『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・南泉斬猫(無門關:1)

2011年06月20日 16時10分38秒 | ■禅・仏教

 禅の「公案」――「無門關」

 『無門關(むもんかん)』と言う禅の「公案」の教本がある。全部で四十八の「設問」が掲げられており、禅宗における指導の要諦が良く判る。

 「四十八則」総ての「表題」が、いずれも「漢字四文字」にまとめられ、いかにも “不立文字(ふりゅうもんじ)”  を旨とする禅問答の「教本」に相応しい。

 その「第十四則」に、「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」という筆者が好きな公案がある。
 南泉(なんせん)と言う禅僧が、修行僧達の対立の根となった「猫を斬り捨てた」という話だ。

 おそらく修行僧達は、“猫に仏性ありや否や” といったようなことを喧々囂々(けんけんごうごう)と論じ合っていたのかもしれない。そこに通り合わせた南泉が、彼等の言い争いの元すなわち “執着” の因となった猫を斬り捨てたというもの。

 この「猫を斬り捨てた」ということに対して、どのように考えるかと言うのが「公案」の趣旨であり、編者の無門慧開(むもんえかい)禅僧の狙いでもある。

 想うに南泉としては、修業僧達に対して、

 『ごちゃごちゃ言う暇があるのなら、己の修行に精を出せ

 と言いたかったのかもしれない。

 あるいは、

 『仏性があるとかないとか「猫ごとき」をもちださなければ論じることができないのか

 と、歯がゆい思いで “なじり” たかったのかも。

 真偽のほどは判らないが、猫を斬り捨ててまで伝えようとしたものがあったことは確か

 ……だが実は、そう言い切ってしまっては身も蓋もない。修業のための「公案」は、実はここからが本当の意味を持つ。

 つまり、南泉が猫を斬ったところから、この「公案」の本当の「問答」が始まると言える。

 そうなれば、その「答え」は無限に出て来ることになる。諸兄もしばし熟考熟慮を……。

 筆者のレベルでは、次のような答えが……。

 

            ★

 『その猫を斬ったところで、猫に仏性ありや否やという論議の執着の元が消えるわけではない』。

 またこうも――、
 
 『その猫を斬っても、猫なるものは他に数えきれないほど同種がいる』。

 さらに――、
 
 『仏性の有無の対象は、同じように犬や猪や鶏という動物にも当てはまる。猫だけに固執するのは無意味である』。

 したがって――、

 『猫は斬るまでもなかったのでは』……と。

            

 無論、稀代の高僧として名高い南泉のこと――。

 『何を今さらそのような小賢しいことを。口に出すのも恥ずかしいわ』

 と一蹴するだろう。南泉は、そのようなことを百も承知の上で、猫を斬り捨てたに違いないのだから
 
 だが、夕刻戻った南泉の高弟・趙州(じょうしゅう)は、「斬られた猫」の話を聴いた後、「頭に草履を載せて立ち去った」と無門慧開は述べている。つまりは、「猫を斬るなど」本末転倒と言いたかったようだ。

 それに加えて、無門慧開も『南泉趙州にかかれば斬り捨てられかねなかった』と、きわどいことを示唆している。

 しかし、南泉は南泉で、草履を頭にのせて立ち去った趙州に対し、次のように言いたいのかもしれない……。いや、是非ともそう言って欲しい……と筆者としては秘かに想うところだ。

 すなわち――、

 『趙州よ。頭の上だろうが鼻の頭だろうが、草履を載せることは至極簡単なこと。三歳の童子にもできるではないか。それよりも、「斬りたくもない猫」を斬らざるをえなかった拙僧の気持ちと、「斬られた猫」の意味を推し量ってみよ』……と。

 いや、こうも――、

 『理由が何であれ、趙州よ。“斬る” というそのことに一瞬でも “心が動かされた” のであれば、それはもう “禅なるもの” がもっとも忌み嫌う “執着” というものではないか。まだそのようなことに囚われておるのか……。いや、お前のことゆえ、まさかそのようなことはあるまいが……』
 
 ……と、そこまで考えてはみたものの、どうもしっくりこない。というより、南泉趙州から鼻であしらわれるような気がしてならない。

 南泉は言うのかもしない――、

 『拙僧がそのような妄言を吐くとでも? それこそお前を斬って捨てたいものだ』

 と物騒なことになりかねない。何とも厄介な問答に迷い込んだものだ。やはりここは「不立文字」たる禅宗の教えゆえ、“沈黙” こそが無難な答えかもしれぬ。

 要するに、『公案には模範解答など一切ない』のである。

 はてさて、諸氏の解答やいかん……。

 

          ★★★ 猫一匹  ★★★

 ――あたくしも、ひと言わせていただくわ。猫を斬るなんて、どうかと思うの。

 猫についてあれこれ論じ合っていた修行僧も修行僧ね。猫は猫、猫以外の何者でもないもの。

 どうして “あるがまま”……“そのまま”に、“猫を猫として” 黙って見ていなかったのかしら。大山鳴動して猫ちゃん一匹を斬っちゃった……ってわけなのね。まあ。可哀そう。……といっても、可哀そうなのは、斬ったお坊様と、その原因となった修行僧と思うの。 

 “浮かばれない” のは猫ちゃんだけではなかったみたい! ああ。やだ❢ やだ❢ 猫ちゃんのをとってあげたいくらいだわ。……ね~え? あなたもそう思うでしょ?

 ねえ? そうでしょ? ねえってば……。聞いてる? 

 え? 何? 黙っているのは、不立文字ってわけなの? ねえってば…… あれっ? 眠ちゃったの?  

 

 ※注: 「無門關」とは中国宋代(西暦1200年頃)に編纂された禅宗の「公案集」ともいえる書物です。著者は無門慧開禅師。「公案」とは、いわば「禅問答」のための問題(設問)ともいえるでしょう。その問題に対する「解答内容」にこそ、解答者の悟りの境地が表れるとされています。




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