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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

大野晋の日本語相談

2024-06-12 19:00:35 | 読んだ本
大野晋 1995年 朝日文庫版
これは今年5月の古本まつりんときに均一棚で見つけて買ったもの、この「日本語相談」は、丸谷才一版大岡信版井上ひさし版と持ってるんだが、これでとうとうコンプリートしてしまった。
(実は、手に取ろうとしたときに、あれれ、持ってなかったのは大野晋だっけ大岡信だっけと一瞬あやふやだったんだけど。)
(どうでもいいけど、ほかのは「朝日文芸文庫」って書いてあるんだけど、これは「朝日文庫」だ、どうして? 1999年の第2刷だから何か変わったのか。)
初出はほかのといっしょで1986年から1992年にかけての「週刊朝日」連載で、読者からの質問に答える形なんだけど、本書には「東京都・野坂昭如」という読者からの質問がシレっと載ってたりしておもしろい。
ちなみに質問内容は、外出時にばったり妻と会ったとき「今日は」とあいさつしたら、他人行儀だとか妻の友人に笑われてしまった、「こういうとき、何といえばよろしいのでしょうか。歴史的にみて、外で思いがけず連れ合いに出くわした時、いかが挨拶していたものか、御教示賜わらば幸甚です。」(p.251)というもの。
これに対する回答が、古代から日本は通い婚で男が女の家に夜に行った、室町時代から嫁入り婚になってからは女は家のなかをとりしきることになった、戦前までこれが続いたんで、「外で思いがけず連れ合いに出くわす」というシチュエーションは歴史的になかった、よってそのようなときの挨拶の言葉もなかった、っていうんだけど、なるほどだ。
そういうのにかぎらず、大野晋さんの回答は、よく歴史的なこと知ってたうえでのことなんで感心する、まず自分の感覚でもって説明済ましちゃおうってことはない。
言葉のつかいかたなどについて質問には、出典をもちだしてきて答える。
古いものでは、万葉集にこういうのがあるとか、源氏物語にこういう例が、枕草子にはこのような箇所があるとか、って実例を示す。
近代以降では、森鷗外、夏目漱石、芥川龍之介、志賀直哉、太宰治といったところが、作品のなかで実際にそういう言葉を使ったかどうかを具体的に示す。
(どうでもいいが、「~みたい」ってのを鷗外、芥川、志賀はほとんど使わず、漱石はわりと使ってたとかおもしろい。)
やっぱ、このあたりが辞書を編纂するひとなんだろうな、という気がする、言葉の意味ってのは辞書つくるひとが決めることぢゃなく、実際の例文を集めてるなかで見せることだってのは、『博士と狂人』とか読んだときに学んだ、説明するのに都合のいいような例文を勝手に自分で作って提示するんぢゃダメなんだよね。
それにしても、単にこの単語をどう使うとかって話ぢゃなくて、日本語の文法の根本的なとこ解説してる項目があると、それはとても勉強になる。
たとえば、バスを待ってて、バスがやってくると、「バスが来た」と言う、まだ到着してないんだから「バスが来る」と言いそうなものだが何故、って話。
これは「時」をとらえることについて、人がそれぞれの言語でどのような「型」を成立させているか、っつー深遠なテーマにつながってる。言語によって微妙にちがうので、英語の現在完了とか教わっても日本の中学生はピンとこないようだとか。

>さてこういう、過去のこと、動作の進行の具合などについて、日本の古典語は六つの「型」を持っていました。
>(1)キ 過去にあったと、よく覚えている確かなこと。「恋ひつつをり
>(2)ケリ 気がついてみると、そうだなと思うこと。「遊男(ひやびを)に我はありけり
>(3)リ 今も状態がそのまま続いていること。「梅の花咲けを見れば」
>(4)ツ 作為的な動作が進んで完了したこと。「花たちばなを土に散らし
>(5)ヌ 自然的な作用や状態が成立・完了したこと。「物思ひ痩せ
>(6)タリ(これは広く、下二段活用、上二段活用、上一段活用などにもつくものでした) (イ)今も状態がそのまま続いていること。「妹が見し髪、乱れたりとも」 (ロ)その動作・作用が完了した結果が残っていること。「庭もはだらに、み雪降りたり
>『万葉集』も『源氏物語』も『平家物語』も、この区別を保っていたのですが、室町時代の戦乱と下克上という社会変革によって、古典語の文法体系は大混乱におち、その結果、江戸時代に入って、社会に秩序が回復したとき、(1)と(2)の区別は失われて共に消え、(3)は(6)に吸収されました。(略)
>(4)と(5)とは他動詞につくか、自動詞につくかで分かれていましたが、両方とも消えました。その結果室町の末には、(6)だけが生き残ったのです。というのは、(6)は(4)のツの活用形のテと(3)のもととなったアリとが融合した言葉なので(略)、(3)と(4)の意味を兼ねています。
>だからこれ一つでいろいろの場合に間に合うのでした。従って当時の言語の教養の乏しい人びとは、もっぱら(6)を愛用して、タリ一つで万事間に合わせたのです。
>その結果、過去や完了を表すには、江戸時代以後、タリの子孫のタがひとり幅をきかすに至りました。ですから、タを単に過去の助動詞と思い込んではいけません。タは(3)と(4)の意味を引き受けていますから、完了とか、確定とかの意味を含んでいるのです。(p.353-354)

