ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

教会での説教について

2008-11-14 14:14:48 | ときのまにまに
先日、今はもう定年退職された司祭から、九州教区報「はばたく」に寄稿した文章について、次のようなご感想を寄せていただきました。
「教区報の御寄稿(?)は、素晴らしく、聖公会の皆さん、福音派(?)の伝統に覚醒の想いでしょう。私達が学んだ説教は、講釈が主流。それに対してプロテスタント(福音派)の主流は神に聴く、つまり聖霊が主役」。
多少、この「お褒めの言葉」には違和感があります。先ず第1の違和感。わたしはブログ「落ち穂拾い」で説教と<講釈>とを毎週掲載していますが、わたしにとってこの<講釈>というプロセスこそ「聞く」というプロセスそのものです。この表現は、一般的な「講釈」という意味とはいささか異なるので、わたしがこの言葉を用いるときには必ず「<講釈>」というように<>括弧を付けています。そして、<講釈>がしっかりしていなければ、「御言葉」は聞けないと思っています。ただ、この「講釈」という言葉を一般的な「説明ないしは解釈」というように理解しているとしたら、それはただ単に「説教」ではない、ということになるでしょう。
もう一つ、重要なことは、聖公会の主流は講釈でプロテスタント(福音派)の主流は「神に聴く」という受け止め方は誤解を生みます。この場合「主流」という言葉の意味が曖昧です。これをただ、統計的数字の多少という意味なら、このように対比的に分けること自体が無意味です。ただ、わたし自身は聖公会関係の神学校で説教学を学んでいませんので、何も言うことは出来ませんが、キリスト教会における説教とは、こういうものだと、わたしは思っています。
ともあれ、ご感想を寄せていただいたことには、深く感謝をしています。非常に限られた字数だったので、わたしの「思い」がむき出しのままで出ています。本当なら、もうすこし厚いオブラートないしは美しい包装紙で包むべきだったと思います。
<以下、九州教区報「はばたく」の記事>
編集者とおしての質問は「説教はいかにして作るか」ということでした。非常に限られた字数なので、肝心なことだけ答えます。
まず、説教は「作る」ものではありません。「聞き」そして「語る」ものです。言い換えると、説教とは「メッセージ」です。しかも、それは「わたしのメッセージ」ではなく、わたしも聞いたことです。だから、聞いていなければ、語れません。
具体的に言いましょう。聖公会の礼拝における説教では、旧約聖書、使徒書、福音書と3つのテキストが決められています。そのうちのどれを選ぶのかということについては、特に定めはありません。いろいろな選択の方法があります。そこにも「霊的導き」を感じることもあります。ともかく、そこで非常に、決定的に、重要なことは、そのテキストをどこまで深く、「読む」あるいは「聞く」かということにかかっています。この点が、いい加減になると、「いい話」ではあっても「説教」にはなりません。その意味では説教者はこの「聞く」という一点に全精力をかけているといってもいいでしょう。
次に、聞いたことを礼拝参加者に語るための準備が必要です。ここでは、「話す」ということの技術が問われます。しかし、どんなに話術が乏しくても、メッセージがしっかりしていれば、聞く者の心を打ちます。

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