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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

最後の晩餐

2014-05-08 20:48:37 | 読んだ本
開高健 1982年 文春文庫版
食に関するエッセイ集。もとは、「諸君!」って月刊誌で昭和52年から2年間連載したものらしい。
「あさめし・ひるめし・ばんめし」ってアンソロジーを読んだときに、これの第一章が入ってて、それがとても気になったので、先日古本屋で買い求めた。
そんじょそこらの食べものの味を語ったものとちがって、著者の体験とか表現とかがただものぢゃなくて、やっぱおもしろかった。
食いものについて、二、三気に入ったところを挙げてみると、
>(略)日本人の味覚と創意はなかなかのものであるのに中華料理とモツ料理についてはまるでミミズのように眼もなく耳もないかのようである。日本式中華料理の堕落はいくつでも特徴をあげることができるけれど、筆頭のソレはやっぱりむやみに砂糖をほうりこんでドタドタと甘くしてしまうことだろうし、香辛料の香りの角がたっていないことだろうし(略)
>何も私は雲上の珍羞(ごちそう)のことをいってるのではなくて、誰もが食べられるスブタのことをいってるのですよ。話はスブタなんだ。スブタ。
(「自然に反逆して自然へ帰る」から。)
なんてのとか、
>肉体の疲労には糖分という原則があって、(略)私は、いつか、アメリカ製のフルーツ・カクテルの缶詰と日本製のミツマメの缶詰を山奥でつぶさに食べくらべてみたことがあるが、その繊妙、その巧緻、たくらみの深さと、思いやりのこまかさ、一も二もなくミツマメに指を折った。(略)背骨をたてて肉体を酷使に酷使しなければならないあらくれ時にはミツマメを忘れてはいけない。エベレストやアマゾンにいくときは必須の携行品である。(略)
(「大震災来たりなば」から。)
なんてえのは、傾聴に値する。
あと、
>(略)大半のわが国のドリンカーたちは陳年の日本酒が高級ドライ・シェリーにそっくりの逸品に変貌するということを知らないでいることをしいられているけれど、三年でもいい、五年でもいい、七年でもいい、まったりと冷暗な場所で寝かせてやった日本酒は竹林のなかの童女のように淡麗で、声を呑みたくなるのである。(略)いずれ私は日本酒の“オールド”が少しずつ巷に顔をだすようになるのではないかとニラんでいるが、それまでは忍である。(略)
ってのを読むと、一向に日本の酒文化は、そういうことに気づく方向にいかないんだなあと思って、残念である。
それにしても「竹林のなかの童女のように淡麗」、なかなか言えることぢゃない。
作家なんで、ときどき食卓と文学をならべて評する場面もあるんだけど、そういうのもなかなかいい。
たとえば、日本国内でのスパイ小説があまり豊かぢゃないことについては、
>ヴィーナー・シュニッツェルからトンカツを創案し、それのつけあわせにキャベツきざみを添えるという非凡の妙手を編みだし、さらにカツ丼というあっぱれな異種へそれを発展させ、ついでにショウガ焼きという奇手まで考えだした料理人の職人感覚とくらべると、わが国のパルプ作家の怠慢はどう罵られても反論のしようがない
とかね。(「スパイは食いしん坊」から。)
>文学作品も、ほんとの名作というものは、読後に爽快な無か、無そのものの充実をのこし、何も批評したくなくなる。これは素人だましにいいけれど、読み巧者の玄人はだまってそっぽ向いてにがりきった顔をしている。だから問題作はおしつけがましいが、名作にはつつましやかさがある。
ってのも、文学の話をしているようで、本題は、
>かねがね、私、食べれば食べるだけいよいよ食べられる御馳走ははいものかしらと、夢想していた。(略)
>(略)食べるあとあとから形も痕もなく消化されてしまっていいくらでも食べられ、そして眠くならないというのがほんとの御馳走というものではあるまいかと思うのである。(略)食後に爽快な無か、無そのものの充実をのこしてくれる御馳走を食べてみたい。何とかならないものか。
ということと引っ掛けてのもの。(「王様の食事」から。)

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