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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

広辞苑の神話

2023-05-25 18:42:45 | 読んだ本

高島俊男 2003年 文春文庫版
「お言葉ですが…(4)」ということで、ときどき読んでる『お言葉ですが…』のシリーズの四冊目、昨年末ころに古本を買い求めといて、読んだのは最近。
初出は「週刊文春」の1998年から1999年ころで、2000年に単行本で出たときのタイトルは「猿も休暇」だそうだ、ちなみに「猿も休暇」というのは日本人が英語で「サーモンとキューカンバー(きゅうり)」の料理を頼むときに、そう発音すると通じるって話。
「広辞苑の神話」てのは、広辞苑の新しい版が出るときに新たに載せる言葉が話題になったりすんだけど、
>それにしても不思議だねえ。広辞苑はなんでこんなにエライのだろう?
>広辞苑と同程度の規模の中辞典はほかにもある。(略)
>これらあまたの中型辞典のなかで、広辞苑だけがおかみから御朱印状をいただいているわけでもないし、ズバ抜けて出来がいいというわけでもない。(略)
>結局、広辞苑神話は岩波神話なのでしょうね。
>戦後のインテリの岩波に対する信仰は、なかなかたいそうなものであった。知性と進歩のシンボル。『世界』を読んでないとハバがきかなかった。(p.28-30)
と、広辞苑に書いてあることは全部正しいと思い込むのは盲信っつーもんだ、みたいなスタンスから問題にしているもの。
べつの章で、広辞苑がなんでも正しいと思ってるらしきひとをやっつけてるのがあって、太宰治作品の文庫本の注釈をつくってるはいいけど、広辞苑の丸写しだろがと見抜いて、
>(略)意味がわからないので頼みのつなの広辞苑をひいてみたら、(略)これをそのまま拝借したのだが、この広辞苑の説明もヘンだねえ。(p.113)
みたいに揶揄してる、文学作品に注をつけるのなら、辞書に載ってるどおりぢゃなくて、物語の時代とか舞台になってる土地とかに即して説明しろよ、と。
以前に読んだもののなかにも、まちがった漢字を使うななんて言ってんぢゃない、純然たる日本語は漢字で書くこたあない、って主張があったんだけど、今回もそういうのはあって、たとえば読者から質問がきてる例として、
>「かえる」ということばは、「変える」「代える」「換える」「替える」など感じによって意味がちがってくる。その使いわけがわからない、教えてください、というのがあった。ばかばかしいではないか。
>使いわけがわからないのは意味のちがいがないからだ。日本人は、何かがこれまでとちがったものになるのを「かわる」と言い、人が何かをこれまでとちがったものにするのを「かえる」と言う。それだけのことだ。
>もしだれか、あてる漢字によって別のことばになるのだから使いわけなければならない、などと言うやつがいたら、「アホかおまえは。漢字は日本語のためにあるわけじゃない」と笑ってやればよいのである。毎度申すように、漢字をありがたがるのは無知のあらわれである。(p.180-181)
みたいに厳しく斬り捨ててる。そのすぐあとに、
>なにしろ日本人は有史以来の後進国根性で、いつも自分たちより上等の人種、上等の言語があると思い、それに尻尾を振ってきた。漢字を使えぬのははずかしい、英語ができぬのははずかしいの文化植民地根性が身にしみついている。(p.181)
みたいに言ってんだけど、ほかのところでも、
>無教養な者ほど漢字を書きたがる。(p.286)
とか、
>意味も考えずに漢字を使いたがる人間はむかしからいた。(同)
とか、そのての態度を責めて、
>毎度申すように、漢字で書くと日本語が見えなくなる。漢字はよその国のことばをあらわす文字なのだから、日本語が見えなくなるのは当然だ。小生毎度、日本語は極力かなで書きましょう、と申すゆえんである。(p.287-288)
と言っている。
「かわる」と「かえる」については、日本語の動詞には自動詞と他動詞が対になったものがいろいろあるって話でも出てきて、「とまる・とめる」とか「あがる・あげる」などの例をあげ、
>みな、二音目がエ列だと他動詞、それが同じ行のアになると自動詞、という規則性がある。
>戦後の新かなづかいでわかりにくくなったものをあげるならば、まず「かえる」と「かわる」。
>これは、「かる」はア行だのに「かる」はワ行ではないか、とお思いかもしれぬが、本来は「かる」「かる」でハ行なのである。(p.268)
