行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

世論(Public Opinion)は「衆議」・・・議論によって生まれるのだ

2016-10-30 22:28:38 | 日記
明日の授業は2年生の学生2人に、米政治学者リップマンの古典的メディア論『世論(PUBLIC OPINION 1922)』の研究発表をするよう伝えてある。中国では『公衆輿論』(上海人民出版社 閻克文・江紅訳)と訳されている。輿論の前にあえて公衆をつけたことについて、訳者前書きは「輿論の主体は公衆であり、輿論は常に公衆の輿論である」としか書いていないが、実に重要なポイントを押さえている。

リップマンは同著で、「人々の脳裏にあるもろもろのイメージ、つまり、頭の中に思い描く自分自身、他人、自分自身の要求、目的、関係のイメージが彼らの世論というわけである。人の集団によって、あるいは集団の名の下に活動する個人が頭の中に描くイメージを大文字の『世論』とする」(岩波文庫、掛川トミ子訳)と述べ、バラバラのイメージを「public opinions」と、集団としてのまとまりを持ったイメージを「Public Opinion」と書き分けた。「公衆」はまさにその集団を強調した但し書きである。

学生の発表に続け、授業ではpublic opinionが日中でいかに訳されたかという原点を振り返ってみたいと思う。まずは1844年に編まれた英中辞書『衛三畏英華韻府』がある。



編者は、ペリーと一緒に黒船に同乗し、日米の通訳を務めた米宣教師のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズだ。中国に半世紀近く滞在し、帰国後はエール大学で最初の中国研究者となった。彼はpublic opinionを「衆論」と訳した。



日本でよく活用された独宣教師、ロブシャイドの『英華字典』(1866)は「衆意、衆心」、それを増訂した独哲学者、井上哲次郎は「衆意、衆心、衆論、衆議」と幅広く用語を拾った。1884年のことである。それに先立ち、福沢諭吉は『文明論之概略』で、民主主義における公正な議論の重要性を訴える中で、次のように書いている。

「唯世に多き者は、智愚の中間に居て世間と相移り罪もなく功もなく互に相雷同して一生を終る者なり。此輩を世間通常の人物と云ふ。所謂世論は此輩の間に生ずる議論にて、正に当世の有様を摸出し、前代を顧て退くこともなく、後世に向て先見もなく、恰も一処に止て動かざるが如きものなり」

福沢は「輿論」と言わず「世論」と言った。大文字の輿論(Public Opinion)に対し、社会風潮の左右され、移り気で、付和雷同する小文字の世論(public opinions)を想定したのだろう。そこにはJ.Sミルが『自由論』で指摘した多数者による暴政を批判する姿勢が貫かれている。空気に流れやすい日本の社会風土に対する警戒でもある。

大海に浮遊するかのような不安定で、空を流れる雲のように分散的な集団を群衆と呼ぶ。これに対し、社会の重要事項について、議論を通じた独自の見解を持ち、理性に従って行動する人々の集まりは公衆である。公衆の輿論とは、リップマンのいう大文字のPubilic Opinionにほかならない。

思えば「衆議」は現在の日本の国会にその名を受け継いでいる。理性的な議論を通じ、大文字の輿論を形成する場となっているか。残念ながら建物の中にいる議員に多くを期待できない現状においては、pubilic opinionsこそが原点に立ち返って自省し、新たに生まれたインターネット空間を有効に利用した議論のあり方を模索すべき時である。

リップマンは、「人と、その人をとりまく状況の間に一種の疑似環境が入り込んでいる」と述べた。我々は、自分が見聞きし、経験したもの以外の世界については、自分が持っているイメージが呼び起こす感情しか持つことができない。だからこそ相手を知るのは実に骨の折れる作業となる。だが既成のステレオタイプに安住し、他者に従属し、服従する安逸に逃れたとたん、仮想のインターネット空間はたちどころに現実の環境を支配しようと乗り出す。そうなればもう精神の奴隷になるしかない。

