行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「コロナ下の国際交流」を探る試み⑤完

2021-05-25 18:04:43 | 日記
3月25日、無錫国際桜祭りに初めて中国人民対外友好協会の会長が出席した。南アフリカ共和国大使を歴任した外交官の林松添氏で、副大臣クラスの大物だ。それまで同協会からは副会長が参列していたが、一気に格上げされた。

(3月25日、無錫慧海湾公園・国際桜林友誼林開園式典での記念植樹。左から5人目が林松添会長、その右が磯俣秋男・駐上海日本総領事)

(磯俣総領事と林会長)

中国をめぐる国際関係が厳しい中、これは単純な巡り合わせではない。30年以上も続いた無錫での桜をめぐる日中交流の基礎があることは言うまでもない。いきなりスタートした民間イベントに全国友協会長が直々来ることは通常あり得ない。さらに、より深い理由があると受け止めるべきだ。

まず、それを理解するためのバックグラウンドに触れる。中国では政治がすべてに優先する。例えば、中国人が「政経分離」と言っても、日本人の理解で受け取ってはならない。政治が第一であり、ポリティカル・コレクトに触れない範囲で、経済交流を進めましょうと言っているに過ぎない。もっと言えば、経済交流が政治目的に合致しているという大義名分がなければならない。無原則な市場化はあり得ない。こうしたことは、中国人みなが肌で学んでいる常識だ。

いわゆる「官民」の使い分けにしても同じである。政治を担う「官」はすべてに優先する。官から離れた完全自由な「民」は存在しない。「民間交流」と言っても、それは自由、無原則ではなく、政治の目的にかなった範囲内の活動を示しているに過ぎない。「官」の態度に「民」が敏感に反応する土壌はこうした背景を持っている。

対外友好協会は、いわゆる民間外交を担う国家機関だ。すそ野の広い民間分野に、融通の効かない政治が直接かかわり、道をふさいでしまうことを避けるためのクッション役を果たす。各地方政府は外交にかかわる「外事」のほか、「対外友好協会」の表看板をもった部門があり、その頂点に立つのが全国友協だ。

だから、日本を始め外国の外交官やビジネスマンが多数ゲストとして呼ばれている無錫国際祭りに、トップの林松添会長が北京から駆け付けるのも、民間交流の推進という建前はあっても、政治とは無縁ではありえない。間違いなく中央最高指導部の了解、さらに支持がなければならない。

林会長は弁舌が巧みで知られるが、その演説も中央の事前了承がなければおいそれとできるものではない。また、現地で私が「新緑」メンバーを引率しての取材を申し込んだところ、「NHKの後に」との条件で快く引き受けてくれた。強い後ろ盾を持った自信の表れと言ってよい。



林会長の開幕挨拶には重要なポイントがいくつかあった。
1,無錫の桜林は将来にわたる日中友好の象徴である。
2,日中間には両国人民が不幸に見舞われることはあったが、友好が主流であり、困難に遭うたびに、両国民間が手を携え共通利益を守ってきた。
3,21世紀はアジアの世紀であり、日中がともにアジアの平和と安定、繁栄を守る責任があり、域外国家の干渉を排除しなければならない。
4,今年、中国共産党は100周年を迎え、幅広い対外開放とハイレベルの発展に力を注いでおり、対外民間交流も新たな発展の機会が広がっている。
 
つまり、周辺外交を円滑に進めるために、日本との民間交流はこれまで同様、強く推進していくことが国の基本方針であることを明言したのである。





また、「新緑」のインタビューに対し、林会長は特に青年交流の重要性を強調した。
「青年相互交流は民間友好交流の重要な方向であり、中国の青年が世界、特にアジアの青年と交流を進め、お互いを理解することが必要だ」
「メディアの報道には間違いも多く、外に出ていかなくては、真実の世界を知ることはできない。だからこそ、青年同士の直接交流が必要となる」
「中国の青年がどんどん世界に出ていくよう励ましているし、海外の青年が中国に来て交流し、学び合い、一緒に発展することも歓迎している」



