行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「暗闇の中で手探りしながら歩いている」自覚・・・『スポットライト 世紀のスクープ』

2016-04-29 00:40:43 | 日記
映画『スポットライト 世紀のスクープ』の感想に作品中のセリを書いたコメントを頂いた。私も目に留まった言葉だった。共感し、血が騒ぎ、心が震えた。

「私たちはよく自分が暗闇の中で手探りをしながら歩いていることを忘れてしまう。いきなりライトに照らされたとき、間違った道を進んでいたことにはたと気づくのだ」
(Sometimes it's easy to forget that we spend most of our times stumbling around the dark. suddenly a light gets turns on and there is a fair-share blame to go around.)

マイアミからやってきたボストン・グローブ紙の新任局長、マーティ・バロンが、部下たちに報道の意義を語る。教会の圧力は強い。取材の壁は高い。だが伝えるべきことがある。信念を揺るがせてはならない。そんなプロフェッショナルの悩みと気概が込められた言葉だ。

バロンが赴任した当初、スタッフたちはみな、彼が経費削減のために送り込まれたよそ者だと思っていた。だが実施は正反対。真実を伝える正義を貫こうとする硬骨漢だった。なにしろ最初の編集会議で教会の疑惑を掘り下げて取材するよう指示するのだから。教会の権威、権力に慣れ切ってしまった現地育ちの記者たちは度肝を抜かれる。

現在、日本の新聞社にこうした責任者を見つけるのは至難だろう。いかに自分がリスクを取らずに責任を回避し、部下のあらを探すことばかりに熱心な上司が多い。暗闇を手探りで歩いているという自覚よりも、可能な限り灯りのついた大通りを歩こうと努める。これでは薄暗い裏道に隠れている社会の真実は見過ごされてしまう。庶民感覚からの遊離はこうして生まれる。記者がハイヤーの中からばかり街を見て、路地裏を歩かなくなったらおしまいだ。失敗を恐れない勇気は、暗闇を手探りで歩いているという自覚の中から生まれるのではないか。

インターネットは確かに便利である。有効に用いることで、迅速に、簡便に様々な情報に接することができる。だが真実は人の口から語られるものであるという原点を忘れてはならない。だから人に会わなくてはならない。目を見て、表情を感じ取って、言葉の裏に隠れた意味まで読み取ることができるほど、じっくり時間をともにする。これを厭っては、真実にたどり着くことができない。

同作品でも、児童性的虐待の容疑が持たれる神父90人のリストが出てくるが、それが正しいかどうかを確認したのは教会側の弁護士だ。デスクが友人であるその弁護士を訪ね、「正義の側に立て」とラストチャンスの確認作業を求める。弁護士は守秘義務を繰り返し、「出ていけ」と寒空に追い返すが、デスクが外に出ると追いかけてくる。そして黙ったままリストを取り上げ、全員の名前に○をつける。リストが正しいことの明確な返事だ。この2人の人間関係でしか成り立ちえない確認作業である。

こうした微妙なやり取りをできない記者が減っているのは、あるいはこうしたやり取りを認めなくなっている新聞社の体質にも問題があるのではないか。「弁護士から『これで間違いありません』と一筆を取ってこい」と言い出しかねない上司が実際にいる。悲しいことにこれが偽らざる現実なのだ。


雨に打たれた葉はより鮮やかに、花はより赤く白く

2016-04-28 15:24:23 | 日記
朝からの雨で庭に並べた草花が水滴を乗せ、しっとり濡れている。



ドウダンツツジが釣り鐘型の赤い花をまとめてぶら下げている。山の斜面や町中の植え込みを彩る一面のツツジも華やかだが、奥ゆかしい可憐なドウダンに引かれる。日本語で「満天星」と書かれることがあるが、中国語の「満天星」は別物のカスミソウである。



下向きに細長く白い花びらをつけたのはヒメウツギ。雪のように白い。一枚一枚の花びらは、蝶の羽を思わせる軽やかさで、今にも飛び立つが如くに見える。



ヤブデマリの花はユニークだ。大きな4枚の花弁のほかもう1枚、気を付けなければ見過ごしてしまうほど小さい花びらが付いている。だが不格好には見えない。小さな花びらの謙虚さが微笑ましい。



花の名前は忘れてしまった。菊の葉に丸みを帯びさせたような葉の形だ。アジサイのように固まって咲いている。だが華美ではない。慎ましさが愛おしい。


真実を追求するすべての人に薦める『スポットライト 世紀のスクープ』

2016-04-28 12:51:19 | 日記
日本に戻ってきて初めて映画を見た。



第88回アカデミー賞で作品賞、脚本賞を受けた『スポットライト 世紀のスクープ』。ボストン・グローブ紙の若い敏腕記者、マイク・レゼンデスを演じた俳優マーク・ラファロの目がいい。取材対象に向き合い、必死で真実をつかもうとする彼のまっすぐな目線。正義感と功名心を車の両輪にしてひた走る彼の正直なまなざし。それを見ているだけで心が熱くなった。

