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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/11/11~11/17

2018-11-17 10:19:19 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/11/11~11/17

2018 日々の聖句 11月11日㈰
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エジプト記20:2)

牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。(使徒16:40)

私の黙想:
出エジプト記から見ると創世記は「遠い昔の物語」、「伝説・神話」の世界である。イスラエルの民にとってヤハウエとの関係は出エジプトから始まる。その意味で、今日の聖句こそ、イスラエル史の出発点である。イスラエル人たちが自主的に偶像を作ったとき、彼らはその「若い雄牛の像」にひれ伏し、 いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」(出エジプト32:8)と叫んでいる。つまり、イスラエルの民において「神経験」は、出エジブトの神でなければならない。「わたしたちの神」とは「エジプトの国、奴隷の家から導き出した神」でなければならない。この神なしでは私たちはこの世の権力の奴隷に過ぎなかった。この経験、つまり自己理解なしには神の側からの一方的な宣言は虚しい。
モーセはイスラエルの生まれであるにもかかわらず「ファラオの王女の子」として育てられた。モーセにとって自分が「イスラエルの子」であることはほとんど忘却の彼方にある「遠い昔の物語」であった。ほとんど完全に「エジプト人」として育てられた。(神学部1年の時、英書購読でフロイドの『モーセ』が取り上げられた。そこでは「モーセ」という名前はエジプト語かヘブル語かと問われ、それまでの幼稚な聖書信仰は崩れてしまったことを忘れられない。
モーセはエジプト人としてのアイデンティティをもって育った。しかし、ある日、「つまらない出来事」により「自分の中にあるイスラエル人の血」に気付かされる。それからモーセのアイデンティティ・クライシス(自己意識の不安)が始まる。モーセが「成人したとき」、「イスラエル人として生きようと決断したとき」、つまりそれは自分は「奴隷の民」として生きるということを決断したとき、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)というヤハウエの声を聞く。出エジプト記の物語はここから始まる。「遠い昔の物語」(=創世記)が「私の物語」となる。

2018 日々の聖句 11月12日㈪
今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。(歴代誌上29:5)

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。(2コリント9:6)

私の黙想:
今日の聖句は、ダビデ王が将来の神殿建築の材料を集める場面である。ダビデは一生懸命であるが、それはダビデ自身にためではない。将来の神殿建築のためである。当時の人々には「神殿」の意味があるのか。神の幕屋で十分であると思っていたに違いない。しかしダビデには分かっていた神殿こそが民族の精神的(宗教的)土台になるということを。
新共同訳は例によって、意味が曖昧である。口語訳では「だれかきょう、主にその身をささげる者のように、喜んでささげ物をするだろうか」。献げる物は自分自身の「身体」を献げるように献げよという。まさに「献身」である。神にいやいや献げる献げ物は相応しくない。献金は「量」ではない、全身でないにせよ『身を削るような捧げもの」こそが真の捧げものである。たとえそれが世に流通している最小限の「レプトン銅貨」2枚であっても、イエスははっきりと宣言された。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12:43~44)。

2018 日々の聖句 11月13日㈫
あなたたちは見た、(わたしがエジプト人にしたことまた、)あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。(出エジプト19:4)

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(エフェソ3:20~21)

私の黙想:
「日々の聖句」では括弧の中が省かれている。なぜ省いたのだろう。「あなたたちを鷲の翼に乗せて」という言葉の文学的美しさ、それに比べて括弧の中の言葉によって思い起こされることのあまりにも残酷な景色だからであろう。
この言葉は彼らにとって「遠い昔の話」なのであろう。代々、親から子へと語り伝えられていくなかで、言葉が選ばれ、過去の苦しかった、出来事もその苦しさが消え去り、楽しかった「奇跡」として語られるようになった。
こうして、いま私たちは楽しく生きている。この生きているという事実は「あの出来事」があったればこそだ。
兄弟3人揃うと、やはり「あの出来事」を思い起こす。今はいない「若かった母」の勇ましさ。私たち3人の息子たちはただ母親の両手の中で抱えられて、ここに帰って来て生かされている。まさに、「あなた(私)たちを鷲の翼に乗せて、ヤハウェのもとに連れて来たことを」。

2018 日々の聖句 11月14日㈬
天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。(イザヤ45:8)

今や、めぐみの時、今こそ救いの日。(2コリント6:2)

