2024年4月12日(金)
法隆寺の謎 その4 夢殿と鎌足の移し替えられた墓 ・・ 動画がUPされました。
これは特に「先祖は藤原です」と言われる方には重大な話です!いえいえ、日本国民全ての方にとって重大な話なのです。
夢殿で手を合わす先には、藤原鎌足の墓があり、なんとその先には、藤原直系である第50代 桓武天皇の墓があるという、どこにも書かれていない重大な秘密を公開しました。
2024年4月12日(金)
法隆寺の謎 その4 夢殿と鎌足の移し替えられた墓 ・・ 動画がUPされました。
これは特に「先祖は藤原です」と言われる方には重大な話です!いえいえ、日本国民全ての方にとって重大な話なのです。
夢殿で手を合わす先には、藤原鎌足の墓があり、なんとその先には、藤原直系である第50代 桓武天皇の墓があるという、どこにも書かれていない重大な秘密を公開しました。
2019年12月2日(月)
長老ヶ岳のコンターラインは、「鎌」の形になっています。
四天王寺で手を合わせて祈る先は、この鎌ヶ岳です。
四天王寺の設計の最大の意図は、鎌ヶ岳に人々が手を合わせて祈る配置でした。
又、 法隆寺五重塔の相輪には1.2mの4本の鎌が飾られていました。
そして法隆寺の八角堂の夢殿は、藤原鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓に手を合わせるようになっていました。
これら二つの寺院は、藤原鎌足を尊崇する設計となっています。
藤原鎌足は、「長老」であり、長老ヶ岳と鎌足の長男定恵と次男不比等の墓の三点は、正三角形の一部をなす36度54度90度の直角三角形を描きます。
そして移し替えられた藤原鎌足と定恵と不比等の三人の墓は、夜空に輝く夏の大三角形の角度の配置となっています。
これらのことが描ける配置を作るには、偶然ではありえず、時間をかけた大いなる強い意志が伝わってきます。
2019年6月24日(月)
交野山のとある場所に移し替えられた藤原鎌足の墓と、高麗寺跡と中宮寺後の三点を結ぶと、正五角形の一部をなす綺麗な直角三角形が浮かび上がりました。
法隆寺の夢殿の建築配置や、大地に三角法で位置決めされた数々の関連性ある図形に、意味ある図形が用意されていたようです。
藤原鎌足と高麗、大いに意味する文字と完成された図形です。
そして鎌足の子である不比等君の墓とその長男の武智麻呂の墓は磁北磁南の位置関係にあり、高麗寺跡から44㎞~45㎞にあり、三点は二等辺三角形を描く地点に決められています。
これらは全て偶然ではできません。
藤原氏直系である桓武天皇の墓は、二つの百済寺から直角二等辺三角形を描く地点でしたが、
高麗・百済 これらには、藤原氏のルーツと願いが込められているようです。
2019年6月21日(金)
藤原鎌足の墓は、最初は鎌足公古廟でした。 でもそこから大阪府交野市の交野山のとある場所に移されました。
法隆寺の夢殿で手を合わせると、その場所に手を合わせるように法隆寺の建築配置がなされました。
鎌足公の二男の不比等君は、時の天皇たちに信頼された様子ですねぇ。
私には、和気清麻呂とどこか人間性がダブルところがあります。あくまでも陰で支える有能な行政マンというところでしょうかぁ・・。
不比等君の墓は、計算されつくした場所である京都府南丹市八木町神吉です。
そして不比等君の長男、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の墓は、奈良県五條市小島町にあります。
不比等君の墓は、子である武智麻呂の墓からピッタリと磁北に位置しているのは、これも後から亡くなる武智麻呂が磁南の場所を選定したと推測できます。