1人だけではない。「スポットライト」という目玉の調査報道欄を担当する4人の取材チームがこころざし、価値観を共有して力を合わせる。正面取材、ディープスロートを通じたやり取り、資料の分析、それぞれの役割をきちんと果たして手作りの完成品ができあがる。現実には得難いことである。報道にかかわるすべての人に推薦したい映画だ。

多数のカトリック教会神父による児童への性的虐待事件を、教会がその社会的権威や権力を使って組織ぐるみ隠蔽している実態を暴くスクープ取材の内幕がストーリーだ。勇敢で正義感の強い新任局長が、有能な取材チームを使って、これまで見過ごされていた事件を改めて掘り下げるよう指示する。何十年も前の事件について、説得に応じ泣きながら告白する被害者、厚い壁の前で次第に取材協力に応じ始める弁護士。真実と正義、そして熱意しか堅い口を開かせる武器はない。

レゼンデスが訴訟の公開資料を提供するよう求めると、ある判事はそれが地区協会の枢機卿の関与を示す重大な資料だと気づき、「これを公開した責任はだれが取るのか?」と躊躇する。それに対し、レゼンデスは間髪を入れず言い返す。

「それを公開しなかった場合の責任は?」

もし闇に葬れば児童の被害者は拡大するばかりなのだ。壁にぶつかったとき、相手を説得できる言葉を持てるか否か。それが記者の実力を左右する。取材は、対象を説得し、納得をさせる過程である、というのが私の経験に基づく持論である。

派手なアクションも、奇想天外なストーリーも、感動的なラブロマンスも、完全無欠のヒーローも出てこない。娯楽性の点では評価のしようがないが、真実を追い求める仲間たちの貴い魂が、時空の境を越えて、心のひだにまで訴えかけてくる。取材チームの美化、賛美に終わっていない。一発の特ダネにこだわる若い記者を、老練なデスクが記事に広がりを持たせるためにたしなめる場面もある。

実はそのデスク自身、かつて今回の特ダネにつながるはずの小さな記事を見逃していたことに気付かされる。犯罪を放置した責任は、教会上層部や司法機関だけでなく、無意識のうちに教会の権威に屈していたメディアにもあった。社会の構成員みなに反省を促すテーマである。犯人探しをするだけで社会は改善しない。ラストシーンで、枢機卿がカトリック教会総本山のバチカンに異動したとの字幕が流れる。事件の背景の奥深さを暗示して幕を閉じる。スクープだけで世の中が変わるわけではないのだ。

多数の受賞歴は以下にある。報道にかかわる者として、喜びを分かち合いたい。
http://spotlight-scoop.com/awards.php

中国の腐敗と無神論的「迷信」との奇妙な関係

2016-04-25 01:12:29 | 日記
中国の全国宗教工作会議が22~23日、北京で行われ、習近平総書記が重要演説を行った。毎年行われている会議だが、トップの出席は異例である。「中国の夢」というスローガンを掲げて国内の団結を呼びかける習近平は、宗教団体への指導も強化し、「祖国を熱愛し、人民を熱愛し、祖国統一と中華民族の大団結を守るとともに、国家の最高利益と中華民族全体の利益に服すること」を求めた。

だが宗教組織を指導はできても、個人の心にある信仰を統制するのは不可能だ。無神論の立場に立つ中国共産党は、共産主義以外の信仰を認めず、入党の際にはその旨を宣誓しなければならない。だが実際、イスラム教を信仰するウイグル族やチベット仏教を信仰するチベット族の党員は、表向きは無神論を装っても、内面まで厳しく取り締まられることはない。漢族の党幹部が正月などに、寺院を参拝するのももはや珍しくない。

地味な宗教会議のニュースが目に留まったのは、数日前、国務院台湾弁公室の元副主任、龔清概が規律違反で摘発された際の事由に、経済問題のほか「長期間にわたる迷信活動」が加わっていたためだ。同内容の規律違反は、昨年12月、寧夏回族自治区副主席の白雪山や広東省副省長の劉志庚らに次いで4人目だ。習近平体制下では、党中央への服従などについての規律強化が重視されているが、新たに「迷信」禁止が加えられていることを物語る。

迷信活動の詳細は明らかにされていないが、中国メディアがその一端を報じている。



龔清概については、風水に随った都市建設や自らをイメージして舵を取る船乗りの巨大なオブジェを作ったことなどが問われた。また白雪山は、風水の占いによって噴水を3回も作り替えたり、政府庁舎前の広場に巨大な青銅の鼎を作らせたりした。いずれも公費の私的流用である。自分の栄達のため縁起を担ぐという心理だが、度が過ぎている。はたから見ればバカバカしいが、実はこうしたケースは少なくない。