34周年を数えた日中桜友誼林建設の歩みがいかに尊く、貴重なものであるか。若者の参画と直接対話がどれほど重要か。そんなことを再認識するとともに、同時に、日中の多くの人たちが、なんとそれに気づいていないか、あるいは知ろうともしていないか、を痛感することになった今年の桜祭りだった。

(完)

「コロナ下の国際交流」を探る試み④

2021-05-19 13:25:14 | 昔のコラム(2015年10月~15年5月
先週末、学部の卒業記念行事が終わり、6月末の卒業式に向け、学内では別れを惜しむ光景が目立つようになった。期末テストや新入生の募集準備も同時に進行し、にわかにそわそわし始めた。




4月に入って広東省が外国人へのコロナ・ワクチン接種を開放すると発表していたが、今月12日、大学で外国人教師に対する接種が始まり、さっそく第1回を受けてきた。接種後、幸い何の反応もなかった。時間をおいて、改めて2回目を接種する予定だ。


残念ながら目下、ワクチン接種によって再入国条件が緩和されるわけではなく、従来通り4週間(入国場所3週間+居住地1週間)の隔離が必要なので、夏休みの一時帰国は断念せざるを得ない。その分、「こんにちはサロン」の第二弾に専念しようと思う。すでに日時と場所が内定し、準備が順調に進んでいる。

第1回目の「こんにちはサロン」は3月27日、北京の日本大使館で行ったが、「コロナ下の国際交流」イベントは、実は同月25日の「無錫国際桜祭り」からスタートしている。私は無錫市から「桜花使者」を拝命しているので、都合の許す限り毎年参加しているが、今年は「新緑」メンバーを同行し、取材チームとしてかかわった。

昨年はコロナの影響でイベント自体が中止となったが、今年は、日本からの植樹チームが参列できない中、上海の日本総領事をはじめ各国総領事、北京からはシンガポール大使、さらには多数の日系企業関係者が集まり、文字通り「コロナ下の国際交流」を模索する試みとなった。







無錫の太湖湖畔には今や3万本となった桜林「中日桜花友誼林」があるが、もともとは1988年、日本の戦争世代が植樹をしたのが始まりである。今年で34周年を数え、これまで1万6000人が参加した。民間レベルの日中交流事業としては、間違いなく最も息の長い、最も中身の深い行事の一つである。

残念ながら日本からの植樹チームは参加できなかったが、無錫市の開幕イベント会場で、「日中共同建設桜花友誼林保存協会」代表の新発田豊さんのビデオレターが披露され、「3万本が大きく育ち、きれいに咲き、中国一の桜の名所となったのは、無錫のみなさんとともに桜に託した友好と平和の願いが届いたものです。これからも世世代代まで成長していくことを願っています」との言葉が来場者を感動させた。




妻の新発田喜代子さんによると、わずか1分の収録のため3日間をかけたという。たくさんの思いが詰まったビデオレターだった。新発田夫妻は「新緑」チームの取材にも応じ、「保存協会は高齢化が進み、父を知る人も少なくなりました。日中未来創想会の若者のパワーを感じて私達で終わりにしてはいけない。桜の花が百年、千年と咲き続けるのを見守らなくてはとの想いになりました」と答えてくれた。

非常に困難な状況のもとでの無錫国際桜祭りだったが、その分、意義深いものになったと思う。さらに注目されたのが、当日のゲストだった。全国人民対外友好協会からはそれまで副会長が参列していたが、今回初めて「会長」が姿を見せたのだ。

(続)

「コロナ下の国際交流」を探る試み③

2021-05-07 19:31:37 | 日記
卒論審査が一段落し、今週末は学部の卒業記念イベント、来月には大学の卒業式が予定され、キャンパスは今、感慨深い門出の時期を迎えている。

3月27日、在中国日本大使館で、「コロナ下の国際交流」をテーマとしたイベント「こんにちはサロン」は成功をおさめ、日中両国で幅広い報道がなされたことはすでに書いた。コロナの影響は依然深刻で、人的交流がなお正常化に程遠い中、第二弾の企画も順調に進んでいる。改めて初回の試みを振り返ってみたい。

