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高崎裕士の自分史

2015-11-11 09:59:58 | ときのまにまに
高崎裕士の自分史

日本キリスト教団兵庫教区播州地区教師会(07/05/28)で発題したものを、加古川東教会枝の会(07/09/09)での発題用に補足、その後さらに更新した。

このサイトを見られた名古屋の小島章さんから、お便りをいただきました。なんと小島さんは私の文中にある華陽開拓団におられた方で脱出にまつわる大変な悲惨な経験をされています。昨年まで、団の生き残りの人で作る「華陽会」の事務局スタッフであったとか、私の文中の思い違いなどもご教示くださいました。下線を施した部分は小島さんのお便りを見て訂正、あるいは加筆した部分です。
さらに、ハルビン医大や奉天二中関係の多くの方々が連絡をくださって、さまざまなことが判明、インターネットの凄さを痛感しました。後に華陽開拓団の小島さんと安東中学校同窓生との65年ぶりの出会いの記事、写真を掲載しました。

「私の自分史、戦中から戦後へかけての一時期一分ちがいの脱出・・・・中国孤児になっていたかも」
高崎 裕士

私は戦中派の人間ですが、太平洋戦争の真っ最中、旧制芦屋中学の一年生の時のことです。この学校に偉い先生がいました。大学で西洋史を学び、学徒出陣で入隊し幹部候補生で将校になって中国に出征、負傷して除隊、中学の先生になり、軍服を着て授業をしていました。お得意はギリシャのペルシャ戦役の話で、それは詳しく話してくださいました。この先生が授業の中で言われたことですが、「戦争は格好いいものではない。私は戦場では怖くて逃げまわっていた。私の軍刀の刃はぼろぼろにこぼれているが、これは人を切ったためではなく、逃げる時、鉄条網をぶった切ったためだ」と。あの戦争中によくこれだけのことが言えたと思います。軍服を着ていましたが本物のインテリだったのです。そして本当に勇気のある人でした。生徒の中には師団長の息子などもいましたから、どこから聞こえて憲兵に捕まるかもしれなかったのです。私はこの先生の言葉で、戦争とか天皇制とかを絶対視しないで、相対化して見ることが出来ました。

