『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

◆賀春◆ 『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(「文藝春秋」編):[壱]

2013年01月01日 04時25分39秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  月刊「文藝春秋」は、本年「平成二十五年」の「新年号」を《創刊90周年記念号》としている。通常より96ページ増の588ページという堂々たる“厚み”であり、連載物を休止した特別企画中心の編集は凄いの一語に尽きる。

   同誌については、いつも4、5分“拾い読み”した後に“購入か否か”を決めている。だが今回ばかりは、「目次」を10秒ほど眺めただけで即決した。『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』の表題とともに、『小倉百人一首編纂から八百年――』いう文字が飛び込んで来たからだ。

  この手のコピーやフレーズには、昔から滅法(めっぽう)弱い。特に月刊「文藝春秋」には、いつもこの手でやられている。同誌の「特集テーマ」や「誘惑キャッチ・コピー」にひっからないよう気をつけてはいても、いざ同誌を手に取るとからきし駄目だ。おかげで今回の「購入検討時間」は、最短記録を更新することとなった。

       ☆

  さて、今回の「選者」は筆者が好きな馬場あき子氏をはじめ、永田和宏岡井隆穂村弘の歌人四氏。選出された「百人の歌人」から、各一首を採り上げている。正岡子規斎藤茂吉から寺山修司俵万智、それに明治天皇美智子皇后のものまで、歌人の個性や歌題の偏(かたよ)りを避けながら、読者の好みの幅広さに応えている。

  「選考経緯」の公開ともいうべき〈選考座談会〉の記事は、上記四氏に読者代表として女優の壇ふみさんを加えたフリートーク。各歌人のちょっとしたエピソードや創作の裏話があり、こちらもなかなか興味深い。詳細は同誌に譲るとして、まずは次の一首から――。

        ☆ 

 帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

 作者は、美智子皇后。昨年平成二十四年の「新年歌会始め」の御歌であり、このときの御題は「岸」。注釈者は、『東日本大震災で失われた人々を岸に「立ちて待」つ人々に思いを致しておられる御歌だからでもある』と述べ、さらに、『シベリア抑留者や北朝鮮の拉致被害者を待つ家族も含まれよう』としている。

 『帰り』『来る』を『立ち』て『待てる』にと、何かに急かされるように四つの肯定的な動詞が続く。息もつかせず畳みかけたそのあと、今度は否定的な動詞がゆったりと、『(季の)なく』……と現れ、最後に置き忘れられたかのように……ぽつんと『見ず』で締めくくっている。

 直接的な感情表現は一切ない。作者は、淡々とした傍観者の眼で「大震災の被災者」達を見ている。最後の『見ず』という否定形が、シリアスなドラマの「衝撃的なラストシーン」のように重く響く。

 「帰り来るを」『待つ』ではなく、『立ちて待つ』としたところに、不安と焦燥と絶望とに苛(さいな)まれながらも待っている人々の想いがあり、それを見守る美智子皇后の慈愛の眼差しがある。

 『季(とき)のなく』と「季節」の「」を充てたことによって、「季節」は巡り来ても「岸で待つ人々」に「そのとき」は来ないのでは……という意味がある。さらに、「待ちわびるそのこと自体」にも「ときはない」、すなわち「限りはない」のでは……という意味も。この二つの意味によって、哀しみがいっそう効果的に伝わって来る。

 下の句の『岸とふ文字を歳時記に見ず』の表現が好きだ。これは無論、その直前の『季のなく』を受けている。「岸という文字」を「歳時記に見出すことができない」とする皇后陛下の着想に、高い文学性と歌人としての力量を感じた。

 「岸」という文字が、「歳時記」にないことは判り切っている。「俳人」であれば、絶対にそのような着想は浮ばないだろう。それをあえて持ち出した……否、持ち出さざるを得なかったところに、皇后の遣り切れなさをいっそう感じ取ることができる。筆者がそう感じたのは、美智子皇后の次の歌を想い出したからだ。

 この国に住むうれしさよゆたかなる冬の日向に立ちて思へば

       

