百目鬼恭三郎 昭和五十九年 新潮社
これまでいくつか読んだ百目鬼恭三郎さんの本なんだけど、タイトルから、まあ書評集だろうと見当つけて、ことし6月ころに買い求めた古本。
(なんたって、以前読んだ『現代の作家一〇一人』とか『風の書評』がおもしろかったからねえ。)
読んでみると、全然気楽な感じぢゃなくて、読書人ってのはずいぶんと専門的なひとを指すんだな、と思わざるをえない感じ。
書評だったらひとつの章で一冊をとりあげてになるんだろうけど、本書はテーマごとに、これ読みなさい、こんな本もあるよと、これでもかってほど書名が出てくるんで、どれがおもしろそうとかって感じにならない。
しかも、いま書店にある最近書かれた本の話ぢゃなく、近世とか近代の本から読まなくちゃいけないらしく、それって文献じゃんって気にさせられる。
それと、わりと序盤を読んでるうちから、専門の書店で探す必要あるとか、絶版で品切れだとか、古本でもすごい高価だとか、入手困難みたいに書かれてること多いんで、なんだよー無理なら教えてくれなくてもいいよー、と思ってしまう。
まあ、最初のところは日本の古典に関してだから、しょうがないのかもしれないけど、ちなみに個人の歌集である私歌集を読むってのは探してくるのが大変って話のなかで、
>これも結局は、万葉以外は歌でないという近代以来のまちがった短歌観のせいなのだろうが、こんな断絶をそのままにしておくのは、日本文化にとって大きな不幸である。(p.28)
なんて言ってます、これって正岡子規の影響デカ過ぎって話につながるんだろうねえ。
それにしても、万葉集にしても古今集にしても古典の和歌を読もうとは思わんなあ、ちなみに著者は、百人一首から始めるのがいい、とは言ってますが。
後半戦になって出てくる、探検記とか伝説とか伝記とかってのなら、読んでみてもいいかなって気にすこしなってくる。
どうでもいいけど、中国の古典で論語についての話題のなかで、
>このように古い言語は、吉川幸次郎が『古典への道』でいっているように、どうせわかりっこはないのだから、それよりは、注釈者が『論語』についてどう考えたかということのほうが重要であるのかも知れない。そうだとしたら、あれこれ諸説を対処的に取り入れているだけで、注釈者の『論語』観が一向に見えない注釈はだめだということになろう。(p.174)
とか言ってたりして、「どうせわかりっこはない」ってのも潔いんだけど、注釈がよくないとダメってのは日本の古典といっしょで、そうはいってもシロウトにはどんな注釈ならいいかってのは見抜くの容易ぢゃないなあ。
コンテンツは以下のとおり。章のタイトルのあとの一文は本書目次にあるもの。
日本の古典(I)
『万葉集』や『源氏物語』から読み始めるのは感心しない。まず『百人一首』から入るのが一番。
日本の古典(II)
全集・叢書のどれかひとつを揃えて、安心してはいないか。いい本がずいぶん抜け落ちている。
飲食の本
日本酒なら坂口謹一郎『日本の酒』、中国の食物なら篠田統『中国食物史』、ワインならアレック・ウォー『わいん』……。
歌舞伎の本
芸談集『役者論語』は玄人向きだが、素人にも面白い。『舞台観察手引草』は評判通りの名著。
旅の本
江戸期のものは各地の風俗を伝えて興味深い。斎藤茂吉『ドナウ源流行』、チェーホフ『シベリアの旅』は落とせない。
探検記と地誌 日本編
探検記は数少ないが、そのなかで注目すべき作品は、地誌を知る手掛りは吉田東伍『大日本地名辞書』が随一。
探検記と地誌 外国編
ヘロドトス『歴史』、クラヴィホ『チムール帝国紀行』、ムアヘッド『白ナイル』『青ナイル』など、名著傑作は数え切れない。
神話
ギリシア神話は勿論、日本、中国、インド、古代オリエント、北欧の神話の知識もひと通り知っておきたい。
伝説と昔話
日本の聖徳太子伝説や源義経伝説、外国のトリスタン伝説やドラキュラ伝説やドン・ファン伝説をもう少し詳しく知るには。
中国の古典(I)
日本の古典に親しむためには、中国の古典は避けて通ることができない。まず『論語』を含む経書を。
中国の古典(II)
詩・史書・怪奇譚には読むべきものが多い。なかでも、人物を生々と描き出した『史記』の面白さは類がない。
伝記
自伝なら長谷川伸『ある市井の徒』、タイ・カップ『タイ・カップ自伝』、伝記ならジョン・オーブリー『名士小伝』などは実に楽しい。
辞書
『日本国語大辞典』と『大漢和辞典』があればもういいというものではない。役に立つ小さな辞書がどうしても必要である。
