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『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

永平寺の座禅修行(叱られるために―上)

2010年04月14日 19時46分12秒 | ■禅・仏教

 

 ニ十余年前、初めて福井の永平寺に“坐禅修行”に訪れた時の話だ(※註1)。
 十人ほどの参禅者の中に、大阪から来た二人の男性がいた。名前は忘れたが、一人は五十歳代、もう一人は二十代の前半だったろうか。二人の会話の様子から、初めは父親と息子と思っていた。

 だがすぐに判ったことだが、二人は中小企業の「社長」とその会社の「新入社員」だった。その会社では、毎年、一人の新入社員が社長の“坐禅修行”に同行することになっているという。会社は「機械工具メーカー」のように記憶している。

 この社長、名前を『吉田さん』としておこう。とにかく、事あるごとに「指導僧」から叱られてばかりの人だった。指導僧といっても、永平寺では一番末席の“雲水(うんすい)”であり、その年の春に大学を卒業したばかりの、まだ二十三、四歳の若い青年だった。

 吉田さんは、ことに食事中に叱られることが多かった。三度の食事のたびに、何か一つは「作法」を間違えていたように思う(※註2)。そのたびに、若い雲水から容赦ない叱声が飛んだ。

 ――何度教えたらすむのですか。
 ――本気で修業する気はあるのですか。

 最初は気の毒に思っていた他の参禅者も、吉田さんがあまりにも叱られることが多いので、半ば呆れたような受け止め方をしていたように思う。そのため、吉田さんが一度も叱られないまま食事を終えたとき、誰もが心の底からほっとしたものだ。「控室」(※註3)に戻ったとき、だれからともなく小さな拍手が湧き起こった。

 最後の夜となった三日目の夕食。その食事でも、やはり吉田さんは作法を間違えて雲水に叱られた。控室に戻ったとき、たまたま眼が合った私に、彼は呟くように言った。
 『みなさんには、ご迷惑ばかりおかけして。子供の頃から、とにかく格段に“物覚え”が悪かったものですから……』

 “……それなのに、社員何十人もの中小企業の経営者が務まるとは……”。
 他の参禅者の偽らざる気持であり、私にしても同じだった。だが“物覚えの悪さ”を滔々と語る吉田さんの表情には、一縷の暗さも卑屈さもなかった。
 
 語り終えた吉田さんは、いつものように「新入社員」の青年と言葉を交わし、自分の練習用にと持ち込んだ「応量器(おうりょうき)」(※註4)を包んだ布を解(ほど)き、作法を再確認するように畳の上に広げた。そこへ別の参禅者が「雲水役」となって、応量器に“食事をつぐ”真似を始めた。

 この“真似事”は、食事後の控室での日課であり、吉田さんの食事作法の練習相手を務めることは、参禅者全員の“暗黙の奉仕”だった。

   

※註1:『一休の頓知問答(上)』参照。
※註2:食事の作法は、とにかく“こと細かく”決められています。茶道の作法と同じようなものと考えると、その大変さが理解できます。
※註3:ここで寝起きし、また休憩をとった。男性と女性とは、階が異なった「控室」に分けられ、一切行き来することが許されませんでした。また永平寺の敷地の外に出ることは許されず、家族の死亡以外は、電話をすることもその取次も禁止されていました(この時代、携帯電話はありません。あったにしても、無論、使用禁止となっていたでしょう)。
※註4:「応量器」とは「食事用の器」を意味する曹洞宗での呼び方。「入れ子式」の大中小5種類の器を食事の器とするもの。一番大きな器を「頭鉢(ずはつ)」といい、これはご飯やお粥用の器。お釈迦様の頭の形に似せたものとされ、直接口をつけることができません。そのため、「お粥」のときは「匙(さじ)」で食べます。器は本来、無垢の「欅(けやき)」に漆塗りというのが正式のようですが、残念ながら参禅者用はプラスティック製でした。

 



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