「自分の帰るところを見つけます。」
その言葉を見つけたとき、胸が締め付けられた。
今日、和泉学園(少年院)で見た。
阪南市にある和泉学園には、エントランスに学園生たちが書いた抱負が貼ってある。
一人一人うろこ状の紙に抱負を書き、全体で一つのこいのぼりを形作っている。
全てのうろこに眼を通した。
「失敗してしまったことを正直に話す勇気を持ちます。」
「人を大切にして愛せる男になる。」
「自分の大切なものを絶対に守れる強さをつけて、幸せな人生にする。」
「生きている時間を大切にし、大きく広い心を持って生きていく。」
「幸せになり、幸せにする。」
ポスターや絵手紙のような物もあった。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、何度言っても言い足りない。」
「はかない蝉の一生も土の下では大きな努力」
多くは、法務教官から言われたことを彼らなりに受けとめ消化しようとして出てきた言葉ではあろう。
上手い日本語ではないが、胸を打つ。
冒頭の「自分の帰るところを見つけます。」には参った。
「自分の家」ってどんな家のことだろうとここ数日ずっと考えていた。
帰るところが「無い」我が青少年達のことを考えていた。
そして、この文に出会ったのだ。
この少年も帰ることろが「無い」。
けれども、我が青少年達の「無い」と、この少年の「無い」は意味がまるで異なる。
帰りたいのに帰れない状況なのか、帰りたくないから他に帰れそうなところを求めているのか、もともと帰るところがないのか・・・精神的に拠り所とするとこころがこの少年にはないのだ。
少年院に入所する触法少年達の中には少なからずこのような少年がいる。
受け入れ先のない人生を生きているのだ(親は受け入れ先とは限らない)。
このような少年達は、「自分の家をつくる」という行為をどのようにイメージするだろう?
イメージしにくいのではないか。
そもそも彼らには、初めから「家」らしき「家」、「家庭らしき家庭」がないケースが多い。
家族の絆があってこその家だ(勿論、単身者の家もあるけれど)。
人生設計あっての家だ。
羅針盤なき状況の中では、人は「自分の家をつくる」という発想は持ちにくいだろう。
帰るところがない少年はどうするか。
たとえそれがよくない人であったとしても、優しく声をかけてくれる人間のところへ行ってしまうのではないか。
差し出された椅子に座ってしまうのではないか。
そして、一般的に「悪」と呼ばれる社会を構成していく。
そして、累犯につぐ累犯。
ひょっとしたら、これは彼らなりの自分の居場所の“セルフビルド”なのではないのか・・・。
鉄格子に囲まれたプールで体操をしている彼らを見て、そんな気がした。
奈良少年刑務所で行なわれている更生教育「社会性涵養プログラム」で詩の講座を担当している寮美千子さんの本がある。
「空が青いから白をえらんだのです」
タイトルにもなっているたった一行の受刑者のこの詩が胸に突き刺さる。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860954025/harmonia-22
※ 奈良少年刑務所は、山下啓次郎(ジャズピアニスト山下洋輔さんの祖父)の設計だ。
美しい建物である。