イベントを思いついた発端は、汕頭大学新聞学院の日本取材ツアー「新緑」が実現困難となり、メンバーの大半を占める四年生が卒業してしまう事態に直面したからだ。何か彼女たちに国際交流を体験させてあげたい。そんな思いを抱き、冬休みを利用して活路を見出す旅を始めた。

江蘇省無錫、北京を訪ね、知り合いたちと「コロナ下の国際交流」について議論をした。こうして無錫の国際桜祭りへの参加に加え、北京の日本大使館で「新緑」の歩みと成果を発表するイベントを開く構想が浮かび上がった。今学期が始まる前に中国語で8000字以上の計画案を書き、学内の意見を仰いだ。

だが、時間の猶予がないうえ、外交にかかわる手続きの煩雑さや、コロナによる集団行動の制限も加わり、学生を引率してのツアーは頓挫した。だが、そこで助け舟を出してくれたのは「新緑」の卒業生たちだった。







当日の会場では、「新緑」卒業生計10人がボランティアとして、このイベントために作ったオリジナルTシャツとマスクを着用して参加した。T-shirtとマスク、ポスター、シールのデザイン製作、事前宣伝、記念品の準備から会場の整理や受付、撮影記録、BGMの準備、お茶の用意、さらにはPPTの制作、取材報道にいたるまで、あらゆる仕事を引き受けてくれた。







彼女たちは北京のメディアで働く者が7人、そのほか、成都、重慶、海南島三亜で働く、あるいは学ぶ3人まで駆けつけてくれた。うち二人は私と一緒に無錫の国際桜祭りの取材にも同行してくれた。当日、仕事で来られない広州のOGは、「なにか手伝いたい」と申し出、多忙の中を縫ってポスターのデザインを担当した。それぞれが新聞学院の特性を生かした能力を発揮してくれた。

参加できなかった現役の学生たちだが、「新緑」のオリジナルジナル主題歌『新たな出発』のMV第二版を製作し、私の講演の最後に流した。会場から長い拍手の支援を得たが、現場で見ていた卒業生たちは、涙を流す者さえいた。

(『新たな出発』MV2.0)
https://mp.weixin.qq.com/s/L-wesvzZTUaMM47SNsIz6g




(「TOKOTOKO」大西邦佳さん提供)

前回のイベントにあたっては、「新緑」メンバーのほか、多くの中日の友人が参加してくれた。日本人留学生もいた。中には2012年から13年にかけ、日中関係が領土問題で悪化した際、一緒に現地からの生の情報発信に力を注いだ仲間もいた。困難な中での情報発信は今回も同じだった。

準備をする中で強調したのは、コロナ下で国際交流を行うことの「意義」だった。困難な時だからこそ、「意義」を共有することが大切だと感じた。「目的」という言葉は使わなかった。一人一人が自分の考えを持ち、それぞれの目的があってよいが、「意義」さえ共有できれば手を携えることができる。そう考えた。

さらに必要なのは「信頼」である。いろいろなリスクを斟酌し、「安心」「安全」な道を求めれば、最後には不作為の選択にたどり着くしかない。官僚主義の弊害である。私たちは「安心」を求めるのではなく、「信頼」に基づいて力を合わせたからこそ、短期間で効率的な作業ができた。「不安」は「不信」から生まれのであって、「信頼」があればあえて「安心」を求める必要はない。

「新緑」第三代リーダーの付玉梅(中国新聞社『中新経緯』記者)が4月2日午後4時半、新華社のアカウントで長文のイベント関連記事を発表したが、その夜のうちにアクセス数は100万を超えた。何よりも私たちを元気づけてくれた記事だった。

改めて感じたのは、「疾風に勁草を知る」である。「意義」の共有と「信頼」の基礎があったからこそ、困難を乗り越えることができた。「艱難汝を玉にす」の言葉を胸に、次の企画に取り組みたい。

(続)


