『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・しどろもどろに吾はおるなり/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(七)ー最終回

2013年01月28日 21時02分56秒 | ■俳句・短歌・詩

    

   一本の蝋燃やしつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる  宮 柊二

  みやしゅうじ。「蝋燭の灯り」が、とりたてて音を出すことはない。しかし、その “仄暗い灯り” の “ゆらめき” は、「音の世界」を呼び込む神秘的な “間(ま)” や “気(け)” のようなものを感じさせる。それはまさに「深遠な地の底から静かに響きそして伝わって来るもの」なのかもしれない。そのため、『暗き泉を聴くごとくゐる』に不思議なリアリティが認められる。

       ★ 

   スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美し古典力学  永田和宏

   作者、ながたかずひろ氏は今回の選者であり、京大名誉教授の細胞生物学者。『はろばろと美し古典力学』とは、何とも新鮮でロマンティックな表現。ことに『はろばろと美し』が秀逸であり、「上の句」とりわけ冒頭の『スバル』を見事に受け止めている。

  『古典力学』の「文字」や「五感」から想像される「理解できそうで理解できないイメージ」の妙というのだろうか。といって違和感もなく、何となく併存している。それがこの歌の世界をグンと広げているのだろう。そのため、『しずかに梢を渡りつつありと』に落ち着いた存在感と説得力があり、身近な感じを与えてもいる。

   何度もこの歌を呟くとき、筆者には宮沢賢治の『銀河鉄道』の一節や谷村新司の『昴(スバル)』のメロディが浮かんだ。同時に、遠い小学低学年の頃に食い入るように見ていた小松崎茂画伯の画……その「空想宇宙世界」の精緻なフルカラ―も浮かんで来た。

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   ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。 

    作者は今回の選者の穂村弘(ほむらひろし)氏。正直言って、あまり好きになれない作品だ。穂村氏自身が、今回の「一首」のために積極的に選んだのだろうか……。「話題作り」のために、編集上の都合として “選ばされた” のではないだろうか。……氏には、他に優れた作品が沢山あるというのに。よりによって……という気持ちがどうしても消えない。もし穂村氏自身がわざわざ「この作品」を選んだとしたら、その趣旨は何だろう? ご本人にうかがってみたい。

    氏は、塚本邦雄の『輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび』という作品に、“脳を直撃されるような衝撃を受けた” ことがその作歌の原点と言われたようだが……。

   私も塚本短歌大好き人間の一人だ。しかし、正直言って この作品だけは、どうしても好きになれないでいる。ずばり言って、どうにも “作為” が “鼻を突く” ような気がしてならないからだ。

 塚本作品といえば、やはり個人的には、前回ご紹介した『皇帝ペンギン』や『馬を洗はば』のいずれか、ことに後者に “脳天を直撃された” というのであれば、「この〝ハロー〟の作品」についても、多少は理解できると思うのだが……。

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   こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり  山崎方代

   やまざきほうだい。第二次大戦により右目を負傷、後に失明したようだ。左目もかなりの弱視であった由。妻子を持たず、「漂白の歌人」として生涯を送る。口語体の短歌であり、自由律俳人の尾崎放哉や種田山頭火に通じるものがある。正直に告白すると、今回の百首の中で筆者が一番好きな作品だ。

   『こんなにも湯呑茶碗はあたたかく』に、五感を超えた “生活実感” いや “生の実感” が息づいている。そう感じさせるのは、『しどろもどろに』という “言葉” ……何と名状しがたい表現だろうか。この言葉の “不器用” な、それでいて嫌味でも自己卑下でもない “神聖な” 響き。何度も呟いているうちに、その “神聖さ” に打ち負かされたような気がして来る。

   他の作品を併せてみるとよく判る。一途に無欲恬淡を貫いた孤老。というより、結果として自然にそのような “生き方” に導かれて行ったのだろう。諸事万般において、ひたすら “つましい” 生き様……とでも言うのだろうか。そういう雰囲気がよく出ている。

   結句の『吾はおるなり』が不思議な感覚や響きをもたらし、『しどろもどろに吾はおるなり』と続けるとき、この作者にしかない独特の “漂白” と “諦念” とが滲み出て来る。

   それにしてもこの歌……。“実存主義” の短歌的一例と言えそうだ。もしサルトルが生きており、短歌を知っていたとするなら、彼は間違いなく水の入った「グラス」の代わりに、温かい湯がたっぷりと入った「湯呑茶碗」を使ったに違いない。

    他の作品は――、

   手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る

   このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている

   宿無しの吾の眼玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉

       ☆    ☆   ☆

   以上をもって今回の『新・百人百歌』の評は終り。以下は、紙幅の都合で評を省略した作品。 

   かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる  吉井 勇

   よしいいさむ。彼の歌と言えば、何といっても処女歌集『酒ほがい』。

   少女云うこの人なりき酒甕(かめ)に凭りて眠るを常なりしひと

        

   終わりなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ  土屋文明  

   つちやぶんめい。解説によれば、『九二歳の夫が、九四歳で逝く妻を悲しむ歌である。終わりなき死後の時間』とある。

       ★

   春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける  前川佐美雄

  まえかわさみお。太平洋戦争突入の前年に刊行された歌集にある作品。

       ☆    ☆   ☆

  このシリーズを始めて思ったことがある。それは私家版の『新・百人一首:近現代』を選んでみたいということだ。その中には、今回の文藝春秋編の作品も三分の一ほど入るだろう。

   となれば折角の機会、『百人一句』として「俳句」も選んでみたいものだ。ただし、こちらは芭蕉以前からの作品も含めたもの。団塊頑固親爺の “偏見” と “依怙贔屓” で選ぶ『百人一句』。……乞う。ご期待! ただし、時期は未定も未定。命あるうちに……。 (

 

コメント (4)
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