 美智子皇后といえば、短歌の世界ではつとに知られている。作品に高貴な品位や知性が備わっているのは言わずもがなとして、女性としての優美で細やかな感性が素晴らしい。とはいえ、いわゆる従来の「皇室短歌」の枠にとらわれない自由な発想の歌人であることも確かだ。 

 湾岸の原油流るる渚にて鵜は羽博(はばた)けど飛べざるあはれ 

 窓開けつつ聞きゐるニュース南アなるアパルトヘイト法廃されしとぞ

        ☆

 その一方で、「妻そして母」としの一面を語る歌も、また魅力に溢れている。

 日本列島田ごとの早苗そよぐらむ今日わが君も御田にいでます 

 あづかれる宝にも似てあるときは吾子ながらかいな畏(おそ)れつつ抱く 

 前者の「わが君」は、無論、天皇陛下であり、後者の「吾子」は「浩宮誕生」(昭和三十六年)の題から、皇太子殿下であることが判る。「母として」よりも、将来の「皇太子・天皇」の「生母として」のお立場に戸惑いを持たれていたのかもしれない。「あづかれる宝(=生命)」を「畏(かしこ)まりつつ」受け止められたお姿は、傍(はた)から見れば“微笑ましい”と同時に、“偉大で厳粛な儀式”でもあったのだろう。

 ふり仰ぐかの大空のあさみどりかかる心と思し召しけむ 

 この歌は、明治神宮ご鎮座五十年、明治天皇の御製を思われた折りに詠まれたもの。その明治天皇御製の歌こそ、今回の『新・百人一首』に挙げられた作品でもある。

       ☆

 あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな  明治天皇

 「天皇という方」の御製という気がする。生涯に九万三千首を詠まれたという明治天皇。その方の歌に、美智子皇后は先程の歌を返された。これからも、《歌人》美智子皇后の秀歌をお待ちしたい。(続く

       

★★★ Atakushi としては…… ★★★

  ――皇后さまのお歌って、とってもすてき。……せっかくの元日。あたくしも一首詠んでみようかしら。身近な生活に題材をとりながらも格調高い歌を……でしょ? 

 新春の淑気を感じさせるように、朗朗と読み上げながら……。で、こんなのいかが?

    靴下の ォ~♪ ……………相方今も~………かくれんぼ ~♪ ………

    ずぼらな鬼は ~ ………さがす気もなくゥ~♪ ♪ ……………

 

 ………なぜか「靴下の片方だけ」が次々に〝失踪〟するという〝〟なのよ。……それが何足も何足も続いているという不思議な現象……。

 ……でもこの歌、少し変えた方がよくないかしら? ねえ? 「さがす気もなく」よりも、「さがす意図なく」の方が上品かしら?  いえ、待って。「さがす気も消え」に、「さがす気も絶え」もありそう 。

 ほんとに “その気がなくなった” ……つまり「失踪した片方」を「捜索しよう」とする〝気持ちも折れた鬼〟の無気力さと哀れさ……。そういう諦めの気持ちがより強調されると思いません? ……それに「さがす気も果て」も悪くないわね。

 ……ねえ? どれがいいかしら? ご本人として、いちばんぴったり来るのは? ……ねえ。聞いてる? ね~え? あれ~っ? 眠ちゃったの………?

 

   参照:

  ◆靴下の失踪と捜索―[上]

   ◆靴下の失踪と捜索―[中]

  ◆靴下の失踪と捜索―[下]

  ◆後日譚『靴下の失踪と捜索』

 

 ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 新 嬉

  新しい年の始まりを迎えることができたことを嬉しく思います。

  読者各位の本ブログへのご厚誼に感謝するとともに、

  これからも、わたくしらしいテーマと筆致を心がけたいと意を新たにいたしました。   

    2013年 元日  清浄な朝、玄界灘の海風に触れながら                              

                                         花雅美 秀理

  

 NHKの女性アナウンサー列伝抄』の「続き」は、本シリーズの完結後となります。