映画『スポットライト 世紀のスクープ』の感想に作品中のセリを書いたコメントを頂いた。私も目に留まった言葉だった。共感し、血が騒ぎ、心が震えた。
「私たちはよく自分が暗闇の中で手探りをしながら歩いていることを忘れてしまう。いきなりライトに照らされたとき、間違った道を進んでいたことにはたと気づくのだ」
(Sometimes it's easy to forget that we spend most of our times stumbling around the dark. suddenly a light gets turns on and there is a fair-share blame to go around.)
マイアミからやってきたボストン・グローブ紙の新任局長、マーティ・バロンが、部下たちに報道の意義を語る。教会の圧力は強い。取材の壁は高い。だが伝えるべきことがある。信念を揺るがせてはならない。そんなプロフェッショナルの悩みと気概が込められた言葉だ。
バロンが赴任した当初、スタッフたちはみな、彼が経費削減のために送り込まれたよそ者だと思っていた。だが実施は正反対。真実を伝える正義を貫こうとする硬骨漢だった。なにしろ最初の編集会議で教会の疑惑を掘り下げて取材するよう指示するのだから。教会の権威、権力に慣れ切ってしまった現地育ちの記者たちは度肝を抜かれる。
現在、日本の新聞社にこうした責任者を見つけるのは至難だろう。いかに自分がリスクを取らずに責任を回避し、部下のあらを探すことばかりに熱心な上司が多い。暗闇を手探りで歩いているという自覚よりも、可能な限り灯りのついた大通りを歩こうと努める。これでは薄暗い裏道に隠れている社会の真実は見過ごされてしまう。庶民感覚からの遊離はこうして生まれる。記者がハイヤーの中からばかり街を見て、路地裏を歩かなくなったらおしまいだ。失敗を恐れない勇気は、暗闇を手探りで歩いているという自覚の中から生まれるのではないか。
インターネットは確かに便利である。有効に用いることで、迅速に、簡便に様々な情報に接することができる。だが真実は人の口から語られるものであるという原点を忘れてはならない。だから人に会わなくてはならない。目を見て、表情を感じ取って、言葉の裏に隠れた意味まで読み取ることができるほど、じっくり時間をともにする。これを厭っては、真実にたどり着くことができない。
同作品でも、児童性的虐待の容疑が持たれる神父90人のリストが出てくるが、それが正しいかどうかを確認したのは教会側の弁護士だ。デスクが友人であるその弁護士を訪ね、「正義の側に立て」とラストチャンスの確認作業を求める。弁護士は守秘義務を繰り返し、「出ていけ」と寒空に追い返すが、デスクが外に出ると追いかけてくる。そして黙ったままリストを取り上げ、全員の名前に○をつける。リストが正しいことの明確な返事だ。この2人の人間関係でしか成り立ちえない確認作業である。
こうした微妙なやり取りをできない記者が減っているのは、あるいはこうしたやり取りを認めなくなっている新聞社の体質にも問題があるのではないか。「弁護士から『これで間違いありません』と一筆を取ってこい」と言い出しかねない上司が実際にいる。悲しいことにこれが偽らざる現実なのだ。
「私たちはよく自分が暗闇の中で手探りをしながら歩いていることを忘れてしまう。いきなりライトに照らされたとき、間違った道を進んでいたことにはたと気づくのだ」
(Sometimes it's easy to forget that we spend most of our times stumbling around the dark. suddenly a light gets turns on and there is a fair-share blame to go around.)
マイアミからやってきたボストン・グローブ紙の新任局長、マーティ・バロンが、部下たちに報道の意義を語る。教会の圧力は強い。取材の壁は高い。だが伝えるべきことがある。信念を揺るがせてはならない。そんなプロフェッショナルの悩みと気概が込められた言葉だ。
バロンが赴任した当初、スタッフたちはみな、彼が経費削減のために送り込まれたよそ者だと思っていた。だが実施は正反対。真実を伝える正義を貫こうとする硬骨漢だった。なにしろ最初の編集会議で教会の疑惑を掘り下げて取材するよう指示するのだから。教会の権威、権力に慣れ切ってしまった現地育ちの記者たちは度肝を抜かれる。
現在、日本の新聞社にこうした責任者を見つけるのは至難だろう。いかに自分がリスクを取らずに責任を回避し、部下のあらを探すことばかりに熱心な上司が多い。暗闇を手探りで歩いているという自覚よりも、可能な限り灯りのついた大通りを歩こうと努める。これでは薄暗い裏道に隠れている社会の真実は見過ごされてしまう。庶民感覚からの遊離はこうして生まれる。記者がハイヤーの中からばかり街を見て、路地裏を歩かなくなったらおしまいだ。失敗を恐れない勇気は、暗闇を手探りで歩いているという自覚の中から生まれるのではないか。
インターネットは確かに便利である。有効に用いることで、迅速に、簡便に様々な情報に接することができる。だが真実は人の口から語られるものであるという原点を忘れてはならない。だから人に会わなくてはならない。目を見て、表情を感じ取って、言葉の裏に隠れた意味まで読み取ることができるほど、じっくり時間をともにする。これを厭っては、真実にたどり着くことができない。
同作品でも、児童性的虐待の容疑が持たれる神父90人のリストが出てくるが、それが正しいかどうかを確認したのは教会側の弁護士だ。デスクが友人であるその弁護士を訪ね、「正義の側に立て」とラストチャンスの確認作業を求める。弁護士は守秘義務を繰り返し、「出ていけ」と寒空に追い返すが、デスクが外に出ると追いかけてくる。そして黙ったままリストを取り上げ、全員の名前に○をつける。リストが正しいことの明確な返事だ。この2人の人間関係でしか成り立ちえない確認作業である。
こうした微妙なやり取りをできない記者が減っているのは、あるいはこうしたやり取りを認めなくなっている新聞社の体質にも問題があるのではないか。「弁護士から『これで間違いありません』と一筆を取ってこい」と言い出しかねない上司が実際にいる。悲しいことにこれが偽らざる現実なのだ。