行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

徐福伝説に夢を見続ける中国の老記者㊤

2018-01-31 22:06:30 | 日記
日本国際貿易促進協会が発行する週刊紙『国際貿易』の1月30日号に、「私と徐福」と題する連載記事の第一回目が掲載された。私が仲介役を務めたので感慨深い。編集部の方々に感謝申し上げたい。





作者は、中国の改革開放初期、人民日報の東京特派員を務めた張雲方氏。日中の濃密な関係を間近に体験し、同紙を離れた後、谷牧副総理(当時)が主宰する国務院中日経済知識交流会秘書長に任命され、その後は国務院の発展研究センターに籍を置いた。現在は中国徐福研究会の会長である。

徐福については、若干の説明が必要かもしれない。秦の始皇帝が、不老長寿の薬を求め、3000人の若者と技術者を東海の地に送ったとの歴史的記述があり、徐福はその中の一人だった。歴史的事実として確定はしていないが、日本や韓国の各地には、徐福にまつわる神社や伝承が多く残されている。

以下は、作者が私に送ってきた原稿を三分割した初回分である。

『私と徐福』㊤ 中国徐福会会長 張雲方

私は韓国に生まれ、原籍は山東だった。子供のとき食卓の語り草として父母が語って聞かせる徐福の伝説や説話に飽きずに聞きほれたが、これは自分が物心ついたころの徐福との出会いだった。徐福を敬慕したのはその時からだった。両親が教えてくれた徐福の知識は驚くほど正確で、いまだ、こと徐福に関する研究で彼らが与えてくれた啓蒙を超えるものはなく、彼らは学者だったと思えるほどだ!

本格的に徐福に触れたのは、《人民日報》の日本駐在特派員を務めた20世紀70年代初頭だった。76年初春のある日、出版社の専務理事である友人の沖由也さんからお茶にお呼ばれし、ご著書『日本ピラミッドの謎』を頂いた。長年の研鑽の賜物である248ページほどの同著には、太古から今日まで歴史を俯瞰する優れた論述で溢れていた。日本古墳の前方後円説から説き起こし、中国の天円地方と日本古墳の前方後円形との内的関連を論証してみせた。沖先生はふと、「この伝承はいつから始まったのだろう」、と私に問いかけた。言葉に詰まった私をよそに、「徐福だったかも知れない」と言葉をつなぎ、そして、ご自分の考えを熱く語った。それに耳を傾け、歴史の饗宴をただで堪能させてもらった私だった。

1977年、沖先生のもう一冊の訳著——『神武天皇——徐福伝説の謎』が出版され、本の贈呈と同時に、日本古墳形成の謎はそろそろ論拠が出てくる頃だろう、と愉快そうに語られた。この本は徐福研究の大家衛挺生さんの力作で、私が初めて専門著述で徐福に接したこともあり、自分のこれまでの常識が揺さぶられるほど大きな衝突を受けた。

1978年秋たけなわのころ、鄧小平先生が訪日し、中日和平友好条約の交換公文の調印式に臨んだ。東京から関西訪問に向かう前日、東京日本記者クラブで記者会見を行った。席上、鄧小平先生は次のように述べた。「日本には古くから不老長寿の薬があると言われてきたが、私が来たのもそれを手に入れるためです。不老長寿の薬はないかもしれないが、日本の先進技術を是非持ち帰りたいと思っている」という。これは中国が改革開放、経済発展を鋭意進めるうえで名言になった。記者会見の場に立ち合った私は、徐福の中日両国の歴史における重みを改めてかみ締めた。日本政府から鄧小平先生に不老長寿の薬と銘打った植物——天台烏薬が贈られたのは、この時の訪日だった。

1980年、三期務めた特派員の生活にピリオドを打ち帰国する前に、弘瀬裕、沖由也、皆川郁夫、内藤進等20人近くの日本の友人は、東京ヒルトンホテルで送別会を開いてくれた。宴会を終えると、みんなが寄せ書きをしてくれた。沖先生のメッセージは「自称徐福子孫」だった。いつまでも脳裏に刻まれる言葉だった。(続)


(作者提供)



