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碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

27日(金)午後、札幌でHTB「イチオシ!」出演

2013年09月27日 | テレビ・ラジオ・メディア

本日午後、いつものHTB北海道テレビ「イチオシ!」に出演。

15時47分からの生放送です。


週刊読書人で、「太平洋戦争下 その時ラジオは」の書評を

2013年09月27日 | 本・新聞・雑誌・活字

今年はテレビ放送開始60周年ですが、ラジオはそれに先立つ放送メディアの大先輩。

その歴史も波瀾万丈です。

竹山昭子先生の新著「太平洋戦争下 その時ラジオは」の書評を書きました。

発売中の「週刊読書人」に掲載されています。

放送史研究で知られる竹山先生は昭和3(1928)年生まれ。

長年の旺盛な研究・執筆活動に敬意を表します。


竹山昭子著「太平洋戦時下 その時ラジオは」朝日新聞出版

放送のもつ意味と意義、
危うさも次代へと伝える

1967年、「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)や「パック・イン・ミュージック」(TBS)など、ラジオの深夜放送が始まった。それまでとは違う、身近な存在としてのパーソナリティーが魅力的だった。彼らは恥ずかしい失敗、本音や内面をもさらけ出していた。まるで自分に向かって語りかけてくれているような一体感。いまを一緒に生きているという同時代感。それらが私を含む当時の若者たちの心をとらえて離さなかった。この時のラジオは送り手と受け手が互いを感じることのできる双方向性を備えていた。またマスメディアであると同時にパーソナルメディアでもあった。それは現在に至るも変わらない。

しかし、当然のことながら前述したのはあくまでも戦後のラジオだ。特に戦時中において、「放送は文化機関ではなく政治機関」であり、国民に対して国家の意思を伝えるためのメディアだった。たとえば1941年の太平洋戦争開戦から敗戦まで、ラジオはどのような状況下で、どんな放送を行っていたのか。本書はそれを明らかにしている。

著者は3つの角度からアプローチを行った。まず現場にいた放送局員たちの証言だ。当時、日本放送協会が発行していた雑誌『放送研究』『放送人』に掲載された放送局員によるレポートである。開戦と共に各地の都市放送は休止となり、東京発の全国放送に統一された。ある局員が「ニュース放送は今や戦時下の放送の中核となった」と書いているように、ニュースはその在り様を大きく変えていく。伝える内容に関わる当局者がニュースの補強や解説を行い、国の方針や国民の心構えなどを説くようになった。いわばニュースと講演の一体化だ。興味深いのは、そんな「報道の報導化」に対して、相反する評価が局内に存在していたことである。

次が、「国民合唱」という音楽番組の掘り起しだ。「国民全部が歌える」を目標にオリジナル曲が作られ、歌唱指導が行われた。歌による士気高揚に努めたこの番組は、開戦から敗戦まで途切れることなく続いた稀有な1本である。著者はそこにナチス・ドイツのプロパガンダ政策の影響を見る。

3番目は、「海ゆかば」という歌への着目である。元々は日中戦争開始直後の「国民精神総動員強調週間」に、その趣旨を伝える講演放送を盛り上げる目的で作られた楽曲だ。太平洋戦争開戦の日、「海ゆかば」は繰り返し流された。それは東条英機首相のいう「一切を挙げて国に報ひる」ことの決意の歌だった。以来、米英との戦いの厳しさを強調する軍によって、「海ゆかば」は一種の象徴と化す。戦況を伝える放送のオープニングに「海ゆかば」。エンディングには「天皇陛下万歳!」。これがセットになっていく。やがて敗色が濃くなると、今度は「特攻」とこの曲が結びついた。一つの曲がラジオを通じて流布され、国家と運命を共にしていったのだ。

戦前・戦中期は、録音装置が未発達の時代である。この頃の放送の歴史をたどることの困難は想像以上だ。著者は当時の新聞・雑誌・書籍・証言を丹念に集め、整理し、そして緻密な分析を行った。ラジオが「マスメディアであると同時にパーソナルメディアでもある」ことが許されなかった時代。それどころか、現在の定義によるマスメディアでさえ有り得なかった時代。その実相を探り、放送のもつ意味と意義、そして危うさをも次代へと伝える労作が本書である。

(週刊読書人 2013.09.27号)