行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

桜の下で展示された「漢字から平仮名へ」

2018-03-31 14:46:29 | 日記
無錫の桜祭りで、とても懐かしい顔と再会した。昨年4月、学生を引率して日本取材ツアーに出かけた際、北九州市で出会った篆刻家・師村妙石さんだ。次男の冠臣(かんじ)さんも通訳を兼ねて同行し、現地の東林書院で桜祭り記念個展を開いた。









師村さんは浙江省嘉興に専用のアトリエをオープンさせたばかりで、開所式に参加した後、その足で無錫に足を運んだのだ。

師村さんは日中国交正常化直後の1972年10月、友好訪問団として訪中し、人民大会堂で当時の周恩来首相から接遇を受けた。以来、書の交流を広める訪中歴はすでに200回を超えた。昨年の取材ツアー後、師村さんについては詳しく書いたので、ここでは繰り返さない。

【日本取材ツアー⑫】毎日、「寿」を彫り続ける篆刻家(2017年4月17日)
https://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/918216ddb7775e3ba8b603f73fd560d0

【日本取材ツアー⑬】反日デモをくぐり抜けた篆刻石柱碑(2017年4月18日)
https://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/1a1281615d994277ffdadaac9c933e94

篆刻家・師村妙石氏を描いた学生の力作(2017年6月6日)
https://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/41c934d5726f8b4e334e2f8b2ba7be67

今回の無錫での個展は、これまでの実績を土台に常設の活動拠点を設けた後、記念すべき新たな発展の第一歩となった。さらに重要な意味がある。まずは、師村さんの代表作の一つに「桜花爛漫」があり、まさに桜満開の時期に同作を展示できたことだ。



そして、学問の府として宋代以来の歴史を持つ東林書院が会場として提供され、地元の書家たちらと親密な交流ができたこと。東林書院は宋代の儒者、楊時が理学を伝えるために開いた私塾が始まりである。師村さんは1980年代、同地を訪れているが、当時は荒廃し、見る影もなかった。その後、見事に復元された書院で個展を開く機会を持てたことに、深い感慨を抱いた。









会場の「道南祠」には正面に清代の名書家、鄧石如が書いた額「後学津梁」(こうがくしんりょう=学びを受け継いでいく架け橋の意)が掲げられていた。



そして、最も重要なのは、師村さんが今年8月、河南省安陽の中国文字博物館で予定している個展「漢字から平仮名へ」の一部作品が先駆けて披露されたことである。



漢字の草書体が平仮名に変化していく歴史を書の作品にしたものだ。中国文字博物館には世界の文字が集められているが、残念ながら日本の平仮名がない。そこで師村
さんは、個展を通じて平仮名の存在を伝え、作品をそのまま同博物館に残そうと思い立った。日中の文字交流史において画期的なイベントになる。

様々な思いの去来した無錫行だった。

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なお、直近では師村さんについて、以下の新聞記事がある。

西日本新聞3月20日 出来町公園に「博多駅」 福岡市が師村氏に感謝状
ttps://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/402395/

中国では桜の楽しみ方も急速に進化している。

2018-03-30 21:59:52 | 日記
3月27~29日まで無錫を訪れた。28日に恒例の無錫国際桜まつり開幕式があった。日本の有志が桜の植樹を始めて31年目を迎えた。植樹グループの日中共同建設桜友誼林保存協会はご高齢ながら、なお地道に活動を継続している。そこに数年前から上海にいる日本人留学生の一団が加わり、年々、活況を呈している。一方、中国の観光客が急増し、昨年から、記念イベントも週末から平日に変えざるをなくなったほどだ。この時期、携帯のウィー・チャットではあちこちで桜の開花を伝える写真が飛び交う。











確か5年前ほどだったか、上海総領事館のスタッフが日本に夜桜の習慣があることを教えたところ、すぐ翌年から夜間の開放が始まった。今では大盛況である。









以前は桜の前で写真を撮る程度だったが、今では桜の下にシートを敷き、日本の花見と同様、食べ物や飲み物を持ち寄って宴会も始まっている。年々の変化に驚くばかりだ。





今年は上海から日本総領事ばかりでなく、米国やアイルランド、エチオピア、シンガポールなど計七か国の総領事が参加した記念フォーラムが開かれるなど、国際色を強めた。日中関係が柱となり、他国に交流の輪が広がっていくのは、日本人として非常にありがたいことだ。上海の留学生グループにも、今回は日本以外の留学生が浴衣で参加した。