【期末雑感】今年の取材ツアーは北海道へ

2018-01-24 16:34:01 | 日記
学内の試験はほぼ終了し、スーツケースを引いて帰省する学生の姿が目立つ。連日、20度を超える亜熱帯地域に暮らしていると、東京の大雪ニュースがはるか遠くに感じられる。一年を通じて絶えないバウヒニア(洋紫荊)が濃いピンクの花をつけている。





ちょうど1年前、この時期は3~4月にかけての九州環境問題取材ツアーに向け、ビザ申請や取材計画の立案に追われていた。昨年の春節は学生の姿が消えた学内の宿舎で過ごしたことを思い出す。

取材チームは面接で選んだ女子学生6人で、彼女たちが相談して決めたチーム名が「新緑」だった。日本ではなじみの深い言葉だが、中国ではむしろ唐宋代の詩に用いられ、現代用語としてはあまり使われない。日本では夏の季語だが、中国では早春の言葉だ。取材時期にぴったり合っていた。みなは桜を楽しみにしていたが、あいにくの低気温で満開には待ちぼうけを食わされた。ちょうど福岡を離れる日、世話しをてくれた九州市立大学中国語専攻の日本人学生が、小倉城公園の鮮やかな花見風景を送ってくれた。

思い出がたくさん詰まった初回日本取材ツアーなので、「新緑」のチーム名は今後も継承することにした。2018年は2回目となる北海道ツアーを計画し、昨日から学生への公募を開始した。時期は5月末から6月初めの予定なので、日本の「新緑」時期にふさわしい。春節休暇中に申請書類を提出し、3月からの春季学期、書類審査を通過した者を対象に面接をして選抜する。文章が上手な学生、写真・映像が得意な学生、リーダーシップを取れる学生など、多様な特性を集めたチーム作りをする。記事や映像は通常の報道記事レベルを目指し、実際、権威ある雑誌や映像サイトに投稿する。

中国の学生は自己主張が強い分、譲り合いや協力が求められる集団行動は苦手だ。中国語ではチームワークを「団隊精神」という。応募の基準には、一にやる気、二に団隊精神、三に平素の授業態度、そして最後に「一定の技能」を加えた。さっそく、「費用はどうなるのか」「日本語の力は必要か」と質問が寄せられた。中には「私は幼少から日本文化のファンで、絶対このチャンスをつかみたい」と訴えるメールを送ってる女子学生や、逆にグループチャットで「授業をさぼらなければよかったと後悔している」とぼやく男子学生がいる。費用は大学が負担し、日本語通訳は私が担当し、必要に応じ現地の中国人留学生を探すので心配ない。学生が取材に専念できるよう、お膳立てを周到にするのが、引率者である日本人教師の役割となる。

心ゆくまで、日本、北海道を歩き、知ってほしいと思う。単なる交流や視察ではなく、本格的な取材なので、一般の旅行者とは違った面が見られるに違いない。取材ツアーのメリットはそこにある。大学予算でこうした事業を行っている大学は、中国でもほかに聞いたことがない。他大学の教師が学術会議などで私たちの大学を訪れた際、決まってうらやましいと感想を述べる。日中の青年交流にとっても、得難い貴重な機会だと考える。閉じこもりがちな日本の学生に少しでも刺激を与えられればとも思う。

明日、学校を離れ、上海を経由して一時帰国する。東京では、新学期の準備のため図書館通いが始まる。想像もつかない寒さが待っているのだろうが、残雪の下で、新緑の準備もすでに始まっているに違いない。考え事をするときに立ち寄る湖に別れを告げ、しばし大学を留守にする。


【期末雑感】”楽趣”という言葉のニュアンス

2018-01-21 08:12:45 | 日記
授業中、私はしばしば「興趣(xingqu)」からスタートし、「楽趣(lequ)」を見出すようにと学生に伝える。「興趣」は日本語でほぼ「興味」と同意だが、「楽趣」となるとぴったりくる言葉が見つからない。興味の先にある「楽しみ」と訳すしかない。単位取得のためいやいや勉強しても身につかない。自分の興味を大切にし、そこに楽しみを見出せば、学びの効果は高まる。『論語』には「これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好むものは、これを楽しむ者にしかず」とある。

