ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝かまわぬ〟手拭

2019年08月25日 | 俳句

 今日は一日中家に籠って片付けることをやってしまわねば…とは思っていたのですが、結局まだ済んでいません。一つ片付いたかと思うとまた次のことが湧いてくるんですもの。ということは、私が早くに済ましておくことをせずに溜めていたからなんですが…エヘッ

 月末の忙しさはいつものことで、大体頭の中に私なりのスケジュールは立てているんですよ。ところがここに突発的なことが入るともういけません。いつになったらこの状態から開放されるのか…ということはまあ今の私の暮しではあり得ないでしょうが。

 先日、宇部興産の株主総会へ行ったとき、お土産の中に〝手拭〟が入っていました。今まで無かったものですが、なんで今さら手拭なんかと思いました。もちろんタオルとは違う、要するに日本手拭ですよ。主人が面白がって、東北旅行のおまつりに行くとき、これを頭に巻いて、そう、捻り鉢巻きで見に行こうと持っていったのですが…その手拭が〝かまわぬ〟の手拭だったんです。

 東京の手拭専門店が〝かまわぬ〟という面白い名前だとは聞いたことがあったのですが…詳しくは知りませんでした。

 〝かまわぬ〟の意味由来は、鎌と輪の絵に「ぬ」の文字を合わせて「かまわぬ」と読む判じ絵で、 江戸時代元禄の頃、町奴(まちやっこ)達が好んで身につけていたんですと。その後歌舞伎役者の七代目市川団十郎(1791~1859)が舞台衣装に用いて、当時の庶民の間で大流行したと言われているそうです。その手拭専門店「かまわぬ」は「特別に何のお構いも出来ませんが 気軽にお立ち寄り下さい」という意味も込めていて、「手拭を売ること」だけが目的ではなく、手拭など古き良きものを新しい感覚で取り入れ提案していき、 また手拭や晒を使った和雑貨、遊びのある雑貨を展開し、人々が心地よく楽しい生活をおくるためのお手伝いをしていきたいと考えていますと、説明に書いてありました。

 確かに日本にはよき伝統の一つとして、手拭や風呂敷という便利な物がありましたが、それが廃れてもう久しいことですよね。でもこれらはホントに便利なものだと思います。コンパクトでかさばらないし、いろいろと応用が利くというものはそうそうはありませんもの。このかまわぬの手拭に付いていたチラシにも、その用法が絵入りで書いてありました。①拭く ②掛ける ③被る ④包む ⑤飾る ⑥おしぼりやランチョンマット ⑦贈り物 ⑧汗拭き などなど…

 そこで、ちょっと興味が湧いて、手拭や風呂敷などが詠まれている俳句を探してみましたら…ありました。『増殖する俳句歳時記』に次のような句が…。鑑賞もそのまま引用させてもらいましたので、どうぞ。なかなか意味深いものがありますよ。

  夏近き吊手拭のそよぎかな        内藤鳴雪

夏近しは夏隣りとともに、そのとおりの晩春の季語です。吊手拭(つりてぬぐい)は今は見かけられなくなりましたが、それでも地方の古い民宿などに泊まると、突き当たりの手洗い横に竹や木製のハンガーにつるされている日本手ぬぐいを見かけます。内藤鳴雪は正岡子規と同郷松山の先輩であり、俳句は子規に教わりました。明治時代は、戸締りも通気もゆるやかで、外の風や香りや虫を拒 むことなく家のなかにとり入れていたのでしょう。「吊手拭のそよぎ」が、外の自然をゆるやかに受けとめていて、現代住宅の洗面所のタオルには全くない風情を伝えています。タオルはタオルという名詞ですが、吊手拭は、「吊り、手を拭う」で、動詞を二つふくめた名詞です。手拭、鉢巻き、風呂敷、前掛けなど、かつて生活の場で使われていた名詞には具体的な行為が示されていて、それが人の体とつながりのある言葉としてやわらかくなじみます。木村伊兵衛の昭和の写真にノスタルジーを感じるのに似て、「吊手拭のそよぎ」という言葉は、明治という時代のゆるやかな風を今に運んでくれています。『日本文学大系95 現代句集』(1973)所載。(小笠原高志)

  師走妻風呂敷にある稜と丸み       香西照雄

稜は「かど」と読ませる。句意は明瞭。師走の町から、妻が風呂敷包みを抱えるようにして帰ってきた。正月のためのこまごました物を買ってきたので、包みのあちこちに角張っているところと丸みを帯びているところが見える。師走の買い物の中身のあれこれを言わずに、風呂敷包みの形状から想像させる手法が面白い。ところで「師走妻」とは年越しの用意に忙しい妻のことだろうと、誰にも見当はつくのであるが、いかにも「腸詰俳句」といわれる草田男門らしい独特の表現方法だ。「萬緑」系の句は内容先行型で、このように、いささか描写的な優美さには欠ける場合があるのである。それこそ、この句の風呂敷包みさながらに、ゴツゴツしてしまう。それを好まない人もいるけれど、少なくとも若年の私には、それゆえに草田男一門の句に夢中になれたのだった。(清水哲男)

 明日明後日と句会が続きますし、原稿も溜まっていますので、まだまだのんびりとはできません。写真は、我が家の〝ジンジャーの花〟です。やっと咲きました。でも、これは初秋の季語ですから、今時咲くのが当り前なんですよね。

 


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