異なる文化を知るための第一歩・・・それは自分の文化を知ること(結び)

2016-10-28 21:06:00 | 日記
肝心の点に触れるのを忘れてしまった。インド出身のK.Sシタラムが、『異文化間コミュニケーション(FOUNDATIONS OF INTERCULTURAL COMMUNICATION)』(1985東京創元社、御堂岡潔訳)で訴えたのは、異文化コミュニケーションにおいてはまず、自分の文化を知らなければならないということだ。

彼はこう言っている。

「我々のうち大部分は、なぜ自分たちが行っているようなやり方でコミュニケーションを行っているのか、知ってはいない。また、自分たちのコミュニケーション行動に影響する諸要因を、見出そうとしたこともない。他人と効果的にコミュニケートしようとするならば、我々はまず第一に、自分自身のコミュニケーション技能について知らなければならない。他の人々を理解しようとする前に、我々自身について知らなくてはならないのである」

だが自分を知ることほど難しいことはない。シタラムは哲学者や聖者、ヨーガの行者が瞑想によって答えを出そうとした例を取り上げる。自我としての声、外見、知力、良心、知識、理解、判断、そうしたことを含めた自己概念を知ろうとすることで、人は自分の行為を文化的価値と結び付けて考えることができる。

確かにその通りだろう。自分のことを知りもしない人間は、人に媚びたり、逆に傲慢に振る舞うことはできても、他人のことを本当に知ることはできない。自己の文化的価値をわからなければ、人の文化的価値を評価のしようがない。厳しく、真剣に自己を見つめる目が、他者に等しく注がれたとき、異なる文化をそのまま受け入れることができるのだろう。

メディアは自分の外にあるものではなく、実は自己に内在しているものではないのか。メディアを仮想社会に手放さないためにも、自分の心にとどめ、確かな感覚によって知覚する必要があるのではないか。それができればきっと、鏡をのぞくように異文化を見ることができるだろう。

漢字を共有し、長い文化交流の歴史を有する日本と中国はまさに鏡の関係にふさわしいと思える。学生たちがこのことだけでも感じ取ることができれば、靖国神社プロジェクトも成功だと言える。

実は何人かの方に、首相の靖国神社参拝に関する学生からのアンケートをお願いした。すぐに返事をいただいた方もいる。学生たちが飛び上がらんばかりに喜んでいる姿を見ただけでも、峠の半分は越したような気がしている。

異なる文化を知るための第一歩・・・それは自分の文化を知ること

2016-10-28 20:51:48 | 日記
上海駐在中、しばしば南京に足を運び、地元の人々と交わり、南京事件と向き合う記事を書いてきた。「日中関係は南京から」との信念は今も変わらない。困難なことから目をそらせば、真の相互理解につながらない。だから靖国問題は格好のテーマでもある。異文化のコミュニケーションは学際間の研究が進んでいるが、メディア論においても重要なテーマである。メディアが世論に与える影響は無視できない。

メディアは、ステレオタイプの世論に縛られ、受け手の求めるものを伝える「蛙の子は蛙」のような補強機能を持つと同時に(いわゆる大衆迎合と呼ばれるものもそうであるが)、複雑な政治問題については争点を単純化して伝え、世論を容易に誘導する作用も持っている。後者の機能については、メディアがしばしばその誘惑に抗することができず、誤った世論操作に手を染める。ナショナリズムのからむ異文化同士のコミュニケーションにおいては特にその危険が大きく、戦争はその極端な例である。

この点においては、ドイツに生まれ育ち、米国のオレゴン大学などで学んだK.Sシタラムが、自身の特異な人生経験を踏まえ、貴重な考え方を提供してくれる。『異文化間コミュニケーション(FOUNDATIONS OF INTERCULTURAL COMMUNICATION)』(1985東京創元社、御堂岡潔訳)に詳しい。

シタラムによれば、コミュニケーションの過程をMSN(Mind心、Sense感覚、Mediaメディア)の三つに分ける。それぞれが情報の保持(心)、知覚(感覚)、表現(メディア)の役割を担う。「心」「感覚」という概念が直感を重んじるインドの文化を感じさせる。