「楽」は中国において古代より最も重んじられる文化だった。礼楽とは、礼の社会規範によって人を導き、音楽が人の心を整え、理想的な世界を築く教えだ。儒書『礼記』には、「礼は民心を節し、楽は民声を和す」、「仁は楽に近く、義は礼に近し」、「楽は徳の華なり」の言葉がある。

人の心を明るくし、平和な気持ちを起こさせることから、「楽しみ」の意味に広がっていった。陶淵明の『桃花源記』は「怡然として自ら楽しむ」とあり、李白は『月下独酌』で「行楽はすべからく春に及ぶべし」と詠んだ。世間の塵埃から逃れ、ゆったりと、心が解き放たれた心境だ。

「音楽」の楽しみにちなんで、いつも最終授業には日本の歌を披露する。前学期はキロロの『未来へ』を、今学期は中島みゆきの『糸』を歌った。糸で結ばれたようなお互いの縁を大事にしたいとの願いを込めた。漢字の「縁」も糸へんである。中国の学生には伝わりやすい。音楽も共有することで楽しみになる。ギターが趣味の男子学生が伴奏してくれた。



ほんとんどの学生にとっては初めて聞く曲だったが、歌詞が気に入られ、その後、何人もから大好きな曲の一つになったとメールが届いた。私はローマ字を振って歌詞を説明したのだが、そのローマ字読みを全部暗記したという女子学生もいた。『糸』がきっかけで中島みゆきのファンになり、その他多数の曲を毎日聞いているという女子学生もいる。特に、現在の専攻や将来の進路について悩みを抱える学生たちには、以下のくだりが心に響くようだ。

なぜ 生きてゆくのかを
迷った日の跡の ささくれ
夢追いかけ走って
ころんだ日の跡の ささくれ

こんな糸が なんになるの
心許なくて ふるえてた風の中

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かの
傷をかばうかもしれない

また、「先生から心の力をもらいました」と言って、山本容子の代表曲『心の力』をチャットで送ってきてくれた学生もいた。恥ずかしながら、私は聞いたことがなかった。とても私の手に負える曲ではないが、素晴らしい歌詞なので、以下に紹介したい。

君と過ごした時間より もっと大切なことがある
 それは勇気をくれた君のしぐさ 忘れないよ

君と過ごした時間より もっと大切なことがある
それは元気になれた君の笑顔 憶えてるから

君と歩んだ道のりは 決してやさしいものじゃない
だけど「心のちから」教えてくれた きっと大事な宝物

思い出も痛みも全て引き受けて 私は強くなって
 君といた時間を 輝く 輝く 時間にしたいから 歩き出す

君の歩んだ道のりは 決して短い道じゃない
だからいつも一緒と心の中  約束するんだね

思い出も痛みも全て引き受けて 私は強くなって
 君と見た場面を 輝く 輝く 星に映し出す いつの日も

君と歩んだ道のりは 決してやさしいものじゃない
だけど「心のちから」教えてくれた きっと大事な宝物

思い出も痛みも全て引き受けて 私は強くなって
 君といた時間を 輝く 輝く 時間にしたいから 

永遠に咲く 花のように

【期末雑感】日本人教師の作るカレーライス

2018-01-19 10:58:12 | 日記
汕頭大学に来て計三学期、1年半がたった。最初はもっぱら食堂や周辺のレストランで食事をしていたが、落ち着き始めた二学期目から、時間のある時は市場で食材を買い求め、自炊するようになった。とはいっても大したものが作れるわけではない。炒め物か生野菜がほとんどになる。2LDKの宿舎に学生を集めてパーティーを開くようにもなった。私が作るのは決まって、大勢に振る舞えるカレーライスだ。学生たちはそれぞれ故郷の料理を披露してくれる。一人っ子として大事に育てられた学生が多いので、家ではほとんど家事を手伝った経験がない。あわてて母親に作り方を聞いたり、携帯でレシピを検索しながら料理したりする。私はそれを楽しみながら見ている。

宿舎でのパーティーはもう10回以上になる。学生はすぐに写真を携帯で流すので、私のカレーライスはいつの間にか学部中に知れ渡ってしまった。かなり好評のようだ。日本製カレー文化もすでに幅広く浸透していて、みながすんなり受け入れてくれる。