いえいえ、これは藤原三代の約束事だったと私は思えます。
鎌足君から親子三代それぞれの三つの墓を見つめていたら、「オリオン座の三ツ星ベルト」に見えて仕方ないので眺めていると、日本列島にオリオン座が浮かびあがりました。
親子三代、かみなり三代と言われたとか言われなかった・・とか。
実は、不比等君のお墓へ行くと決めたのは、前日の15日(土)の午後、なんの前触れもなく突然、「ドド~~~ン!」と一発、ものすごい大きな音を轟かせて雷が落ちたようでした。
その大音響で、「明日行きます!」と決心したのでした。
オリオン座の重要な拠点として、物部神社 弥山 八伏山 御前崎の駒形神社 長野県松本市の弘法山古墳が浮かび上がりました。
このオリオン座からするとオリオン大星団は、尾張や三河となります。 古代からこの地方は重要な拠点であったことを教えているようです。
・・と思っていたところへ、全く知らない方から一通の封書が届きました。
その中には、村山浅間神社のことが書き記してありましたが、これはもう間違いなくメッセージと捉え、オリオン星人の頭を村山浅間神社にして描いてみました。
こちらのオリオンは、大神山神社奥宮と馬路村が重要ポイントです。
んん~~んこちらでもOKです。・・というより、二つとも正しいように思います。
静岡県富士市の渡辺様、情報をありがとうございました。感謝いたします。
いずれにしても、藤原三代 オリオンの三ツ星ベルトは間違いなさそうです。
2019年3月22日(金)
乙巳の変(643年)の首謀者と言われる藤原鎌足と中大兄皇子(天智天皇)二組の親子の墓の関係が見事に基本形に近い直角三角形の連鎖で位置決めされています。
この4人の没順は、
藤原鎌足(669年11月14日)
天智天皇(672年1月7日)
大友皇子(弘文天皇・672年8月21日)
藤原不比等(720年9月13日)
・
・・・ちなみに、古事記を完成させた太安萬侶は723年8月15日没。
この図形の連鎖を完成させる重要なポイントは、鎌足公古廟から亡骸を移し替えることにあります。
鎌足の亡骸を移し替えられるのは、鎌足の子である定恵・不比等兄弟でしょう。
そうすることによって、法隆寺の夢殿の配置も決定できます。
天智天皇陵と大友皇子と藤原不比等の墓は、正五角形の一部の直角三角形です。
天智天皇陵から移し替えられた藤原鎌足の墓までと、藤原不比等の墓までとは、共に23㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。
鎌足公古廟と鎌足の墓と天智天皇陵は、基本形に近い直角三角形です。
そしてこれらの図形を浮かび上がらせた重要なヒントは、武部さんのブログに書かれた太安萬侶の墓であり、
「不比等の一周忌に八角堂である興福寺の北円堂は建てられたんですよ」という矢野さんの言葉でした。
いつもそうですが・・、何一つ知らない私に大事なメッセージを皆さんがタイムリーに届けてくれます。
ありがたや アリガタヤ ・・ 感謝するばかりの私です。
2019年2月26(火)
法隆寺の基本計画と建物の配置には唖然とさせられます。
山口にある空海様のお墓(望海山)、アブラハムの父、テラ(日本名、天照大神)の墓(神野山)を東西の基本ラインとして、そのラインから北方向に、
西円堂が蘇我入鹿(=聖徳太子)の墓(松尾寺の補陀落山)
金堂は第五十代桓武天皇の墓(京都高雄山428.4m)
夢殿は藤原鎌足のお墓(鎌足公古廟から移し替えられた交野山の北方向にある場所)
建物の方角には1度の狂いもありません。 見事です!