これまでいくつか読んだ百目鬼恭三郎さんの本なんだけど、タイトルから、まあ書評集だろうと見当つけて、ことし6月ころに買い求めた古本。
(なんたって、以前読んだ『現代の作家一〇一人』とか『風の書評』がおもしろかったからねえ。)
読んでみると、全然気楽な感じぢゃなくて、読書人ってのはずいぶんと専門的なひとを指すんだな、と思わざるをえない感じ。
書評だったらひとつの章で一冊をとりあげてになるんだろうけど、本書はテーマごとに、これ読みなさい、こんな本もあるよと、これでもかってほど書名が出てくるんで、どれがおもしろそうとかって感じにならない。
しかも、いま書店にある最近書かれた本の話ぢゃなく、近世とか近代の本から読まなくちゃいけないらしく、それって文献じゃんって気にさせられる。
それと、わりと序盤を読んでるうちから、専門の書店で探す必要あるとか、絶版で品切れだとか、古本でもすごい高価だとか、入手困難みたいに書かれてること多いんで、なんだよー無理なら教えてくれなくてもいいよー、と思ってしまう。
まあ、最初のところは日本の古典に関してだから、しょうがないのかもしれないけど、ちなみに個人の歌集である私歌集を読むってのは探してくるのが大変って話のなかで、
>これも結局は、万葉以外は歌でないという近代以来のまちがった短歌観のせいなのだろうが、こんな断絶をそのままにしておくのは、日本文化にとって大きな不幸である。(p.28)
なんて言ってます、これって正岡子規の影響デカ過ぎって話につながるんだろうねえ。
それにしても、万葉集にしても古今集にしても古典の和歌を読もうとは思わんなあ、ちなみに著者は、百人一首から始めるのがいい、とは言ってますが。
後半戦になって出てくる、探検記とか伝説とか伝記とかってのなら、読んでみてもいいかなって気にすこしなってくる。
どうでもいいけど、中国の古典で論語についての話題のなかで、
>このように古い言語は、吉川幸次郎が『古典への道』でいっているように、どうせわかりっこはないのだから、それよりは、注釈者が『論語』についてどう考えたかということのほうが重要であるのかも知れない。そうだとしたら、あれこれ諸説を対処的に取り入れているだけで、注釈者の『論語』観が一向に見えない注釈はだめだということになろう。(p.174)
とか言ってたりして、「どうせわかりっこはない」ってのも潔いんだけど、注釈がよくないとダメってのは日本の古典といっしょで、そうはいってもシロウトにはどんな注釈ならいいかってのは見抜くの容易ぢゃないなあ。
コンテンツは以下のとおり。章のタイトルのあとの一文は本書目次にあるもの。
日本の古典(I)
『万葉集』や『源氏物語』から読み始めるのは感心しない。まず『百人一首』から入るのが一番。
日本の古典(II)
全集・叢書のどれかひとつを揃えて、安心してはいないか。いい本がずいぶん抜け落ちている。
飲食の本
日本酒なら坂口謹一郎『日本の酒』、中国の食物なら篠田統『中国食物史』、ワインならアレック・ウォー『わいん』……。
歌舞伎の本
芸談集『役者論語』は玄人向きだが、素人にも面白い。『舞台観察手引草』は評判通りの名著。
旅の本
江戸期のものは各地の風俗を伝えて興味深い。斎藤茂吉『ドナウ源流行』、チェーホフ『シベリアの旅』は落とせない。
探検記と地誌 日本編
探検記は数少ないが、そのなかで注目すべき作品は、地誌を知る手掛りは吉田東伍『大日本地名辞書』が随一。
探検記と地誌 外国編
ヘロドトス『歴史』、クラヴィホ『チムール帝国紀行』、ムアヘッド『白ナイル』『青ナイル』など、名著傑作は数え切れない。
神話
ギリシア神話は勿論、日本、中国、インド、古代オリエント、北欧の神話の知識もひと通り知っておきたい。
伝説と昔話
日本の聖徳太子伝説や源義経伝説、外国のトリスタン伝説やドラキュラ伝説やドン・ファン伝説をもう少し詳しく知るには。
中国の古典(I)
日本の古典に親しむためには、中国の古典は避けて通ることができない。まず『論語』を含む経書を。
中国の古典(II)
詩・史書・怪奇譚には読むべきものが多い。なかでも、人物を生々と描き出した『史記』の面白さは類がない。
伝記
自伝なら長谷川伸『ある市井の徒』、タイ・カップ『タイ・カップ自伝』、伝記ならジョン・オーブリー『名士小伝』などは実に楽しい。
辞書
『日本国語大辞典』と『大漢和辞典』があればもういいというものではない。役に立つ小さな辞書がどうしても必要である。