情報の送り手、受け手とも心の中に異なる文化的背景を持ったメッセージが貯蔵されている。心の中では記憶によってメッセージが取捨選択される。ここに価値の葛藤が生じる。周囲の環境は感覚器官を通じて知覚され、情報を出し入れするチャンネルとして働く。メッセージは感覚のフィルターにかけられるのだ。メッセージの交換を行うのがメディアであって、言語による場合も非言語による場合もある。メディアの形態もまた文化が影響を及ぼす。

シタラムは宗教や民族によって、よって立つ文化的価値、背景が異なり、相互のコミュニケーションのためにはこうした文化への理解、尊重が欠かせないと説いた。多宗教、他民族のインドで育ち、同じく多くの文化が葛藤する米国で学んだ経験に裏付けられたものだ。今では新鮮味がないが、時代的背景を考えれば、欧米中心のエスノセントリズム(自自文化中心主義)に対抗した先駆的な功績がある。不十分ながら日本文化への言及も少なくない。

例えばこんなくだりがある。

「アジアの諸文化では、非暴力的なコミュニケーション方法が非常に尊重されている。例えば日本では、人々はビジネスの交渉の場で力を示すのを避ける傾向にある。日本人は交渉相手に『いいえ』ということ言うことすらためらう。同意できない際に『いいえ』と言わずにすむ別の方法を、いくつか持っているのである。なされた質問に対し返答しないというのがその一例である。経験の乏しいアメリカ人の実業家が日本の実業界で意思疎通を図ろうとする際、日本人が積極的ではないということに留意しようと努めるかもしれない。それでも、みずからの優越性を示そうとするときは、積極的な実業家としての自分のイメージを押し出して、行動してしまうだろう」

シタラムの著で興味深かったのは、1972年のニクソン訪中で、通信衛星インテルサットⅣが米国民に生放送でベールに包まれた共産国の素顔を伝え、米中の相互理解に大きな役割を果たしたことを強調していることだ。訳者が指摘するように、ニクソン・ショックによよって、密接と思われていた日米交流への反省が生まれ、そこからから日本での異文化コミュニケーション研究に火が付いたとすれば、日米、米中、日中はそれぞれコミュニケーションにおいても不可分に結びついていると言える。

気が付いたら靖国神社研究を申し出た女子学生と3人で作った連絡用のチャットグループの名が、「靖国神社小分隊加油!」となっていた。「加油」は「がんばれ」の意味だ。若者たちのこの軽さ、明るさもまた文化の一つなのだろう。(続く)

異文化コミュニケーションの窓口としての靖国神社参拝問題

2016-10-28 18:52:00 | 日記
今朝、クラスの女子学生2人と研究課題について話し合った。彼女たちが持ち出してきたテーマは日本の靖国神社参拝問題だ。外交を含む政治問題や歴史問題として語るには彼女たちの知識も認識も不十分だが、異文化コミュニケーションへの理解を深める手がかりとしてであれば、授業内容と合致したテーマだと思い、私も一肌脱ぐことにした。翻訳作業も手伝わなくてはならない。

教育やメディア、あるいは家族を含めた周囲での会話を通じ、A級戦犯をヒットラーと同一視する歴史観を植え付けられ、参拝イコール侵略の美化という図式でとらえる思考が身についてしまっている。だから、首相はともかく、多くの日本人が無関心だったり、賛成したりすることに理解が及ばない。国のトップが行う行為、つまり毛沢東や習近平の言動が世論に与える絶大な影響の尺度で、日本の首相による参拝行為を評価しようとすると、どうしても政治家個人への批判に収斂し、二者択一の単純な価値判断に陥ってしまう。

すでに定まった善悪の基準をいったん取り払わない限り、いくら研究を進めたところで、相互理解が深まることにはならない。一方的な価値観に気づかない限り、分かり合おうとすればするほど、衝突が深まるというジレンマにはまっていく。靖国問題は気の重いテーマだからこそ、逆に、ここを突破口に異なる文化を尊重し、理解する試みが意味を持つ。

