行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国式豆まきは半端じゃない!

2018-02-27 08:32:56 | 日記
先日紹介した同僚の先生、凌学敏老師がまたまた春節の風景を送ってきてくれた。

春節の9日目、広東省普寧市の平林村で行われる「搶地豆」。潮汕語で「地豆」は落花生を指す。直訳すれば「落花生の奪い合い」祭りだ。日本の節分の豆まきを想像すればいい。落花生は子だくさんにつながる。男子に恵まれるようにとの願いを込め、自宅の二階から下にいる慣習に向けて落花生を勢いよく投げる。下では人々が傘をさかさまに広げて受け取り、演技の分け前にあずかる。

















多い家では3キロの落花生を用意する。先祖の廟に備えた後、一斉に撒き始める。下からは「地豆を分けて!」「地豆を分けて!」と掛け声が上がる。宗族文化が根強く、あくまでも男子の誕生こそが一家の誉れなのだ。今風に言えば男尊女卑だが、文化そのものを一概に否定するのは避けたい。時代の流れを受けながら、いずれ少しずつ変質していくものなのだろう。文化大革命という名の嵐を経て、生き延びた伝統文化がある。根っこを抜き去らないよう、生きた文化が受け継がれることを望みたい。

最後に、豊かな春節の風景を送ってくれた凌学敏老師に重ねて感謝する。

中国メディア実習生の募集広告にびっくり!

2018-02-26 23:39:14 | 日記
ちょうど1年前、このブログで「中国のネットでとんでもなく流行っている『吐糟(tuzao 突っ込み)』と題する文章を書いた。
(2017-03-01日記)ttp://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/133fd6299ebf074f8997a72d7e123a15

ネットで休息に広まっている流行語「吐糟(槽)」を紹介したものだ。「吐」は吐くことで、「糟」は日本と同じ酒かすの意味のほか、よくない物事に対して用いる。直訳すれば、「腹にたまったものを吐き出す」ということで、ある事件、事柄、人物の言動などあらゆる社会現象に対し、不満や中傷、批判、揶揄、風刺などを書き込むことを意味する。語源は、日本の漫才で使われる「突っ込み」から来ている。

4年生の卒業を前に、企業での実習が始まる。企業実習は、大学の必修科目であると同時に、そのまま就職のチャンスをつかむ貴重な機会である。実習先は大都市に集中するので、学生たちは下宿探しから始めなければならない。ひと足早く住まいを探し、もう住み始めている学生もいる。家賃が高いので、狭い部屋でも文句は言えない。

先日、実習生募集の広告を見ていて、興味深い表現を見つけた。お堅い新聞社がなんと「吐糟」の表現を使っていたので、大いに驚いた。



広東省を拠点とする新メディアの運営スタッフ募集で、条件は上から、

①広東語が堪能または話せる。
②SNS中毒者、ネット狂、ネットの話題通。
③自分の観点を持ち、「高級吐糟技能証書」を持っているもの。
④文章を書くのが好きで、日常的に書いているものを優先。
⑤3か月以上、1週間に4日以上出勤できること。
⑥大学4年、メディア、文学部専攻を優先。

と書かれている。「高級吐糟技能証書」といってもそんな証明書があるわけではない。気の利いた、鋭い、説得力のあるコメントを書き込める能力を言っていることは、学生たちにはすぐわかる。いつの間にか「吐糟」が公式メディアに公認され、「高級」「技能」と修飾語がつくほどにまで市民権を得ている。テンポの速さが現代用語にも表れているのは、文字の国にいて実に興味深い。

最後に、「当然重要なのは」として赤文字で「脳洞 naodong」とある。これもネット用語で、脳の洞、つまり想像力や創造力を求めている。人工知能(AI)が注目され、人間の脳の研究が急速に進む中、「脳」を用いた造語もますます増えるに違いない。造語をつかさどる脳の部位まで活性化していると想像するだけで、ワクワクしてくるではないか。

なお、比較的くだけたネットメディアの実習広告には、最後にこんな画像も添付されている。



学生たちの気を引くために、メディアも必死なのだろう。

中国の春節は静かになったというけれど・・・

2018-02-26 11:15:29 | 日記
中国の春節休暇が終わった。みんなが年々、春節が静かになっていくというけれど、同僚の先生から送られてきた写真は圧巻だった。彼の名は凌学敏(リン・シュエミン)。ミャンマーで育ち、台湾に移住し、日本で写真を学んだ。国際コンテストの受賞経験もある逸材だ。夫人が地元・汕頭の女性であることもあって、現地の風俗、習慣に詳しく、長年にわたって伝統文化を撮り続けている。

私も彼のおかげで、外からはうかがえない地元の表情に触れることができる。農村の宴席に呼ばれ、ブランデーをさんざん振る舞われたあげく、意識を失った武勇伝まである。

彼が、地元の春節を伝える写真を送ってくれた。驚く発見がいくつかあった。

中国ではすっかり廃れていると思っていた春節7日目の「七草がゆ」が、汕頭地区には残っていた。以前、授業で日本の七草がゆについて紹介した際も、学生たちはみな初耳だと言っていた。





中国式は、特定の七草ではなく、市場にある野菜をまとめて集めてくるという。十数種類になることもある。南方では春を迎えて野菜が多く出回る。その旬を楽しむのだ。健康もさることながら、みんなで食べれば気分もよくなる。そしてみんなにとって万事がうまくいきますように、との願いが込められる。家族で食を共にすることの尊さをみなが味わう。苦難をともに乗り越え、喜びを分かち合う。その味覚には数多くの記憶が刻まれるに違いない。

