前回同様、中学・高校そして大学時代に触れた(と思われる)歌を中心に……。
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白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ 若山牧水
この歌を知っている方は多いはずだ。大学生の頃、友人のSがこの歌の講釈を嬉しそうに語っていたように思う。ともに法学部の学生でありながら、筆者もSも明らかに「文学青年」だった。その証拠に、あまり法律論を交わした記憶がない(政治論はやったようだが)。
何と彼は四年生の時、選択科目に文学部の「映画論」(確か映画評論家の佐藤忠雄先生?)を履修し、「卒論」を《山田洋次論――男はつらいよ》にしたという御仁。
さて、『酒は静かに飲むべかりけれ』……年を経るにつれ、この境涯に近づくような気がする。といって歌をよく見るとわかるように、“一人静かに”とは詠んでいない。“愁思の感慨”に浸りながら、一人か二人の友と物静かにという雰囲気だろうか。飲み屋の騒々しさや煙草の煙が苦手な筆者にとって、特にその想いが強い。
『白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒』となれば、やはり日本酒の熱燗ということだろう。個人的には、“熱く”も“ぬるく”もない“中間”がいい。その燗付けをお猪口で“ちびちび”やりながら、心から理解しあえる友人と、取りとめもない話というのが合っていると思う。
多少なりとも酒を嗜む人であれば、この歌の心はよく判るはずだ。……とここまで綴ってきたとき、Sと飲みたいという気分になって来た。「東日本大震災」の直後、彼が以前の拙宅(中央区梅光園)に来て泊ったことがある。その時は、日本酒に「熱燗」ではなく、ともにジャック・ダニエルの「お湯割り」だった(※註1)。
さて、牧水の歌で教科書によく出て来たものと言えば、以下のような作品ではなかっただろうか。もっとも、今日の教科書ではどうだろう。
幾山河 こえさりゆかば さびしさのはてなん国ぞ きょうも旅ゆく
白鳥は哀しからずや 空の青海のあをにも 染まずただよふ
筆者は、こういう“天地自然を大きく取り込み、自由にイマジネーションをかき立たせてくれる”作品が好きだ。『さびしさ』や『哀しからずや』という“感情意識”を安易に盛り込む短歌的手法に抵抗はあるものの、全体の調べや意図からして何とか赦せる。“重層的なイメージの広がり”が心地よい。
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牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ 木下利玄
ここでの「牡丹花」は、「大輪の白牡丹」がいいのかもしれない。それも数多く咲いているものではないような気がする。二、三輪いや三、四輪というところだろうか。
『咲き定まりて』という表現に、まずは牡丹が“開ききった”つまりは“花の盛り”であることが判る。同時にそれが“限定された数”というニュアンスが感じられる。だからこそ、“静かなり”と続いていくように思う。
下の句の『花の占めたる位置のたしかさ』は、多少“理に勝った”表現といえる。しかし、その花が「大輪の白牡丹が数輪」となればどうだろうか。“凛とした”大輪の牡丹の“気品と優美さ”がいっそう惹きたち、また収まりもよい。なによりも、『咲き定まりて』と『位置の確かさ』とが自然に結びつく。
この短歌から真っ先に想い出される俳句がある。
白牡丹といふといへども紅ほのか 高浜虚子
短歌的な創造の枠から考えると、「……で、それがどうしたの?」となりそうだが、深い味わいを湛えている。“さりげないこと”を“さりげなく言い流した”その“さりげなさ”とでも言うのだろうか。無論、掲出の歌は“さりげなく詠まれた”ものではないが、歌人と俳人との「視点や表現方法」の違いを窺い知ることができる。
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葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈迢空
作者「しゃくちょうくう」の本名は、折口信夫(おりぐちしのぶ)。著名な国文学者であると同時に、民俗学者でもあった。
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※註1:本ブログ2011.4.3号『ジャックダニエルと蝋燭とバロックと』を参照ください。