ブログを放置したまま、気がついたらこんな年の瀬に!
こっそり、更新しておきます。。。
さて、スミス・モリッシー好きさんにアイドル好きさんが目立つことで
まるで相反するような「スミス・モリッシー好き」な気持ちと「アイドル好き」
の気持ちに流れる共通点について、
いろいろ調べさせていただいた結果の話が済んでいませんでした。
どこまで話したんだべ?
たしか前回、はなちゃん氏の
「音楽の良さ以外で商品に付加価値を生むのは今も昔の表現者の
アティチュードだろう。いまは、難解でいつか硬直化をしてしまうような
アティチュードの思想性よりもファッションやシンプルな熱意からの
アティチュード」
という引用で終わっていたんだと思います。
アンケートでは、「スミス・モリッシー」と自分の好きなアイドルの「共通点」
に関してはフリーアンサーでとっておりますのでその辺を
紹介します。
「芸人根性」
「必死さ」
「思考と感情と五感+第六感を刺激してくれるところ」
「ワクワクする」
「演じているようなろころ。演じていることに自覚があるところ。見る側もそれがわかる」
「新しい価値観を提示してくれたところ」
「心の奥深くにやさしくそっと触れてくるところ」
「捧げても尽きることのない愛と渇望」
「届きそうで届かない。触れ合ったつもりでそうでもない。高揚して、そしてやるせない」
「ダメ人間なぼくを救ってくれる」
「ほうっておけない」
「アーティスト⇔ファンの相互関係を強く感じさせてくれる」
「神聖な感じ」
「生暖かい」
「見ていて飽きない」
「切実な、表現への渇望」
「自分たちには歌しかない、という強い気持ち」
「ベクトルは違えどどちらにも生命力を感じている」
もちろん、「共通点はない」「別なもの」…という意見も
多々ありました。
あと、わたしが印象に残ったのは、ツイッターで見た
「アイドル好きなひと(この文脈では大人)
はやっぱ心に傷を持ってる人が多い」
というあるツイート…。これ、そのまんま心に茨を持った
モリッシー好きさんを指すような…。
私が若いころ…90年代なんかまでは、
心に傷を持った人が刺激や生命力や「今、ここ」のどうしようもなさから
抜け出すためにロックを聞いていたケースが多かったように思います。
特に洋楽ロック好きは、キャッチーさやポピュラリティーより
「こんなの…いままでなかった!!」感、「俺だけが知ってる」感、「俺が発見したゼ」感、
「俺、ひとりぼっちでもこの音楽があればへえき~!」感
に興奮し、救われてきた・・・
「俺カタルシス」
それが現在の、グローバリゼーションにおかされた、一律化された、
高度にインフォメーションクモの巣がはりめぐされた情報化社会、
すべてつながってる社会、風が吹けばあっという間に桶屋が
ネットでミリオネアー(ってことはあんまないが、たとえば)社会においては、
「外国産ロック」から得る必要はなくなったのはいろいろなところで語られている
ことであり、日本における洋楽の衰退のひとつの原因でもあると思うのです。
でも、心に茨を持った人たちはこんなじゅっぱひとからげグローバル社会においても、
すべてデータでダウンロードで完了してしまう実質がもぬけの殻世界においても、
衝動の行き場を探し、何か「かたち」を、たとえ目に見えなくても確実な
「手応え」を求め続けてきた。
「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」
(銀座線田原町駅にある仏壇屋さん三善堂のコピーよりwww)
その「俺カタルシス」に火をつける導火線を「アイドル」の中から
見出した方々のお言葉…アンケートで、ツイッターで本当に
力強く、確信を持って語ってらっしゃるので「ロックだなあ!」と
いつも思います。この数か月でアイドルを見る目が変わりました。
まだやっぱり、「ファン」とかじゃないけど、今この日本で、アイドルに
価値を見出している人々はなんて恵まれているんだ、とうらやましく
なります。アイドルを好きなだけでカタルシス長者であり、「勝ち組」だと思います。
「表現」というのは、その衝動と方法論だけではもはや足りなくなってきている。
こんなに私たちに届きやすくなったのに届きにくい。情報放出量が多すぎて、
取捨選択も難しい。
私はいまだに新しい洋楽ロックも聞きますが、きっとすんごいいいのも
聞き逃している。自分のセンスとチャンス頼みなところがある。
ツイッターで私がフォローしている
未来世紀ナオジル(@punks1968)さん
が、ちょうど昨日こうおっしゃっていました。
表現者が自分の居場所を確保するには
“作り続けること、演り続けること、そしてそれらを発信・流通させる
プロモーション能力が重要”なんじゃないのかな。
なんだかなみだがでたお
よいおとしおね♪