桜に囲まれながら、懐かしい友に会えるのはうれしい。授業の合間、慌ただしい無錫行だったが、得難い思い出がまた一つ増えた。旧友らは5月から6月にかけ、汕頭大学に遊びに来ると約束してくれた。これもまた桜が取り持つ縁なのだろうか。

もう一つ、忘れがたいことがあった。改めて書き残したい。

中国の強国化を率いる紅二代布陣

2018-03-19 16:07:26 | 日記
習近平のスタイルは、毛沢東ら革命世代の二代目「紅二代」として、共産党の原点回帰、正統の継承にある。したがって党の一貫性、純潔性にこだわるが、従前の慣行をもとに「前例」や「不文律」といった基準を当てはめるのは慎んだほうがいいようだ。全国人民代表大会で選出された王岐山国家副主席の人事がそうだった。昨年10月の第19回党大会で、前国家副主席の李源潮は66歳で、不文律の党幹部定年68歳に達していないにもかかわらず、中央委員から外され、引退が決定した。異例づくめの国家副主席人事だった。

王岐山はすでに69歳で、昨第19回党大会で党中央規律委員会書記を辞し、中央の指導部から退いている。今回の全人代では憲法修正案も可決され、第一条に「中国共産党の指導は中国の特色を持つ社会主義の最も本質的な特徴」の一文が追加された。初めて前文ではなく条文の中に「中国共産党の指導」を明記し、画期的な意味を持った。そのロジックに従えば、党の指導者でない者が国家の指導者に就くのは矛盾しているようにみえる。

だが、それは外野観客の観察であって、プレーをしているピッチャー兼キャプテンはそうは思わなかった。最終回まで優位を保ち続け、確実に勝利をものにするためには、息の合ったキャッチャーがどうしても必要なのだ。しかもそのキャッチャーは、すでに十分な打点を稼いだので、キャプテンの座を脅かさないようバッターとしては表に出ない。もっぱら守りのシンボルとして、ピッチャーの球を受けていてくれればいい、というわけなのだ。

王岐山は反腐敗キャンペーンの旗振り役として、数多くの高位高官を牢獄に送り込んだ。自らの家族がからむスキャンダルが海外で暴露され、キャンペーンに恨みを買った抵抗勢力から反撃も受けた。国家主席である習近平の補佐役として肩書を残すことは、王岐山の身の安全を確約する保険となる。王岐山は、習近平の腹心としてとどまることにより、命運を習近平に委ねたことになる。

もちろん、習近平は王岐山の能力をフルに活用できる。金融や経済に明るく、外国との交渉でも原稿なしに雄弁を振るうことで知られる。副首相として米オバマ政権との閣僚級会談を取り仕切った経験もあり、米国とのパイプはさらに深まった。経済担当の副首相に就任した劉鶴・党中央財経指導小組弁公室主任はハーバード大学留学経験があり、きっての米国通だ。いずれも米国と肩を並べる強国化の国家目標を体現させた人事である。

王岐山はまた、メディア界をはじめとする紅二代の開明派の後ろ盾でもある。習近平は王岐山を通じ、こうしたグループをも取り込むことができる。いずれにしても、習+王体制は、紅二代の総意を代表する布陣だと言える。このトップとナンバーツーのコンビを「盟友」と呼ぶのは間違っている。力の差が圧倒的にあるからこそ関係が安定する、兄弟関係に近いものを想像したほうがいい。

3月17日、習近平は国家主席に選出された全国人民代表大会の会場で、人民解放軍兵士によって運ばれた赤い憲法に左手を置き、右手を挙げ、下記のような憲法順守宣誓を行った。中国の指導者が初めて行ったセレモニーだ。

「私は宣誓する。中華人民共和国の憲法に従い、憲法の権威を守り、法定の職責を履行し、祖国と人民に従い、厳格に職務を守り、廉潔に奉仕し、人民の監督を受け、富強で民主的で、文明を備え、調和のとれた美しい社会主義近代強国建設のために努力奮闘する!」

今回の全人代で修正された憲法のもとになった1982年憲法が当時、全人代で採択された際、採択の宣言をしたのは習近平の父親、習仲勲だったことは以前にも触れた。前例破り、恒例破りの新スタイルにも、根っこには紅二代のリーダーとして、党の一貫性、純血性に足場を置く信念が貫かれていることは間違いない。