転校した満州の中学校から、終戦間際、シベリア国境近くの開拓団に勤労動員されて行っていて、ソ連軍に追っかけられて、そして敗戦という時にもショックは受けませんでした。ただ満州の中学校はなじめませんでした。軍事教育の盛んな時代で、もう一歳年上の者は少年飛行兵だとか少年戦車隊だとかに志願させられて戦場に行きました。進んで志願しない者は非国民だとして非難され迫害されました。事実教室で教官殿が私に尋ねました。「お前は将来は何になるつもりか。」私は直立不動の姿勢で軍隊用語で答えました。「自分は体が弱くありますから、理工系の上級学校に進み国家のために技術を勉強するつもりであります。」ところが教官殿は満足しません。「この軟弱な者が、なぜ体を鍛えて軍に志願すると言わないのか」というわけで、思い切りぶん殴られて教壇の端まで吹っ飛びました。
2002年8月3日のNHK総合テレビ「その時、歴史が動いた」で『ソ連参戦の衝撃・満蒙開拓民はなぜ取り残された』が放送され、ソ連軍が雪崩をうってソ満国境を越えた「その時」というのが1945年8月9日午前0時過ぎと放送されました。私はそれを1945年8月9日午前0時10分とまで覚えています。なぜそんなに詳しく覚えているかをお話ししましょう。
その年、私は旧制中学の3年生でした。住んでいた南満州の安東(現・丹東)から私たち中学生は勤労動員で北満、小興安嶺に近い北安省慶城県(慶安県)の華陽という開拓団に派遣されていました。開拓団では男たちは現地召集で関東軍に取られてしまい人手がありません。動員されて行った私たち中学生は村の華陽在満国民学校(小学校)の教室で寝て、朝から夕方までトウモロコシ畑の除草作業をするのです。除草鍬(チュウトウ)で長い畝の側面を削って行って、やっと稜線の上まで来ますと、畝は降って昇ってまた次の稜線まで続いています。遠い地平線から雨が降ってくるのが、黒い垂れ幕のようになった雲の足のように見えます。 「下雨来罷(シャーユーライバ 雨が降ってくるぞ!) 」 家畜を追う牧童の声が聞こえて来ます。そこはシベリヤに続く永久凍土地帯で、7月8月でも井戸の中は釣瓶の通る穴以外はびっしり氷が張り付いています。7月に一年中の花が一度に咲く、それは見事でした。大地の子という中国を舞台にしたドラマがありましたが、黒土地帯の真っ黒な大地にへばりついた明け暮れでした。
そんな中でタプロイド版の満州日々新聞の数行の記事を見ました。「広島に新型爆弾投下さる」という見出しをはっきり覚えています。言うまでもなく原子爆弾のことでしたが、当時は何のことか分かりませんでした。その年は、日本でもそうであったようですが、8月になっても長雨が続いていました。宿舎を境にして丘の側が耕作地で、河のある低地の方は地平線のかなたまでの大湿原です。雨の降らない時でもそうなんですが、連日の雨でその中に一本付いていた地平線の果てにまで延びていた泥道は完全に水没、どこがどこやらわからぬありさまです。その真ん中に嫩江(ネンジャン のんこう)の支流呼蘭河に架かる橋梁の木製のトラスが心細げに見えています。
私たちの動員の予定は8月8日まででした。9日に帰途につくことになっていました。しかし雨はますます激しく降っています。一日たてばそれだけ道路の冠水は酷くなり、問題の橋も流されてしまうでしょう。私たちは予定を一日繰り上げて、8日の早朝開拓団をあとにすることにしました。後で思えばそれが生死の分かれ目でした。誰がそのような決断をしたのか、実は最近私はその時以来60数年会っていなかった同級生の一人と会う機会を得ました。彼はそのことを覚えていました。ソ連参戦のことをうすうす知った安東中学校の沓沢校長の「全生徒は直ちに帰校せよ」との命令を、ハルビンだかチチハルだかの医学部にいた軽部という卒業生が、はるばる馬に乗って伝えて来たというのです。直線距離でもハルビンから130キロほど、チチハルからなら200キロ、あるいはそれ以上あります。校長の決断とその医学生の大変な苦労のお陰で私たちは救われたのです。
さて、それはどこが道路かも分からないぬかるみの中の行軍でした。何度も足を滑らせて全身泥だらけでした。私など、頭まで浸かって、上着はドロドロ、友人の予備の上着を借りて着ました。このようにして、鉄道の「高老」という駅のあるところまで十数時間もかかりました。深夜、日付が9日となった直後、それが恐らく最後の列車であったろうその列車に私たちが乗り込むや否や列車は発車しました。危機一髪でした。列車の発車時刻は9日午前0時9分、一分後8月9日午前0時10分、ソ連軍が雪崩を打って山の向こうの国境を越えていました。時刻を正確に記憶しているのはそのためです。途中新京、今の長春で空襲に遭ったり (友人はハルビンでだったと言います )、それから奉天、今の瀋陽で足止めを食って難民の状態になり、私たちは奉天第一だか第二中学校の講堂に寝て、(第二中学校関係の方々から伺って、二中は郊外に近いので違うだろうとのこと)食べ物を求めて街をさまよい歩くなどしました。父親が勤めていた会社の奉天支店を訪ねたりしましたが、この時友人の名札の付いている上着を借りて着ていたため、会社の人に本物なのか疑われたことも思い出されます。

