ニ十余年前、初めて福井の永平寺に“坐禅修行”に訪れた時の話だ(※註1)。
十人ほどの参禅者の中に、大阪から来た二人の男性がいた。名前は忘れたが、一人は五十歳代、もう一人は二十代の前半だったろうか。二人の会話の様子から、初めは父親と息子と思っていた。
だがすぐに判ったことだが、二人は中小企業の「社長」とその会社の「新入社員」だった。その会社では、毎年、一人の新入社員が社長の“坐禅修行”に同行することになっているという。会社は「機械工具メーカー」のように記憶している。
この社長、名前を『吉田さん』としておこう。とにかく、事あるごとに「指導僧」から叱られてばかりの人だった。指導僧といっても、永平寺では一番末席の“雲水(うんすい)”であり、その年の春に大学を卒業したばかりの、まだ二十三、四歳の若い青年だった。
吉田さんは、ことに食事中に叱られることが多かった。三度の食事のたびに、何か一つは「作法」を間違えていたように思う(※註2)。そのたびに、若い雲水から容赦ない叱声が飛んだ。
――何度教えたらすむのですか。
――本気で修業する気はあるのですか。
最初は気の毒に思っていた他の参禅者も、吉田さんがあまりにも叱られることが多いので、半ば呆れたような受け止め方をしていたように思う。そのため、吉田さんが一度も叱られないまま食事を終えたとき、誰もが心の底からほっとしたものだ。「控室」(※註3)に戻ったとき、だれからともなく小さな拍手が湧き起こった。
最後の夜となった三日目の夕食。その食事でも、やはり吉田さんは作法を間違えて雲水に叱られた。控室に戻ったとき、たまたま眼が合った私に、彼は呟くように言った。
『みなさんには、ご迷惑ばかりおかけして。子供の頃から、とにかく格段に“物覚え”が悪かったものですから……』
“……それなのに、社員何十人もの中小企業の経営者が務まるとは……”。
他の参禅者の偽らざる気持であり、私にしても同じだった。だが“物覚えの悪さ”を滔々と語る吉田さんの表情には、一縷の暗さも卑屈さもなかった。
語り終えた吉田さんは、いつものように「新入社員」の青年と言葉を交わし、自分の練習用にと持ち込んだ「応量器(おうりょうき)」(※註4)を包んだ布を解(ほど)き、作法を再確認するように畳の上に広げた。そこへ別の参禅者が「雲水役」となって、応量器に“食事をつぐ”真似を始めた。
この“真似事”は、食事後の控室での日課であり、吉田さんの食事作法の練習相手を務めることは、参禅者全員の“暗黙の奉仕”だった。