私の黙想:
ペルシャ帝国の興隆とキュロス王の登場。彼の登場によりイスラエルの民はバビロン捕囚から解放された。この章の第1節で「主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれどの城門も閉ざされることはない」。旧約聖書で異国のキングを「主が油注がれた人」という表現はここだけのことである。キュロス王がするであろうこと「国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれどの城門も閉ざされることはない」、つまり彼は諸国の王を破り降伏させるが、彼がすれであろう第1のことは武装解除であり、各国の国境の開放である。それは従来の戦争終結とは著しく異なるものであり、新しい形の「新しい形の帝国」であり、ヤハウェはそれを「救済」と見ているようだ。
1節から8節までの間に「わたしが主」という言葉が5回繰り返される。そしてその言葉に対応して「あなたは知らなかった」という言葉が2回繰り返される。つまりペルシャ王に対してヤハウェが「油を注いだ者(メシヤ)」と呼ぶ。それは必ずしもイスラエルだけのの解放者ではない。当時の人たちにとっては信じられないことであった。「あなたはそれを知らない」。
ヤハウェによって偉業がなされる。それを人間は理解できない。理解できなくてもいい。イスラエルの主は、あなたを主の民のために働くものとして祝福を与えるが、あなたはそれを知らなくてもいい。あなたは全世界に平和をもたらす器とされる。天はあなたに「恵みを注ぎ」、あなたは世界に「正義」をもたらすであろうが、それら全ては神の創造のみ業なのである。
何と言う壮大な預言であろう。神は神を知らない者をも神の器として用いられる。

2018 日々の聖句 11月15日㈭
主はその民の力。(口語訳、詩28:8)

わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(1コリント15:57)

私の黙想:
新共同訳では「主は油注がれた者の力、その砦、救い」。違いを明らかにするために口語訳でも8節全体を書き出すと「主はその民の力、その油そそがれた者の救のとりでである」。これら2つの訳を比べると、口語訳では「その民」が加えられ、「その油注がれ者」とに分けられている。因みに、文語訳では「エホバはその民の力なり」でいったん文書を改めて「その受膏者の救いの城なり」とつなぐ。要するに2つのことが述べられ、この2つのことの関係が明白ではない。この点ではフランシスコ会訳も新改訳も岩波訳もその線に沿っている。ここでは「油注がれた者」も人間でありヤハウェによって守られなければ存在である。
原文をチラリと見ると、「アドナイ(主) オズ(力) ラーモ(彼ら)」が独立した文章になっており、行を改めて次の文章の冒頭は「ウマオズ(そして砦)」という接頭語付の砦が置かれている。文法的にはなかなか解釈が難しい。
直前の7節では「主はわたしの力、わたしの盾わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします」であり、この文章も主語「わたし」が「民」なのか「メシア」なの曖昧である。ともあれ、7節と8節はダブっている。ひょっとすると、8節は7節で曖昧な点「民」と「メシア」との関係を分離補うための補足だろうか。 

2018 日々の聖句 11月16日㈮
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。(サムエル上2:2)

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24)

私の黙想:
今日の聖句はサムエルの母ハンナの祈りの冒頭の一句。もう、これだけで他の説明は不要であろうが、一言だけ。子供が与えられないというハンナの悩みについて、夫はどんな態度をしていたのか、考えさせられる。「神のみ」という「のみ」がかなり強い響きである。
夫エルカナには二人の妻がいて、もう一人の妻には子供が居た。しかしハンナには子供が居なかった。年々、歳をとり、出産から遠ざかる。ハンナの気持ちはどんなのだった方か。そして、遂に長い祈りが答えられて子供が与えられた。

2018 日々の聖句 11月17日㈯
あなたな嘆きの日々は終わる。(イザヤ60:20)

神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。(黙示録7:17)

私の黙想:
口語訳、文語訳では「悲しみの日」、新共同訳とフランシスコ会訳、岩波訳では「嘆きの日」、新改訳では2つ合わせて「嘆き悲しむ日」だ。ただ比べてみただけで、あまり意味はない。
イザヤ書は第60章より「前期第3イザヤの書」であると言われている。要するにバビロンから解放される日を意味する。預言者たちはこれを言葉の限り美しい言葉で語るが、実態はヤハウェの民はバビロンでの生活に成功し、結構楽しく過ごしていたらしい。そのため祖国への帰還を喜ばず、そのままバビロンに居残る人々かなりいたようである。むしろ祖国への帰還の旅に参加した人々はバビロンで苦労していた人たちであったようだ。そこに居残った人たちが後にディアスポラのユダヤ人になった。

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