それでも級長や班長(軍隊用語で小隊長、分隊長と言っていました)たちが、必死で関東軍の停車場司令と交渉した結果、何とか貨物列車に詰め込まれて家のある安東まで帰り着きました。安東駅に朝着いて、その日の昼、ポツダム宣言受諾の天皇の放送を聴きました。この一分違いの脱出の、後に残してきた開拓団の女性や子供たちは、殆ど生きて帰ることがなかったのではと思います。華陽開拓団は私たちの脱出直後から暴民に襲撃され始め、奇跡的に帰国できた小島章さんの話では、脱出しようとした開拓団の人々は途中でも鉄道の駅でも暴民に襲われて、男性も女性も赤子も丸裸にされ、もう霜の降りはじめる寒さの中、新聞紙で裸をかくすなどの辛酸を嘗め、558名中、応召の60名(118名というデータもある)とは別に、死者241名、未帰還者が69名という惨状だったとのことです。そのようなことになったのも、ちょうど小島さんからお便りをいただいた同じ日08/08/01の朝日新聞『天声人語』で紹介された反戦川柳作家鶴彬(ツルアキラ) が昭和10年に読んだ句の「銃剣で奪った美田の移民村」だったこと、つまり開拓団が元の住民の土地を取り上げるなどして怨みを買っていたからですが、中国侵略の国策に沿って入植させられ、こうした悲劇に遇った日本の貧しい農民たちもまた国の棄民政策の犠牲者だったと言わなければなりません。そして、それにもかかわらず、私は不思議に生かされてきたという思いです。

それから少しの間、安東の街は国共内戦の市街戦の戦場となりましたが、私は家庭の事情で家を飛び出して中国人の中で独り生活しました。鋳物工場の工員、粉屋の小僧、中華料理店の皿洗いなどして生き延びました。今はほとんど忘れてしまいましたが、日常生活には事欠かないほどは中国語も話せるようになっていました。余談ですが中国語というのは単音節語ですから、意味を区別するための四声という四種類の抑揚が大切で、難しいです。中華料理店での言葉に限ってでも、「ショウハイ、タン、ナライバ」は「おい子ども、砂糖(tang)持ってこい」なのか、「スープ(湯tang)持ってこい」なのか、さらにわずかに発音が変わりますが「炭(tan)」、「卵(dan)」もあって大変です。そんなわけで、中国語というのは美しく、まるで歌を唄っているように聞こえます。「ウォーメンスーリーベンレン、ニーメンスーツォンゴーレン、リーベンレンミンホーツォンゴーレンミンスーハォポンユーア、ウォーデツォンゴーホワゾンマヤン?(私たちは日本人です。あなたがたは中国人です。日本人民と中国人民とは仲の良い友人です。私の中国語いかがですか?)」中華料理の中央飯店には「干活計没有嘛? 銭不要、吃飯給罷(カンホージメイヨーマ? チェンプヨー、ツファンゲイバ 仕事ありませんか。給金は要りません。食べさせてもらえればいい。)」と言って飛び込みました。鋳物工場で知り合った中国人の紹介で住み込んだ沙河鎮という村の裕福な粉屋、村の人々が包米(パオミー トウモロコシ)を持ってきて粉に引いてもらう店では、それを秤にかけて料金を計算する役をやらされましたが、すばやく暗算するので、「這個少孩脳袋有ア(チェガシャオハイ、ノウダイヨウア (この子は頭がいい) 」と気に入られて、食事も店の表の間の丸テーブルで掌櫃(ジャングイ 店主)と一緒に食べさせてくれました。「日本に帰っても食べるものもないそうだ、ここに残ってうちの子にならないか、嫁さんももらってやるから」とも言われました。この時、粉を引いてもらいに来る中国人の美しい少女がいました。今でもその子の名前を覚えています。随永瑞 sui yong ruiというのです。もし粉屋の子になっていたら、その娘をお嫁さんにもらっていたかもしれません。しかし、その申し出は振り切って独りで引き揚げてきましたが、もうほんの少し幼かったら中国孤児になっていたでしょう。事実、NHKの中国孤児の放送を見ると、私よりほんの1歳か2歳若い人でも孤児になっています。同級生の中には、開拓団からの帰途、落後して行方不明になった者もいます。逆に進んで八路軍(中国共産軍)に入った者もいました。その内の一人、同級生の立木洋君は延安まで行って、毛沢東の許で勉強し、帰国して、日本共産党中央委員、国際部長、参議院議員にまでなっています。