私は早朝、学生と一緒に買い出しをする。市場では野菜も肉も、いつも同じ店に寄るので、すっかりなじみになっている。鶏肉のモモ二つをその場で大きく切ってもらい、ムネ肉も三切れほど足す。中国では骨付きで料理した方が喜ばれる。リンゴのすりおろしやトマト、ワインをふんだんに入れる。半日煮込んで夕食に出す。各自が持ち寄った料理を合わせると、大変なごちそうがそろう。場所も狭く、家具や食器も限られているが、学生たちの熱気が場を盛り上げてくれる。











男子学生が少なく、酒の相手がいないのを寂しく思うときがあるが、無理は言えない。学生たちが楽しんでくれればそれでよい。それぞれ異なった環境で育ち、多くの複雑な思いを胸に寄宿生活を送る学生たちだ。勉強の悩みや将来への不安、個人的な問題、少しでも共有できる場を設けられればと思う。

授業をさぼってばかりいる4年男子学生がいた。宿題も提出しない。言い訳をする。ひどいときにはウソもつく。同級生との関係も悪く、疎んじられる存在だった。果たして卒業できるのか、卒業させるべきなのか、学部内でも問題になっていた。

私が赴任したばかりの時、彼は三年生で、私の授業を取っていた。私がある日、ネットの接続が不具合で、パソコンを抱えて学内のネット管理センターに出かけた。途中、彼が私を見つけ、声をかけてきた。男子学生は少ないので、私はすぐに彼がクラスの生徒だとわかった。すると彼は私に付き添ってセンターまで来て、問題を解決してくれた。その印象があるので、私は彼が根っから腐っているわけではないと思っていた。

その彼が、私を訪ね、卒業作品の指導をしてほしいと頼みに来た。四年間の集大成として、長編の記事を書きたいのだという。他の先生から断られ、やむなく外国人教師の私を頼ってきたのだ。私は受け入れたが、その前に、自分がしてきたことをしっかり振り返り、初心にかえってやり直すつもりで励むよう求めた。彼との話は昼食時、私の部屋でした。まず、私の作ったカレーをごちうそうした。彼は「うれしいです」と言って、おいしそうに食べた。お代わりまでした。

私たちは、卒業作品の問題を離れ、お互いのプライベートを語り合った。彼の不安定な心理状態、不可解な言動の根が、どうやら複雑な生い立ちにあるようだと感じた。彼に足りないのは、人から愛されること、人から関心を持たれることなのかも知れない。そこで私は言った。「このカレーには先生のたくさんの感情が込められているんだよ。夕べから煮込んだのだから」。彼は目に涙を浮かべ、うつむきながらスプーンでカレーを頬張った。きっと彼は大丈夫だと、確信が持てた。愛情の詰まったカレーライスの効用は、捨てたものではないかも知れない。自炊も悪くない。

【期末雑感】江歌事件を分析した学生の発表

2018-01-18 09:02:04 | 日記
昨年末、一審で懲役20年の判決が言い渡された中国人留学生の殺害事件「江歌案(江歌事件)」は、加害者、被害者とも大学院生で、かつ被害者の母親が訪日し、死刑を求める署名を行ったことで注目を集めた。その注目度は中国が日本をはるかにしのいだ。中国では新聞やテレビの情報発信力は急速に衰え、もっぱらネットで情報や議論が拡散していく。交通整理が十分に行われないまま、ヒートアップしていく。そんなネット世論の状況を、クラスの女子学生が研究課題として取り上げ、発表した。







事件は2016年11月3日に起きた。東京都中野区のアパートで、大学院生の江歌が、同居していた同郷山東省出身の友人、劉鑫の交際相手だった大学院生の陳世峰に刃物で刺殺された。友人の男女関係のトラブルに巻き込まれた形だった。裁判では計画性と明確な殺意が大きな焦点となった。だがネットでは、巻き添えを食ったことへの同情と、シングルマザーである江歌の母親が各種のメディアを通じ、劉鑫の責任や陳世峰への極刑を求める発言を繰り返したことで、事件の真相よりも、道徳論で塗りつぶされた。

