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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

日本人は思想したか

2021-06-26 18:38:03 | 中沢新一

吉本隆明・梅原猛・中沢新一 平成十一年 新潮文庫版
ことし2月だったか、街の古本屋で見かけて買ってみた、読んだの最近。
むずかしいテーマのような気もしたが、鼎談だというので、わかんない言葉とか少ないだろうと思ってのチャレンジなんだが、脚注もいっぱいついてたりして、読むのに苦労はしなかった、ほんとに意味理解できてるかは自信ないけど。
冒頭で、「日本の思想とはいったい何なのだろうか」ということを語るに、「いま」いろんなもののサイクルが終わっていくので、いい時期ぢゃないかみたいに中沢さんが言ってんだけど、それは初出「新潮」の平成6年くらいのこと。
最初は国家とか近代とか言われてもなんか漠然としてわからんなあと思ってたんだけど、文学がからんでくる話はおもしろい。
和歌の発生についての考察で、異質なものが出会ったときに第三のものとして短歌の「喩」が発生するってのもおもしろいけど、なんで七五調なのかということについて、梅原さんが万葉集より前の「記紀」の歌謡では韻律は一概に定まっていないとして、
>そういうふうに考えると、律令社会の成立ということと、七五調の歌の成立というのはつながっているんじゃないかという気はしますね。だからやはり、五言絶句とか七言絶句とかいう、中国の詩を意識したのではないでしょうか。(p.162)
みたいに言っている。
梅原さんの立てるいろんな説は興味深くて、『古事記』は歴史書ぢゃなくて、歴史を題材にした歌物語ではないか、ってのは刺激的で、さらに原作者は柿本人麿だって言われるとすごいなと思う。
もともと「日本神話には(藤原)不比等の政治哲学によってつくられたフィクションが多い」と考えてたらしいが、『古事記』には歌が多いので、人麿とかそれより前からの伝承が引き継がれている物語なんではないかと。
それに比べて、歌をほとんどカットして編集されてる『日本書紀』については、政治的色彩が強くて、
>だからね、神話のところがいちばん政治的なんです。天照と元明をイコールにしている。そして、持統から文武へ、元明から聖武へという、祖母から孫への皇位継承を絶対化しよう、そういう思想があるんですよ。(p.181-182)
と言ってくれてるところでは、目からうろこが落ちた気がした、そうだったのか。
さて、時代が下がってくうちに、非政治の文学がいつ成立したか、という議論になるんだが、これについても梅原さんが明快な論を展開していて、
>私はやっぱり『古今集』だと思うんです。『古今集』の序文、真名序に、政治の価値はひとときだ、いま栄えている人も死ねばすぐ忘れられていく。それに対して文学は千古の価値がある、ということが書かれている。人麿も和歌の聖というふうにそこでとらえている。そこが面白い問題で、『万葉集』で「万葉」、つまり永遠ということは政治的な圧力で死んだ人間がむしろ永遠だ、反政治の文学が永遠だと。ところが『古今集』の序文で言っていることは、もう政治はやめる、これは価値が少ない、文学そのものが永遠だ、ということになっている。(略)紀貫之がそういうことを考えた背景には紀氏の政治的敗北がある。紀氏はもう文学で生きるよりしょうがないという気持ちがあるんです。(p.195)
と言っている、学校の国語の授業の文学史もこういうこと教えてくれればいいのにとマジ思った。
ほかに文学については吉本さんが『源氏物語』について、文化として日本には春夏秋冬があるんだと初めてきちっと言ったのは『源氏物語』だという、現実の日本列島は南のほうは常夏的で、北のほうは秋と冬だけみたいなのに、
>つまり光源氏が花散里夫人をこっちの冬の庭のところに置いてとか、夏の庭のところに置いてとか、庭を四つに区切って、春の庭には自分がいてとか、そういう区切り方をしちゃう。庭を全部、四季の花で代わりばんこに移るようにつくるみたいな。だから桂離宮の原形なんでしょうけれども、そういうのを『源氏物語』が初めてつくってるわけです。四季感をつくっちゃってるということが僕はものすごく重要な感じがするんです。(p.198-199)
なんていうふうに言って、四季の世界をつくったのは偉大だとしている、だからってそれ以外は文化から外されたような気がするのは不服だとも言ってるけど。
もっと時代が下がっての、仏教と音楽的芸術の話のとこでは、中沢新一さんが浄土教は日本のプロテスタントだとたとえて、
>浄土教自体がもともと音楽的ですよね。(略)比叡山でやっていた声明はメロディーですよね。きれいなメロディーでやっていたのが、浄土教になるとリズムになっちゃう。
>(略)なぜドイツ音楽が発達したかといったら、それはプロテスタントが視覚美術を否定したからですね。ドイツ人は視覚芸術を封殺されてしまったので、全エネルギーを音楽に向けていった。そしてその中から、バッハが生まれベートーヴェンが生まれた。これがプロテスタントだとしたら、日本でもちょうど同じことが起こったんじゃないでしょうか。(p258)
って調子で、やっぱ学校の授業では教えてくんないような視点をみせてくれて、音楽に合わせた語りって文化ができてくときの仏教の重要性に気づかされる。面白い本だ。
コンテンツは以下のとおり。
1 日本人の「思想」の土台
 「日本思想」という言葉の意味
 ヘーゲル的な国家間への抵抗
 アイヌ・沖縄・本土を繋ぐもの
 近代主義の限界点
 技術の本質と自然
 この世とあの世から見る目
 日本語という遺伝子
2 日本人の「思想」の形成
 ギリシャ思想と日本思想のはじまり
 行基の重要な役割
 「天つ罪」と「国つ罪」
 「十七条憲法」の背景
 「山の仏教」の精神
 国家も文字もつくらない文化
 稲作は城壁をつくる思想に似合わない
 本居宣長の国学について
 古代の怨霊を見失った近世合理主義
3 歌と物語による「思想」
 和歌の発生について
 『古事記』は歌物語
 国家神話のつくり方
 ファルス『竹取物語』
 非政治的文学はいつ成立したか
 『源氏物語』の四季感が桂離宮の美学
 「幽玄」の持続と解体
 『今昔物語』以降の無定形な世界
4 地下水脈からの日本宗教
 「毛坊主」の系譜
 親鸞は聖徳太子の生まれ変わりか
 死んで甦る「思想」の展開
 法然のデカルト的思考
 多神教と一神教の起源
 縄文的な宗教心と踊りや芸能
 正統派仏教と日本思想としての仏教の臨界点
 怨霊鎮魂も日本人の宗教
5 「近代の超克」から「現代の超克」へ
 京都学派による哲学の誕生
 「近代の超克」の影響力
 自己愛と分裂性パラノイア
 人間中心主義の限界
 柳田・折口の対立点
 超近代小説の可能性
 危ないところで生きる


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