「臘八摂心」での一日「十三回」の坐禅――。実質九時間に及ぶ“打坐”であり、想像以上に過酷でした。それだけに、耐え抜いた達成感と満足感はかなりのものがあり、よりよい「坐禅」と向き合えるような気がしました。事実それからしばらく後は、自分でも得心のいく“坐禅”ができたように思います。
それは文字通り、道元が語った――、
仏道をならふといふは、自己をならふなり
自己をならふといふは、自己を忘るるなり
に通じるものがあったような気がします。“小悟(しょうご)”とまではいかないまでも、その“きっかけ”くらいは掴みえたのではないでしょうか。自惚れかもしれませんが、“只管打坐”の本意を多少理解できたのではと秘かに自負していました。それまで2回の「一般参禅」とは比べ物にならないほどの変革を、私の心にもたらした「摂心」でした。
私はそういう自分を誇らしく思うとともに、そのように導いてくれた“坐禅”ひいては“曹洞禅(宗)”そのものに、畏敬と感謝の念を改めて感じた次第です。
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それから2か月後の1988年2月。私は永平寺の「涅槃会報恩摂心」に参加しました。といって、八日間総てではなく最後の三泊四日の参加となりました。この参加の“きっかけ”は、「臘八摂心」の際に“坐相”を誉めてくれた若い雲水の勧めです。そのとき彼は、理由があってまもなく本山を下りるということでした。名前を憶えていないのが残念です。
このときの「摂心」で感じたことがいくつかあります。
一つには、「極寒期」であったにもかかわらず、まったくそのことを感じなかったということです。参禅者は一重の「着衣」に「坐禅袴」という格好でしたが、その着衣の下は上下とも肌着一枚だけでした。スリッパこそ履きましたが、靴下など誰も履いていません。それでも、寒いとか冷たいといった感覚はまったくありませんでした。
「控室」から坐禅をする「僧堂」に向かう外廊下などで、一般の「来訪者」とすれ違うわけですが、彼らは私たちの姿を見てとても寒そうに感じたようです。しかし、実は私たちの方こそむしろ、彼らの姿に寒さと冷たさを感じていたのです。これも永平寺独特の感覚といえるでしょう。
二つには、ただ単に“坐禅をする”ことだけに心が集中していたということでしょう。つまりは、最初の一般参禅で頭に描いた“無念無想になりたい”とか“何かを掴もう”といった「余計な考え」が入り込む余地がまったくありませんでした。“坐禅をしている”そのことだけで心は充たされ、また生きがいや歓びのようなものを感じていたからでしょうか。
「脚足」の痺れや痛みを超越するものがあったということです。そのため、痺れや痛みの中で想うことは、『手や足など無くてもいい。たとえ一生歩けなくなったとしても、このように座り続けることができるのであればそれでもいい』といった心境になっていました。他の参禅者の中にも似たような感想の方がおり、また後に雲水の方からも同じような感想を聴いたことがあります。
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そして三つには、「雪の舞い降りるさまを観たときの想い」でした。
午後の早い時間だったと記憶しています。ひと坐禅が終わったとき、誰かが『雪のようですね』と呟いたのです。“雪”と言う言葉にすばやく反応した私は外の景色が観たくなり、急いで僧堂高窓の内障子を少し開けました。
その瞬間、降りしきる雪が私の顔をめがけてきたのです。夥(おびただ)しい雪の一群が、まるで私の眼を射抜くかのように、ひとしきり押し寄せていました。
ふだん「雪を観る」というのは、上から下へ降り落ちる雪を横から観るのが一般的です。しかし、“このとき”は違っており、明らかに“私”を、そして“私の眼”を目がけて来ました。
つまり、私は“雪の傍観者”ではいられなくなったのです。眼を眇(すが)めつつも、しっかりと雪の降り来る様を、そしてひと粒でも多くの雪を見逃すまいと、顔面に雪を受けながらも観続けていました。
『ああ、雪が降り込んでいる……』という誰かの言葉に一旦は窓を閉めたものの、みんなが立ち去った後、私は再び窓を開けました。そして堂々と雪を招き入れ、しばし辺りを雪だらけにしていたのです。(続く)