「コロナ下の国際交流」を探る試み②

2021-05-01 23:16:06 | 日記
中国は5月1日から労働節の長期休暇に入った。すでに通常の旅行も正常化しているので、これまでコロナ下で抑えつけられていた分、外出意欲はかなり強く、飛行機や列車のチケットが取りにくい、あるいは非常に高額になっている。私は外出せず、休みを利用して学校に戻ってくる卒業生と会えるのを楽しみにしている。

前回のブログでは日本大使館でのイベント「こんにちはサロン」について触れたが、コロナ下において、非常に貴重な日中文化交流の機会だったので、さらに何回かに分けて、詳しく紹介をしたい。

今回は、とりあえず私を含め中国の大学で教える日本人3教授が当日、講演した内容をまとめる。すでに一か月以上が経過し、ニュース性は薄れているが、記録資料として参考になればと思う。すべて通訳なしの中国語で通したので、紹介記事ももとの中国語が中心となっている点をご了承願いたい。



まず私のタイトルは「日本を深く知ると中国がもっとよくわかる」。汕頭大学長江新聞輿伝播学院で2017年から毎年、行っている日本取材報道ツアープログラム『新緑』の歴代メンバーと一緒に、その成果、主として映像を紹介しながら、日本における中国の影響や日本から中国への影響も含めた文化の循環関係を指摘した。

また、はるか離れた日本と潮汕の不思議な縁についても触れた。日本語の漢字(音読み)と潮汕方言の発音が似ている言葉が多いことや、併設の写真展「異中求同」を通して、潮汕と日本の伝統的行事において神輿の祭り、鯉のぼり、豆まき、七草がゆなど、共通点が多くみられることを紹介した。




元岩波書店編集者で、北京大学外国語学院外籍専家の馬場公彦さんは、「漫画を食べて育ったぼくら」と題し、中国の若者にはあまり知られていない90年代以前の日本漫画の魅力を紹介した。

個別の漫画家とその作品に即して、独特の漫画表現はどのようにして生まれ、人気を博したのか、その漫画を原作にしたアニメやキャラクターグッズにも目を配りながら、戦後日本漫画の歴史を追った内容だ。中国の若者は1990年代以降の日本アニメ作品を見て育ったが、現代アニメの原点を探ることで、日本漫画をより深く理解することができるというのが狙いだった。




中国対外経済貿易大学国際経済研究院教授の西村友作さんは、「日本人教授を生んだ異文化の刺激」がテーマ。西村さんと中国との出会いは1995年夏。当時大学3年生の初留学で大きな刺激を受け、人生が大きく変わった。

そして中国で短期(1か月)、中期(1年)、長期(8年)と3度の中国留学。最初の短期留学で中国に興味を持ち、二度目は語学クラスで中国語の習得に励み、三度目の留学では大学院で大学教員を目指した。一人の日本人青年が異国の地で、北京語を使いこなすほどに語学力を高め、一流大学の教授になった実体験を通して、異文化交流は、自分の目で、自分の体で感じ、そこから刺激を受けることが大事であると力説した。

講演後は、お茶を飲みながら参加者と自由に懇談する時間も設けたが、みなが熱心に先生を取り囲んでいた。事後のアンケートでは、質問時間が短すぎるとの意見が多く寄せられた。今後の反省材料である。

なお、スピーカー3人の講演内容は、『こんにちはサロン』アカウントでそれぞれ詳報し、かつ、私の分は一部を日本語で『人民中国』にも寄稿したので、以下を参照していただきたい。(続)

(加藤隆則)
3月29日『こんにちはサロン』アカウント
“酷你吉娃”嘉宾分享 | 加藤隆则:了解日本是为了更好地读懂中国
4月23日『人民中国』
「潮汕地区と日本の不思議な縁」

(馬場公彦)
4月1日『こんにちはサロン』アカウント
“酷你吉娃”嘉宾分享|马场公彦:挖掘80年代前日本漫画经典的时机到了
https://mp.weixin.qq.com/s/xiGtsVyCMwsFsTOMIgS3Sw

(西村友作)
4月2日『こんにちはサロン』アカウント
“酷你吉娃”嘉宾分享 | 西村友作:用了13年,我在中国当上了大学教师
https://mp.weixin.qq.com/s/fLZEL_N-cEljiZKKZyO0cw