そして、モーセの墓、モーセの御霊を移し替えた場所、イエス・キリストの墓、卑弥呼の墓、マリアの墓・・
それに、聖徳太子を祀る広隆寺へも手を合わせるようになっています。
上御堂は広隆寺に手を合わす設計になっていて、上御堂と広隆寺とマリアの墓は見ごとに直角三角形を描きます。
どれを取っても見事です。
又、この法隆寺の位置決めは、ここから磁北方向にある京都府の675m地点を基準ポイントとして位置出ししていることも分かりました。
それと・・創建当初の若草伽藍の位置と方角が教えるものも又、イエス・キリストの墓を三角法でズバリ教えていました。
我が国の礎を築かれた偉大な現人神のお墓を全て、現在の形になる法隆寺を設計建築した人達は知っていたということです。
空海様も間違いなく知っていた人物の一人だったということです。
法隆寺が教えている情報は、尊いものであります。
どの場所でどこを向いて祈ると誰に手を合わすようになっているかを知ることで、必ず心が豊かになることでしょう。
もう意図的に隠すために論争させ続ける邪馬台国論争も意味をなしません。
政治政体が奈良巻向で、国事国体は播磨国風土記に記された「埴丘の里」、現在の兵庫県神崎郡神河町の栗でした。
卑弥呼はイエスの直系であるがゆえに7.80年続いた戦乱を終息させるために共立された女王でした。
このような全ての事実を第五十代桓武天皇達は知っていたわけですし、二葉葵を紋章とする人たちも、三つ葉葵の徳川家の方々もハートの形の意味を知っています。
幕末までは、間違いなく先祖供養はされています。
このまま知って知らぬふりをし続ける怖さを関係者は理解しているのかどうなのか・・。
神の世界にも限度があるようです。
3月9日、歴史の真実が分かるように残してくれた行基さんのお墓へと手を合わせに行ってから、法隆寺です。
そして、蘇我入鹿さんに手を合わせに行きます。
真魚の山(空海様のお墓)は、どこを向いてるのかなぁ~と思っていましたが、ピッタリと法隆寺を向いていましたねぇ。
それにしても・・、可愛いですねぇ。 どうやって造るんでしょうかねぇ。
2019年2月18日(月)
法隆寺五重塔の相輪には1.2mの4本の鎌が飾られているとのことです。
今度ツアーで行った時、カメラに収めてきたいと思います。
鎌と言えば、それはもう藤原鎌足公です。
藤原鎌足(614-669)の伝記をまとめた多武峯談山神社の縁起絵巻のデジタルデータにも、
鎌足公が生まれたときに鎌をくわえたキツネをわざわざ描かせていました。
中国の千山には、卑弥呼にプロポーズした男性の右手に鎌を描かせていましたね。
法隆寺の夢殿は、鎌足公の墓に手を合わすようになっていましたし、桓武天皇も藤原直系の人でした。
法隆寺の相輪に鎌を飾って当然なのです。 象徴なのです!
誰か下記のページを魚拓している方、居られませんか!
そこに書かれていたのは・・、の後に書かれていたものが、消しとられています。
不都合な真実なのでしょうか・・。
勝手に消されても困るのです。
消してほしい方は、どうぞ私に直接連絡をください。
ちなみに・・
消された私の文中にあった天皇陛下と皇后陛下の歌は、
天皇陛下
夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ
皇后陛下
来し方(こしかた)に本とふ文(ふみ)の林ありてその下陰に幾度(いくど)いこひし
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////
2019年2月18日(月)
魚拓してくれていた人から早速メールが届きました。
天皇陛下
夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ
皇后陛下
来し方(こしかた)に本とふ文(ふみ)の林ありてその下陰に幾度(いくど)いこ
ひし
そして、Nさんが書いてくれていたのは、「前年(26年)の稲刈りは9月26日の
昼間です」とのこと。
んん・・天皇陛下の苦悩が鎌で表現されていますかぁ。
・・という文章でした。
Mさん、ありがとう! 感謝いたします!!
2019年2月13日(水)
鎌足公古廟から藤原鎌足の亡骸は交野山へと移し替えられました。
その移し替えられた鎌足の墓に向かって手を合わすように夢殿は配置されています。
見事です!
法隆寺の中で、夢殿だけが単独で金堂から400mほども離れたところに建築されています。
どう考えても私には、この距離には大事な意味があるとしか思えませんでした。
そしてその思いは、交野山で桓武天皇が生前2回、北に向かって祈ったという伝承と、三角法から解き明かすことが出来ました。
見事です!!
交野山の磐座から北に位置する場所に鎌足公はお眠りになって居られます。
2017年5月3日(水)
武部さんが法隆寺の西円堂は蘇我入鹿の墓に手を合わすようになっていると発見しましたね。
本堂や夢殿は微妙に向きがずれているとも・・・。
本堂や夢殿は、桓武天皇がお眠りになっている山に手を合わすようになっていますよ。
桓武天皇が交野山からどうして2回も北に向かって祈っているか・・・。
謎は解けて行きますぅ。