という、すさまじき解説を経て、「バスが来た」ってえのは、バス待ってた人が車両が視界に入ったことを確認して安心、喜ぶ気持ちを表してるんだという、そうか、そうなんだ。
ほかに係り結びの解説においても、
>係り結びには次の三種があります。
>(1)ハ・モの係り……終止形で結ぶ。
>(2)ゾ・ナム・ヤ・カの係り……連体形で結ぶ。
>(3)コソの係り……已然形で結ぶ。
>(略)世間では(2)(3)だけを誤って係り結びといいます。
>つまり(2)と(3)の文末が変形するという点だけが強調されていますが、(1)(2)(3)の助詞は実は、他のノ・ガ・ヲ・ニ・ダケ……などの助詞とは本質的に違った役目をになうのです。(略)
>英語では主語―述語によって文が成り立つといいます。ところが、日本語の文を成り立たせ、文の性質を決定する役目は、(1)(2)(3)の助詞が果たします。これは英語とはちがったシステムなのです。(p-157-158)
というような説明から、係り結びってのは、断定とか疑問を表すゾとかカを文末におかずに倒置して、強い断定とか強い疑問を表すようにしたものなんだと、ってことで質問者の「文中で文末を決めてしまう言い方するのはどうして」ってのに答えてます。
なかでも英語とはちがって、日本語の文の性質決めるのは助詞だ、ってのは学校の国語の授業ぢゃたぶん教えてくれなかった、すげえ大事なことで、とかく古文なんかで、どれが主語でどれが述語で目的語はどれなんだみたいに考えちゃうのは見当違いだったって気がする、だって主語なんて書いてるとはかぎらないんだもん(笑)、それよか、この助詞とか助動詞みれば、誰から見た誰の動作かわかるでしょ、とかってふうに教えてほしかったな。
あー、なんか『日本語で一番大事なもの』を読み返さなきゃならなくなってきた気がする。
「秋も深まってきました」っていうけど、どうして春も秋もっていうわけぢゃないのに「秋が」ぢゃないのか、とかね、助詞のはたらきは大事。
そのあたりを、そーゆーもんだよ慣用表現なんだしとか言わず、「モ」と「ガ」や「ハ」の違いをあげて、真っ向から文法のことわりとして説明してくれる本書を、読むことができたのは、幸せだといっても大げさぢゃあない。

細かいことはともかく、本書では二つほど私が大きな感銘を受けたQ&Aがありました。
ひとつは、学校で古文を学ぶんだけど、現代の言葉と意味がちがう場合もあるし、昔つかってた言葉はそんなに重要なんだろうか、勉強する意味あるのかって問い。
>現代だけを見て生きていくのではなくて、ためしに、過去を振り返ってみましょう。
>人間が文字を獲得したのは、何百万年の人間の歴史の全く終わりのほう、つまり現代に近接した、ごく短い時間、わずか数千年のことであるのがわかります。
>ですから人間は、文字など読んだこともなく、書いたこともなく、一生を生きて終わった人々のほうが、はるかにはるかに多かったのです。
>ところがこの、文字など全く知らない人々も、みな言葉によって神に祈り、恋の歌を歌い、集まっては英雄の物語を聴いて生きてきました。人間は本来的に、そうしたことを求めて生きる存在のようです。
>長い長い人類の時間の経過の後で、文字を発明した人が現れました。それが正確な伝達に役立つことに気づいて、人々はそれを学び、自分たちの言葉を書く歓びと大切さを知りました。(略)
>(略)単に現代日本語が使える人間であるというだけでなく、全日本語の分かる人間、現代日本語の基礎となり、日本人の心の記録、物語の歴史を書きとめてきた、立派な古典日本語も分かる人間。若い人々をそこへ行かせたい。そういう考えで古文・漢文の時間が高等学校に置かれているのだろうと思います。(略)
>(略)これらのもの、日本人が産み出した言語的な遺産が理解できる豊かな心の人間になるように、それらの言葉を学ぶこと。それが古文・漢文の時間なのです。(p.73-76)

もうひとつは、日本語の文法はなんのために学ぶのか、学んでどう生かせというのか、動詞の活用とか教わっても、こんなこと知らなくても日本語は話せると思うって問い。
>世界には現在、自分の名前も書けない、一字も読めない、足し算も全くできない人が十億人ぐらいはいるようです。その人たちも毎日言葉を話して生活しています。話すだけのことなら人間は大人になるにつれてできるようになります。文法なんか学ばなくても日本語は話せるわけです。(略)
>文法とは、言葉の持つ仕組みを見つけ出して、その一つ一つの項目を文章にしたものです。人々が反射的に、無自覚的に使っている日本語の仕組みを明らかにして、自覚的に使っていくようにしようと学習するのが日本語の文法です。(略)
>「昔、うちの庭に桜の木があった」といえば過去のこと。しかし探し物が「あった!」と叫べばそれは現在のこと。どうして同じ「あった」を過去にも現在にも使うのか。
>こうした文法のことにあなたはお答えになれるでしょうか。
>実はこの(略)例の背後には、日本人の物のとらえ方、表現の仕方についての大きい問題がひそんでいます。文法とは本来、そういうところに入っていって、言葉の世界を明るくしようとするものなのです。(略)
>私は何年間か日本語を勉強して来ましたが、日本語の学問には発音のこと、単語のこと、方言、古文、いろいろあります。その中で文法の研究をしているときに感じることがあります。それは、日本語の文法というものは、実に整然としているな。この整然たる文法に従って言語を使う基礎となっている日本人の頭というか心というか、むつかしくいえば理性は、根底で実にしっかりと秩序立っているな、ということです。それを見ると、「日本人」と「日本語」について、ある信頼と安心を私はいだきます。(p.45-48)

うーん、中学、高校んときの俺に教えてやりたい。

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