行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

すごく気になっていること・・・拘束された「人権派弁護士」の中に習近平父の元秘書

2015-08-11 13:35:15 | 日記
中国で7月、政府への陳情者を支援していた各地の弁護士グループ200人以上が相次ぎ拘束され、日本のメディアでもさかんに取り上げられた。これに対し7月11日の新華社通信は、彼らが陳情者を煽り、法廷外で裁判官や公安当局を攻撃する犯罪行為を企てたとする公安当局の見解を報じ、北京の鋒鋭弁護士事務所をその犯罪集団の主犯と認定した。同報道によると、同事務所が中心となって2012年7月から計40件余りの事件を組織し、社会秩序を著しく攪乱させたという。

同事務所の関係者複数が「犯行」の内幕を語り、知名度や義援金などの私的利益が目的だったことを自供している、と同報道は伝えたが、その中で目に留まったのが同弁護士事務所の黄力群弁護士だ。黄氏は同報道の中で、同事務所主任の周世鋒氏を徹底的に批判する人物として登場している。以下が黄氏の記事中コメントだ。

「周世鋒は案件を受任する際、代理費用の多寡のほか、騒ぎを起こす点があるかどうかを重視した。周世鋒は自らを弁護士界の宋江(水滸伝の主人公)だと言って、法や規則を守らない無頼の弁護士を集め、違法な手段で受任事件を騒ぎ立てた。彼は進んでこうした弁護士を丸め込み、金を渡し、大きなバックがいると思い込ませた」
「私は周世鋒に騙されたのだ。彼は私が以前、国家機関で働いていた身分を利用して自分の評価を高め、仕事を集めてきた。私は彼の広告塔と道具にされたのだ」

もし本当だとすれば、責任を上司に擦り付ける、随分勝手な言い分のように聞こえるが、実は、周氏と黄氏は北京大学法学部で修士課程を学んだ同級生だ。黄氏は1957年、北京生まれで、北京市第二中級人民法院勤務の後、長く全国人民代表大会の司法委員会に籍を置いた。陳情者を担当する全人代信訪問局副局長を最後に2013年、56歳で退官し、周氏に誘われ同弁護士事務所に入った。

官尊民卑が徹底している中国で、弁護士の地位は高くなく、副大臣クラスからの転身は異例だ。しかも陳情を裁く官の側から陳情者を支援する民の立場へ、180度の変身は当時のメディアで注目された。私が前回の中国訪問で、中国の法曹界関係者に聞いたところ、黄氏は全人代で習近平総書記の父、習仲勲の秘書をしていた、と自慢げに語っていたことがあるという。これは見過ごすことのできないポイントである。

確かに習仲勲は1980年、広東省から全人代副委員長に就任し、81から83年は司法委員会主任を務めた。昨年制定された「国家憲法日」は82年憲法の成立を記念したものだが、全人代全体会議で同憲法の可決を宣言したのは習仲勲である。同委員会にいた黄氏が秘書役を果たしていたとしても不思議はない。

黄氏の寝返りと、こうした彼の経歴に関連性があるのかどうか。ここからは、私のこれまでの習近平研究の成果に基づく推測である。

習仲勲の薫陶を受けた者であれば、その開明的、民主的な考え方の影響を受けたはずだ。この点、定年を早く切り上げ、陳情者を救う側に転身した黄弁護士の身上にはその痕跡がうかがえる。黄氏自身は、習仲勲の後ろ盾を頼りに、習近平政権下での優位を感じていただろう。弁護士事務所主任の周氏ら周囲は、黄氏の経歴をうまく守護神のように利用しようとした。そして若干、気持ちが大きくなり、行動が派手になった。政権の許容範囲を越えたところで、公安当局による人権派弁護士の弾圧が始まった。習仲勲の世話になった黄氏は、今度は息子の習近平氏にかつての恩を返すつもりで、いち早く当局側に身をひるがえした。

思い起こされるのは『炎光春秋』をめぐる当局とのつばぜり合いだ。習仲勲が支持した開明的な歴史月刊誌『炎黄春秋』も、当局から攻撃され存亡の危機を迎えたが、実力者である楊継縄編集長が身を引くことで折り合い、一応の存続は許された。

無関係に見える二つの出来事だが、どこか似た図式が感じられる。父親の習仲勲が残した開明的な事績と衝突し、苦悩する習近平の姿である。毛沢東にならった集権化、専制化を図る習近平氏にとってのアキレス腱とも言える。すでに合理的な推測の範囲を越えてしまっただろうか。引き続きウオッチする必要がある。