授業の自由研究は、「各媒体報道的傾向性対読者的影響--以江歌案為例(メディア報道の傾向性が読者に与える影響--江歌事件を例として)」と題して、法律と道徳、理性と感情の対立軸によって世論の動向とメディアの影響を分析したものだった。

事件をめぐる議論は発生から1年後の2017年11月11日、江歌の母親と劉鑫が対面した映像が流れたことで再び沸騰した。それまで劉鑫が母親を避け、チャット上で母親が彼女を罵り、彼女もそれに反論するという対立、衝突状態だった。映像には「和解できるか?許せるか?」のタイトルがつけられ、読者の目を引いた。忘れかけていた事件の記憶がよみがえり、ニュースメディアは競うように新奇な話題に飛びついた。対面では、劉鑫が、江歌の持っていたアクセサリーや写真を母親に返し、ひたすら謝罪した。だが、母親は受け入れず、それどころか逆に感情を高ぶらせ、最後は「私から離れてくれ」と繰り返した。和解も許しも実現しないまま、物別れに終わった。



ネット世論は母親の側に傾き、劉鑫への道徳的な批判を蒸し返した。女子学生の自由研究は、500万人のフォロワーを持つウェー・チャットの人気アカウントが、劉鑫の言葉を曲解し、意図的に彼女の傲慢なイメージを作り出し、感情的な世論を刺激した点を、実例を挙げて指摘した。そのアカウントが導火線となって、不満のはけ口を求めるように激しい個人攻撃の書き込みがあふれた。事件への関心は、法律で裁かれるべき本来の殺人事件から離れ、別に設けられた道徳裁きの土俵に移された。加害者に向けられるべき非難は、友人を犠牲にした女性の身の上に容赦なく注がれた。

自由研究は同時に、北京紙『新京報』系のアカウントが、事実を重んじ、道徳と法律を区別するよう求める理性的な立場を表明し、一部の賛同を得たことも指摘した。「感情が理性を圧倒することによって、ネット上でデマや偏った見解が横行し、ネット暴力を生む大きな原因になっている」と、同アカウントは呼び掛けた。被害者の母親だけが絶対的な正義の一方に立ち、何らの反論も許さない道徳的状況が生まれていることに警鐘を鳴らしたものだ。ネットではこのほか、「陳世峰のことは法律に、劉鑫のことは時間にゆだねるべきだ」とする論評もあった。

学生は発表のまとめとして、報道においては、事実と観点を明確に分けること、煽情的な表現は慎むこと、受け手も冷静な視点でニュースを見る修養が必要なことを述べた。それは模範解答なのだが、では具体的にどうすればよいのか。簡単に答えの出る問題ではない。感情に流される群衆と、理性的な人々が別々に存在しているわけではない。一人の人間の中に、この二つの顔が潜んでいる。教育からメディア、司法に至るまで、社会全体が取り組まなければならない。新聞学院の学生としてなにができるか。あきらめずに関心を持ち続け、多角的な視点をもって事象を追いかけるしかない。

判決は、残忍で執拗な犯行の手口から、「強固な殺意があった」と認め、「被害者や元交際相手に責任を転嫁するような不合理な弁解をし、真摯な反省の情は認められない」と求刑通りの懲役20年を言い渡した。クラスで私が「量刑としては重い方だ」というと、みなが「えーっ」と驚いた。中国では間違いなく死刑だ。この点も、母親に同情が集まる要因の一つになっている。死刑を求める署名が数百万人分も集まったのもそのためだ。

そこで私は考える。

加害者、被害者、関係者すべてが中国人で、場所が日本であっただけの事件を、日本の法律によって、日本人の法観念によって裁くことに限界があるのではないか。その限界は、両国における法制度、法意識の違いから生まれている。制度の修正が困難だとすれば、せめてお互いが違いを認識し、尊重するしかない。それはまた自らを省みることにほかならない。もし、同じ事件が中国で起きていたら、加害者の陳世峰は圧倒的な世論の力を受け、短期間のうちに死刑に処され、劉鑫は完膚なきまで打ちのめされていただろう。国の法制度の違いが、世論に冷静な反省を求める機会を生んだのだとしたら、日本で厳格な手続きを進めたことは限界でなく、大きな意義を持ったことになる。