もう一つが、春節7日目から8日目にかけ、汕頭金平区の月浦社区で行われる「賀丁頭」だ。大学のすぐそばでこんな伝統儀式が行われているとは夢にも思わなかった。24歳男子の成長を祝う一種の通過儀礼で、大きなブタを祖先に捧げ、みなで分かち合う。明代から伝わる伝統だという。中国の成人は18歳だが、いよいよ一家の主となる男子を祝うのが「賀丁頭」なのだろう。男子が家督を継ぐ伝統が色濃く残っている。





大きなブタをさばき、耳にはイヤリングで装飾をし、口にはみかんを入れる。かつては24歳を迎える男子が自分で育てたブタを使っていたが、今はみな仕事で忙しいので、専門の養豚業者が用意する。祖先への報告が終わると、ブタを神輿にして、親族友人らが町中を駆け回る。







汕頭に隣接する掲陽市の塩城区磐東街道陽美村では春節5日目、かがり火を手に練り歩く「火把祭」が行われる。300年の歴史があり、2009年には国の無形文化財に登録されている。火に神意をみる文化である。





ここでも男子が神輿を担いで練り歩く儀式がある。潮汕地区の深い信仰を感じさせる。







日本に感謝しているという友人から届いた、素晴らしい春節のメッセージをありがたく思う。

寒風に咲く紅白の梅、そして春を待つ桜

2018-02-25 22:30:13 | 日記
納骨に出かけた霊園で梅を見つけた。まばらに、背の低い木が並んでいた。紅白の対比が、冬枯れの景色に鮮やかだった。寒風を受けながら花開く梅の精神を、中国の人々は愛した。日本人が愛する桜はまだ、かたいつぼみをつけている。だが、出番はもうすぐだ。







現実だとは言いながら、さよならだけが人生ではあまりにも切ない。地道に営みを繰り返す花たちは、いつも忘れずに姿を見せてくれる。まるで心を宿しているかのようで、愛おしい。

春節休みも終わり、間もなく新学期が始まる。ふるさとで家族と過ごした学生たちが、日記のように連日、便りを寄越してきた。母親の手作り料理、亡き父の墓参り、きょうだいたちとの再会・・・「先生のために家で作ったお酒を持って返ります」という学生もいる。みながふたたび、望郷の念に後ろ髪を引かれながら集まってくる。そして、新たな出会いも待っている。

「さようなら」と「再見」の違いについて

2018-02-19 11:00:57 | 日記
「ありがとう」が、あることを惜しみ、あるがままを受け入れる心情の表れであるように、「さようなら」もまた、運命を従容として引き受ける覚悟を背負っている。自己の卑小を自覚し、自然の流れに身をゆだねる無常観がある。「そうであるならば・・・」から生まれた「さようなら」は、余韻を引きずっている。向き合う者同士がそこに万感の思いを込める。ちょうど空白を残した絵のように、感情の電流を揺さぶる。

単独で史上初の大西洋無着陸横断飛行を行った米国の飛行家、チャールズ・リンドバーグの妻で、自身も飛行家である作家のアン・モロー・リンドバーグが『翼よ、北に』(中村妙子訳)で書いている。横浜を離れる際、目にした光景を描いたものだ。

---「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。Auf Wiedersehen や Au revoir や Till we meet againのように、別れの痛みを再会の希望によって紛らそうという試みを「サヨナラ」はしない。目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる Farewell のように、 別離の苦い味わいを避けてもいない。

---けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ--「サヨナラ」は。

訳も素晴らしい。中国語の「再見(また会いましょう)」は、「別れの痛みを再会の希望によって紛らそうという試み」ということになる。あくまでも楽観的だ。思い浮かぶのは、「さよなら」が背負う、「一期一会」という茶の精神だ。そこには惜しみがあり、天命に従う人の強さと弱さが共棲している。

太宰治が『グッド・バイ』の作者の言葉で書いている。

---唐詩選の五言絶句の中に、人生足別離の一句があり、私の或る先輩はこれを「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と訳した。まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい。

「或る先輩」とは井伏鱒二。名訳として知られる一節だ。もとの詩は唐代の詩人、于武陵が残した「勧酒(酒を勧む)」である。

勧君金屈巵 君に勧む金屈巵(きんくつし) ※「金屈巵」は高級な酒器で、客への敬意を意味する。
満酌不須辞 満酌辞すべからず
花発多風雨 花発(ひら)いて風雨多く
人生足別離 人生は別離に足る

井伏鱒二は、これを次のように訳した。

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

絶妙な訳であり、「花に嵐の例えもあるぞ さよならだけが人生だ」が人口に膾炙した。だがなぜ太宰は作品の名を、余韻のある「さよなら」ではなく、あえて「グッド・バイ」としたのか。現代性にこだわったのか。あるいは、もはや余白を残さない別離の淵に追いやられていたからなのか。

実は、中国では映画『花より男子』のラストシーンで、主人公が語る「さよならだけが人生だ」が知られている。中国訳の字幕はもちろん原作通り、「人生足別離」である。

原作の「勧酒」は、人生の苦境にある友人を慰め、励ますために酒を勧めている。くよくよせずに飲もうじゃないか、と言っている。花だって咲いても、雨風に散ってしまう。人生だってかくもはかない。出会いがあれば別れがある。人生は別れにあふれている。短い句の中に、感情と理屈とがぎっしり詰め込まれ、余韻がない。「別離」には、言葉少なに「手を握る暖かさ」が感じられない。

井伏鱒二の名訳は、「さよなら」の言葉が本来持つ余情によっているのかも知れない。