と、漢字で書くうんぬんどころか、新かなづかいの非合理性への攻撃にもつながってきちゃう。
そのあとに漢字で書いちゃダメなことの例として、
>「すえる」と「すわる」。これも正しくは「すゑる」suweru、「すわる」suwaru でワ行です。(略)
>これを漢字で「据える」「坐る」と書くと関係が見えなくなる。漢字が日本語を攪乱することがよくわかる。(p.268-269)
というように、さらにわかりやすい説明があったりします。
べつに、今回おもしろかったののひとつに、「る」をつけて動詞にするって話があった。
発端は新聞で「パニクった」って談話が記事になったのを見かけたとこからなんだけど、意味はわかるとしながらも、そこで、
>念のために広辞苑最新版を見たら、「頭が混乱して、わけがわからなくなる」と、ちゃんと出てました。いやあさすがに新語熱心の広辞苑さん、よくひろってあるものですな。(p.74)
みたいに広辞苑をもちだしてるのは、やっぱ神話的扱いの辞書のことを半分バカにしてんぢゃないかと。
広辞苑はどうでもいいとして、「る」つけることについて、
>英語に「る」をつけて動詞にするのは、われわれ若いころからいろいろとあった。
>最もよく使ったのが「サボる」。それから「ダブる」。こういうのは今でもじゅうぶん通用する。(p.75)
として、昭和の初めのころからそういうの多かったというんだが、驚かされたのはその先で、
>外国語に「る」をつけて日本語の動詞にしてしまうという器用なやりくちは、そのもとがあった。漢語に「る」をつけるのがその前からあったのである。
>たとえば「退治る」。これを「退治する」と言えばふつうだし、またそうも言うが、「退治る」も江戸時代からある。「退治た」といきなり「た」をつけてしまう。
>あるいは「愚痴る」。これは「愚痴ってばかりいる」というふうに促音がはいる。(p.76)
というように、英語系の外来語が増えてからぢゃなくて、江戸時代からそういう「る」の使い方してたとは、気づいたことなかった。
それはそうと、著者は言葉のつかいかたがヘンだとか乱れてるとかってことばっか言いたいんぢゃなくて、たとえばある出版社から文学作品を批評する本の執筆依頼があったのをことわったときのことを、
>「文章は非常にいいけれども内容なつまらない作品もあるし、逆に内容はいいが文章がわるい作品もありますよね。そこらあたりのことを……」
>ああこりゃダメだ、と思いましたね。
>文章というのは、文学作品はもとよりその他何であっても、ことばを使ってする技術、あるいは技芸である。つまり「わざ」だ。絵、習字、踊り、工芸等々もろもろのわざと同種である。
>わざは、当然内容をともなってのわざだ。技術と内容とが別々であるはずがない。りっぱな刀をきたえあげたがサッパリ切れない、なんてことはなかろう。切れなければそれはりっぱな刀ではない。すなわちわざと内容とは一如である。文章もまたしかり。(p.55-56)
というようにあげて、文章は内容が大事なんだよ、それを読むひとにわかりやすいように書け、みたいな視点から、なに言ってんだかよくわからんような悪文をビシビシ斬るんである。
コンテンツは以下のとおり。
広辞苑神話
 砒素学入門
 薫さん、真澄さん、五百枝さん
 広辞苑神話
 人材えらびの秘訣
 十五でねえやは
 お里のたより
 ノムさんたのんまっせ
十六文キック
 金太郎アメ歓迎
 十六文キック
 中央と地方
 パニクっちゃった
 新語誕生の現場
 子供、子ども、こども
 「名前」の前は何の前?
 肌にやさしい
江戸博士怒る
 これは賤しきものなるぞ
 江戸博士怒る
 タイムスリップ少年H
 過去はどう偽造されるか
 金切声の時代
 ナニやらカニやら
白菊夕刊語
 アドミラル ヤマモト
 白菊夕刊語
 棒ぎらいの系譜
 堪忍袋とカンシャク持ち
 英語と日本人
 神サマ、仏サマ、患者サマ
 学校の名前
砂子屋のこと
 砂子屋のこと
 ソウテイ問答集
 書きおろしとサラ
 季節感の喪失
 茶話のはなし
 父のことば
 わたしゃ浮世の渡り鳥
びいどろ障子
 カイカイ楽しまず
 びいどろ障子
 ヤブ医者の論
 スバルはさざめく
 ムキュウでありました
 正字正解
 あらためる
猿も休暇
 かぞえることば
 トンボの由来
 併し……
 セイジンクンシ大論戦
 「…国語」ぎらい
 猿も休暇


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