財務省だけ責めても無責任社会は変わらない

2018-03-17 21:23:02 | 日記
日本では財務省の改ざん文書問題で持ち切りだと聞く。まだ真相はわかっていないうえ、報道には外国語への翻訳が難しい「忖度」がたびたび引用されているので、いかに中国の学生たちにこの事件を説明したらよいのか、戸惑っている。日本語のネットで「超エリート集団の財務省ともあろうものが…」という表現を目にしたが、違和感を持った。試験による選抜を経て、立身出世にまい進する人たちが、とことん体制に順応するのは当たり前だ。

かつては政治家が官僚を巧みに操り、大きな政治課題を処理した。日中交流正常化はその最たるものだ。人心収攬の術に秀でた政治家たちは、責任を自己が引き受ける一方、立身出世の動機づけによって官僚の能力をフルに引き出した。官僚は私人として仕事を失うことができないので、免責さえされれば、いかんなく自己が信ずる「公共」「国家」のため、官費によって身につけた知識と知恵を提供した。それが官僚の生きがいでもあった。

だが昨今の政治家と官僚の関係はそうでもないらしい。政治家は官僚を使うだけ使った挙句、あとは知らん顔で責任だけを押し付ける。大臣は辞めても、議員の身分は残るはずだが、自分の肩書に執着して、「公共」の心がない。これでは官僚がやりがいをもって仕事をしようとする「公共」の精神は生まれない。裏返してみれば、財務省だからこそ、最後まで政治家に恋々としてすり寄ったとも言える。

「公共」をカッコつきで書いたのには、官僚の考える中身と、我々が求めるべき理想が必ずしも一致しないと思うからだ。

カントが提起した「理性の私的使用と公共的使用」という概念がある。

たとえば、財務省の役人が、いわゆる「組織の利益」あるいは「公共の利益」(実際はある特定個人の利益であることがしばしばだが)を守るため上意下達のルールに従い、それが役人の務めなのだと納得して判断し、行動したとする。この場合、あたかも官庁が代表するところの「公」を実現したかのように見えるが、しょせんは個人の利害から発した判断、行為、つまり「理性の私的使用」に過ぎない。

そうではなく、官庁=公共ではなく、個人が利害関係に基づいて所属する組織から離れ、より大きな社会の一員として、全体の幸福を考え、判断し、行動することこそが「理性の公共的使用」にあたる、とする考え方だ。

「ノー」と言える自由が保障されていなければ、公共は存在しない。むしろ、異なる意見を戦わせる論を通じ、初めて公共空間における世論が形成されるのであって、上意下達の非民主的システムからは、全体主義しか生まれない。政治家と官僚との、緊張をはらんだ良好な関係は、公共空間を受け入れる余地を持っていたが、片務的で私的な都合が優先する「忖度」の関係には、自由な議論もなく、無責任な政治しか生まれない。非民主性と無責任性のうえに、全体主義が育つ危険をはらんでいる。

メディアは官僚体質を批判するだろうが、そもそもメディア自体が、自由な議論とは無縁で、軍隊式の統制が敷かれていることに対する反省は乏しい。悪者を見つけ出し、それを退治すれば社会が進歩するのだと、大衆をだましている。本当の矛盾に目を向けない限り、対症療法でその場をしのぎ、病巣をさらに深く温存させているに過ぎない。自己を正しく認識するところから、他者との建設的な対話に基づくコミュニケーションが生まれる。それを欠けば、聞き手を持たない、一方的な言い合いに終わるしかない。劇が幕を閉じれば、後には何も残らない。

日本ではまた、名古屋市立八王子中学校が前川喜平・前文部科学次官を授業に招いた際、文科省が学校側に報告を求めていたことが問題化した。非常にお粗末だと思うが、「忖度」文化を考えれば、火の粉が飛んでくるかもしれない事柄に対し、役人が必死に情報収集をする自己保身の発想は想像に難くない。ここにも「公共」の場はなく、どこまでいっても「理性の私的使用」しかない。財務省もどこの省庁も、そして巨大メディアも、「公」を差し置いて「私」に奔走している実態にはさして違いはないのだ。

前川氏の勇気ある言動、真相解明に果たした役割は正当に評価したいが、「役所を辞めれば、自由にものが言えるようになる」との発言はいただけない。組織のトップに上り詰め、定年間際まで勤め上げた者が言っても説得力はない。「定年までは我慢して出世を目指し、余生は本音を語ればよい」と高をくくっているに等しく、やはり公共性とは全く無縁な、「理性の私的使用」に基づいた無責任発言である。