有名な例では失脚した薄熙来元重慶市党委書記が大連市長時代、風水が悪いとの理由で、市庁舎前にあったソ連軍記念塔を移転させるなどの浪費プロジェクトを行った。こうした恣意的な行政を香港誌の匿名記事で批判した香港『文匯報』の元東北代表、姜維平は国家秘密漏えいと政権転覆扇動の罪で投獄された。風水は権力欲の強い官僚にとって、藁をもすがる対象なのである。

無神論に建つ共産党政権下ではそもそも、伝統的な民間宗教をとかく迷信として排除する傾向を持つ。特に文化大革命時代、あらゆる宗教は階級闘争の中で破壊され、「迷信」のレッテルによって排撃された。改革開放後、急速な経済成長で拝金主義が蔓延する中、道徳の荒廃が信仰の危機を生み、宗教の復活を促す現象に結びついている。中国の企業家が風水に頼ってビルを建てるケースも多い。縁起を担ぐのは人間の心理である以上、これらすべてを迷信の復活として退けるのは適当でない。

だが、道徳観のマヒした腐敗官僚の心理はいかなるものか。三代かかっても使い切れないほどの蓄財を重ねたところで、心の安静は保つことができない。それどころか、悪事の発覚を恐れますます不安に陥る。共産主義への信仰などとうの昔に忘れている。行き着くところが「迷信」だとすれば、党の危機的状況を物語っていることになる。

迷信を規律違反とする党の方針は、社会全体に広がる信仰の危機と無縁ではないだろう。中国にとっての腐敗問題は、単に経済問題だけでなく、社会問題、根の深い文化の問題でもある。伝統文化の保護を強調する習近平にとっては、党が迷信と呼ぶものも含め、民間の底流に流れる素朴な信仰と向き合う試練ともなる。「迷信」の拡大解釈は許されない。

直接接し、現場に身を置いてこそ国境を超えた価値が見えてくる

2016-04-24 12:23:03 | 日記
NPO法人日中独創メディアと日中の未来を考える会が共催する孫文生誕150周年記念講演会が23日、東京・京橋のイトーキ「SYNQA」で行われ、日中関係に関心を持つ約100人が参加した。歴史上の人物を取り上げ、日中のかかわりを再考する講演会としては昨年11月の胡耀邦生誕100周年記念講演会に続き2回目となる。

講演会では、多額の資金援助によって孫文(1866~1925)の革命事業を支援した梅屋庄吉(1868~1934)と、北京でキリスト教宣教師、そしてジャーナリストとして活躍した桜美林学園創設者の清水安三(1891~1988)を取り上げた。それぞれ梅屋庄吉のひ孫、小坂文乃さん、桜美林大学教授の高井潔司さんにスピーカーを務めて頂いた。



孫文の歴史的評価を論ずる場ではなく、孫文と直接、間接にかかわった日本人を通じ、国境を超えた人間のつながり、相互理解のあり方を語る場とするのが趣旨だった。

孫文は革命に身を投じた30年のうち三分の一を日本で過ごし、多くの日本人とかかわった。日本には政治的に孫文を利用する者も少なくなかったが、梅屋庄吉はもっぱら国境を超えた人間としての共感から陰徳を積んだ。遺言で孫文との盟友関係を口外することを禁じたが、日中国交正常化後、徐々に光が当たり、今春からは中学校社会科の教科書にも紹介されるようになった。小坂さんからは、中国でも孫文と梅屋の関係を教科書で紹介する動きが出ているとの最新情報が紹介された。

清水安三は、孫文と面識はなかったが、李大、魯迅、胡適ら当時の言論界をリードしていた第一線の人物と交わり、中国社会の現実に根差した論評を貫いた。日本の大新聞が掲げるステレオタイプな中国観を排し、民衆の声に耳を傾けながら「中国は広さと長さに悩んでいる」と語った。清水についての研究はあまり行われておらず、高井さんの今回の講演は一般にその存在を伝える第一歩となるものだった。

質疑の中では、孫文のマイナス評価についての見解を求めるものもあったが、小坂さんは「梅屋は、孫文が正しいと思うことをすればよいと支援をした」と、個人に対する全幅の信頼を置いていたことを強調した。高井さんは、清水が孫文の民族主義的言説には批判的であったことを指摘し、清水が是々非々の立場で孫文を論じた末、「孫文には思想もあり、見識もあり、主義もあり、国民的な人気がある。孫文の三民主義はいずれの日にかだれかの手によって実現される」と書いた、と述べた。

1人の歴史的人物を、無条件に神格化すべきではないが、ある特定の側面をあげつらって是非を論じることも建設的ではない。人間の視点からとらえなおしてこそ、後世に伝えるべき価値があると考える。中国の命運を担った革命家に対し、梅屋、清水がどのように対したか。その視点を大事にしたい。現代に最も求められていることだと思う。