参拝をしなければ靖国問題は存在しないのか。A級戦犯を分祀するだけで何もなくなるのか。それは政治的な知恵ではあっても、お互いが心から理解しあうためのゴールではなく、きっかけに過ぎないと考える。ご都合主義で七変化する政治課題よりも、横たわった歴史と静かに向き合う作業こそが求められている。それが私の見解である。

皇室担当時代、日本の神道の歴史についても理解を深めた。明治以降、人為的に作られた国家神道とは違った伝統文化を持っている。信仰である以上、心の中で祈ることもできる。神道には代理による代拝という作法もある。それでも首相がわざわざテレビカメラの前に姿を見せる以上、それは政治的パフォーマンス以外の何ものでもない。靖国神社はそうした場にふさわしくない。だから私は支持しないと答えた。ただ、賛成反対の色分けに終始するだけでなく、その理由を知ることが、異文化理解に役立つのだと念を押した。

同時に、小泉首相が靖国神社参拝後、そして、北京郊外の盧溝橋にある抗日戦争記念館を訪れた後の発言の一部を並べ、読み聞かせた。同記念館を訪れた首相は、目下のところ村山、小泉の二人だけである。

中国人民抗日戦争記念館訪問後(2001年10月8日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/china0110/hatsugen.html
「今日こうしてこの記念館も拝見させていただきまして、改めて戦争の悲惨さを痛感しました。侵略によって犠牲になった中国の人々に対し心からのお詫びと哀悼の気持ちをもって、いろいろな展示を見させていただきました。二度と戦争を起こしてはならないと、そういうことが戦争の惨禍によって倒れていった人の気持ちに応えることではないか、私共もそういう気持ちでこの日中関係を日中だけの友好平和のためではなく、アジアの平和、また世界の平和のためにも日中関係は大変大事な二国間関係だと思っています」

靖国神社参拝後(2001年8月13日)
http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2001/0813danwa.html
「この大戦で、日本は、わが国民を含め世界の多くの人々に対して、大きな惨禍をもたらしました。とりわけ、アジア近隣諸国に対しては、過去の一時期、誤った国策にもとづく植民地支配と侵略を行い、計り知れぬ惨害と苦痛を強いたのです。それはいまだに、この地の多くの人々の間に、癒しがたい傷痕となって残っています。私はここに、こうしたわが国の悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を捧げたいと思います。私は、二度とわが国が戦争への道を歩むことがあってはならないと考えています。私は、あの困難な時代に祖国の未来を信じて戦陣に散っていった方々の御霊の前で、今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいたし、年ごとに平和への誓いを新たにしてまいりました」

日本国内には、参拝と発言の「矛盾」に対する批判もあることも伝えた。だが、初めて知った彼女たちが驚きの表情を浮かべたことは確かだった。(続)

過酷な政治闘争を経てとうとう「核心(中核)」の呼称を得た習近平

2016-10-28 01:13:06 | 日記
中国共産党の第18期中央委員会第6回全体会議(6中全会)が27日、閉幕し、コミュニケが公表された。
http://news.xinhuanet.com/politics/2016-10/27/c_1119801528.htm(中国語)

注目すべきは以下の二か所である。

「本会議は、党内の厳格な統治の成果を高く評価し、第18回党大会以後、習近平同志を中核(核心)とする党中央が自ら行動し、率先垂範し、全面的党を厳格に統治する政策を堅固に推進し、思想面での党建設と制度による党の統治を密接に結び付ける方策を堅持し、集中して党風紀を整頓し、腐敗を厳しく処罰し、党内の政治環境を浄化し、党内の政治生活に新たな気風を生み、党内や国民の支持を得て、党と国家の事業の新たな局面を引き開く上で重要な後ろ盾を提供した」

