この文章を書きながら、私は校内で見つけて「ウォー・ニュウ」と認識したものを、頭の中で「カタツムリ」と翻訳していることになる。だが厳密に言えば、私の記憶にある「ウォー・ニュウ」の外観は「カタツムリ」とは違う。頭の中での翻訳は、異なる言語圏を結ぶための便宜的な技術に過ぎない。

「蝸牛(ウォー・ニュウ)」と「カタツムリ」は似て非なるものだ。そう思うところから言葉や文化への理解が始まる。「蝸牛角上の争い」(荘子)も「蝸牛の角上に雌を比べ雄を論ずる」(菜根譚)も、「カタツムリ」から生まれたのではない。カタツムリに狭隘さに対する嘲笑は向けられていない。黙々と地道に、一歩一歩を進み、人々に多くの示唆を与える存在だ。飛行機からカタツムリは見えなくとも、カタツムリから上空は見上げられる。高速道路の速さは無縁だが、微小な小宇宙の営々とした営みをカタツムリは知っている。そういう生き物だ。

こんな話をして学生の表情をうかがってみる。大半は驚き、途方に暮れたように目を開いているが、中にはうなづいている学生もいる。カタツムリの歩みのように、少しずつ話を続けることにしよう。

今朝、小雨の中、はい出して来る「蝸牛(ウォー・ニュウ)」がいた。学生の何人かが、示し合わせたように写真を携帯に送ってくれた。