重箱の隅をつつくような、いわゆる精密で実証的な真相解明が、大きな問題を見逃す口実とならないことを望む。

中国の憲法修正に関するもう一つの解釈⑦完

2018-03-14 22:18:11 | 日記
中国で今、最も不幸な集団があるとすれば、それは農民である。中国共産党は農民を組織して天下を取ったにもかかわらず、豊かになったとたん、かつての貧しい人々を見捨て、自らの利益を追い求めることに汲汲としている。この現状に心底から憤慨する人たちがいるとすれば、革命世代の二代目、紅二代だ。親たちが築いた貴重な土台が危機にさらされている。その紅二代の危機感を背景に政権を引き継いだのが習近平である。

中国では、土地を失い、食糧を奪われ、何一つ失うもののない「無一物」の農民たちが決起し、王朝を転覆させてきた歴史がある。毛沢東は、工業先進国で生まれた社会主義思想を農村に適用した。そして、腹を空かした農民を組織し、都市部のブルジョア資本を代弁する蒋介石政権を打破できたのは、独自の歴史に学んだ結果である。だからこそ、農民の不満には敏感になる。

忘れてならないのは、約100年前に中国共産党を結成し、最後には天下を取った指導者たちや同志たちもまた、土地に縛り付けられた農民だったということだ。党が腐敗し、本来、最も多く成長の果実を分け与えられるべき農民たちが、逆に社会の底辺に追いやられ、汚染された土地と水の中で、成長の犠牲になっている。

最低限の衣食が足りたとしても、出稼ぎ農民たちは、慣れない都市での生活で人間の尊厳を踏みにじられ、人並みの待遇を受けられない社会的貧困にさらされている。そして農村に取り残され、孤立した老人や婦女、子どもたちは、貧しさと不正義への不満をつのらせ、党幹部の腐敗に腹を据えかねている。毛沢東が、みなを国の主人公にすると約束したのはうそだったのか。「最初の話と違うじゃないか!」。農村からの悲痛な叫びに耳を澄まし、納得のいく答えを出さなければ、中国共産党はその歴史的正統性を失って崩壊する。

農民の怒りはもはや爆発寸前で、すでに小さな火種はあちこちに表出している。習近平自身が「このままでは党も国も滅ぶ」と強い危機感を公言せざるを得ない状況なのだ。憲法修正も、あらゆる目的は党の存続につながっており、そのための選択として習近平政権の長期化が位置付けられている。単なる権力のゲームでは割り切れない深刻さがある。

ある学生がこんなことを言っていた。

「習近平が任期を超過するのはかまわないし、ふさわしい人がいなければそうするのが当然だと思う。ただ心配なのは、強力な指導者の後で、適格者が適切に政権を受け継がなければ、国内は混乱するのではないか」

毛沢東後のことを想起すれば、至極まともな視点だ。当時は、鄧小平が華国鋒を追いやり、軍系統のほか、胡耀邦ら開明的な勢力を味方につけ、改革開放に舵を取った。毛沢東の権威を温存しつつ、それを巧みに利用しながら、党分裂の危機をなんとか乗り越えた。習近平は党の危機に際し、紅二代の強力なバックアップを土台に、反腐敗キャンペーンで権力基盤を固め、さらに憲法修正を通じ法治による正統性を求めている。

習近平はまた、中華民族の偉大な復興、いわゆる「中国の夢」のスローガンによって人民を団結させ、民衆動員を通じ党の正統性を強化しようともくろむ。その壮大な目標の前で、憲法は、動員される舞台装置の一つとなる。

習近平は「中国の夢」として、「二つの100年」目標を掲げる。共産党創設100年(2021年)にゆとりある社会(小康社会)を全面的に築き、建国100年(2049年)には富強で、民主的で、文明を備え、調和のとれた社社会主義近代化国家を建設する。つまり、半植民地化からの独立を願った孫文以来、歴代の指導者が夢見てきた念願の先進国入りを国家目標としている。

後者の目標を達成すべき2049年、習近平は96歳である。親たちの遺志を受け継ぎ、民族復興の事業を完遂させた元老として天安門の楼城に立ち、党の事業を継承した功績に身を震わせる姿を想像しているに違いない。今回の修正で、憲法前文(序言)には「中華民族の偉大な復興を実現させる」「習近平新時代の中国の特色を持つ社会主義思想の指導」が書き加えられた。実際に実現されたときには、さらなる書き換えが必要となる文言である。習近平は次の憲法修正を見届けたいと思っているのだ。

この国ではそのぐらいのスパンで物事をみないと、確かなことは何も見えてこない。

(完)