「本会議は次のように呼びかける。習近平同志を中核とする党中央に全党員がしっかりと団結し、全面的に本会議の精神を深く貫徹し、政治意識、大局意識、核心意識、順守意識を堅固に打ち立て、党中央の権威と党中央の集中統一指導を揺るぎなく維持し、全面的に党内を厳格に統治する政策を引き続き推進し、協力して清廉な政治環境を作り、確かな党の団結によって人民を指導し、中国の特色ある社会主義事業の新たな局面を切り開く」

言うまでもなく、初めて登場した「習近平同志を中核とする党中央」がキーワードだ。メディアは「習近平への権力集中がさらに進んだ」といったお決まりの文句を並べるだろうが、それは取材なしでも書ける「管理人記者の後付け記事」だ。椅子に座って、来る者を裁いているだけに過ぎない。

反腐敗キャンペーンを通じ、習近平の権威は高まっており、その結果としての「中核」であって、因果関係が逆である。メディアは、共青団や江沢民派といった架空の派閥闘争を描き、党内の分裂や軋轢、対立を書き立ててきたことの反省もなく、場当たり的にニュースを取り繕っている。だから結局、後付けしかできない。習近平は、かつての共産党が堅持しながら胡錦濤時代に崩壊していた、総書記を中心とする集団指導体制を取り戻そうとしている。6中全会では特に、周永康前常務委員ら前例のない最高指導部を摘発した実績を背景に、高位の者が率先して範を示すことを強調した点が重要だ。

私は月刊誌『FACTA』の4月号で、連載「底知れぬ習近平」の3回目として「我こそは『中核』中央にならえ!」と題する原稿を書いた。



歴史の流れの中で政治をとらえる必要がある。以下、主な部分を抜粋する。

「中央にならえ」の号令を受け、今年に入り地方指導者が習近平を「中核」(中国語では「核心」)と呼ぶ事例が相次いでいる。周永康の影響力が強かった四川省で、党中央組織部出身の王東明・同省党委書記が「習近平総書記というこの中核を断固として守る」と発言したのを皮切りに、各地の省トップが同様の決意表明を行い、「すでに全国で半数を超えた」とあおる官製報道まで流れた。

「中核」は単なる言葉の遊びにとどまらない権力闘争の歴史を反映している。

鄧小平は天安門事件で直面した内外の危機に際し、「どんな集団指導にも一つの中核が必要だ。中核のない指導はよって立つものがない。第一代集団指導の中核は毛主席だった。毛主席の中核があったから、文化大革命でも共産党は崩壊しなかった。第二代は実際に私が中核だ」と宣言。民主的な態度を取って保守派と対立した胡耀邦、趙紫陽の両総書記失脚後も、「党の指導は安定していた」と述べた(『鄧小平文選』)。第三代の中核として江沢民を位置付け、危機を乗り切ることに主眼があった。

第四代の胡錦濤総書記も鄧小平がレールを敷いたものだったが、鄧小平の死後、胡錦濤への政権委譲は江沢民が恣意的に介在した。江沢民は胡錦濤に総書記の座を譲った後、2年間近く中央軍事委主席のポストに居座り、引退後も「重要事項は江沢民に相談する」との密約を結ばせた。常務委員9人の中にも自分の腹心を多数送り込み、胡錦濤の手足を縛った。

「第三代中央集団指導の中核」と公認された江沢民は内部会議で、「中核は闘争の中で形成されるもので、誰かが中核になりたいからといっても、永遠になれるものではない。これは一つの歴史の法則と言ってよい」(『論国防和軍隊建設』)と述べ、胡錦濤には「中核」の呼称を使わせなかった。結局、胡錦濤政権は「不作為の10年」という汚名を負わされることになった。

以上の文脈に従えば、習近平は政治闘争で江沢民派を排除し、「歴史の法則」にのっとり、「闘争の中で形成される」中核の存在に近づいたと言える。習近平に中核の名が冠せられるのも不思議はない。江沢民が鄧小平の権威に頼っていたことと比べれば、習近平こそ闘争の中で勝ち取ったというにふさわしい。(了)

以上