そのような生活の後、敗戦から1年数ヶ月後、私は家族とは別に一人で引き揚げました。引き揚げは毎日、何百人かずつ梯団を組んで、まず日本とは逆の方角、奉天(瀋陽)へ向かいます。当時、安東は八路軍が制圧、奉天は国府軍が制圧していて、本渓湖の手前の山脈が内戦の戦場になっていました。両軍は私たち、日僑(華僑をもじってそう呼ばれていました)を通すため、停戦協定を結び、境界地域を便衣隊 (民間人の服装をした軍隊、今のゲリラでしょうか) が護送して、一週間近く山の中を歩きました。山を下りた本渓湖の難民キャンプでは土の上にじかにみんな体をくっつけ合って寝ましたが、朝起きてみると背中合わせに寝ていた人が疲労のため死んでいました。班の者で山中に埋葬したのですが、お互い空腹で疲労困憊していますから、深い穴を掘ることもできず、ちょっと掘った溝のようなところに寝かせてさらさらと土をかけるという、そんな埋葬でした。すぐにも山犬が来て堀りかえすのは目に見えていました。「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」というあの歌の歌詞を思い出します。

本渓湖では国府軍側の、共産分子を排除するための厳重な審査がありました。この蒋介石の兵隊さんたちはかなり陰険な感じでした。余談ですが、満州で私は、日本軍、八路軍、国府軍、ソ連軍のそれぞれに接しましたが、残念なことに最も悪辣なのが日本兵、同じくらい悪質なのがソ連兵、民衆に最も親切だったのは毛沢東の八路軍でした。後の毛沢東には批判もありますが、彼の指導は立派でした。立派と言えば蒋介石総統もクリスチャンでしたから、「以徳報怨(徳を以て怨に報いる)」と言い、そのため多くの日本人が助けられましたが、軍隊のすみずみまで徹底するという点では八路軍は優れていました。現在の近代的な中国軍と違って、人民解放軍はいたって素朴、背中に番傘を背負い、「イーイーイーアルイー、イーアルサンスー(11121,1234)」と歌うようなかけ声で行進し、内務班の生活も階級がなく和気藹々でした。

話を元に戻して、私たちは無蓋貨車に詰め込まれて本渓湖から奉天を経由して葫蘆島(コロトウ)へ向かいました。途中の錦州の難民収容所でのこと、明日はいよいよ葫蘆島で日本の貨物船に乗れるというその日に、囲いも何もない、丸太を渡しただけの野外の便所の深い肥壺に、小さな男の子がはまって死にました。悲惨でした。誰もがシラミだらけで、引き揚げ船の中で発疹チフスが蔓延し、検疫と消毒のため、夢に見た日本の山々を目前に、佐世保湾で一カ月も留め置かれました。

引き揚げて来てからも生活苦の連続でした。あらゆる仕事をしました。造船所の工員、そこでは鉄工所の鉄板を切断するための元になる木型工をしましたから、大工仕事を覚えました。専門の大工でないと扱えない炭壺で、長い直線を引くようなこともできるようになり、後のことですが、バラックとはいえ、自分の住む家を、免許の要る電気工事、水道工事以外は全部自分でやって建てたものです。他に、映画館の看板屋を永くやりました。その映画館では臨時でストリップショウの幕引きもしました。鶏卵の行商、闇屋と、「犬洗い一匹百円」ではありませんが何でもやりました。

そんな中で健康を損なって結核になり三田などいくつかの療養所で療養しました。昔ですから、結核というのはそう簡単には直らない病気で、出たり入ったり、延べにすると二年くらいは寝ていたと思います。気胸療法といって、二枚の肋膜の間に空気を入れて肺を押しつぶすのです。それでも比較的軽かったので、半分は遊んでいるような感じでした。昔の療養所というのは、長期入院の人ばかりでしたから、そこが一つの社会であり、入院生活が人生だというような風で、いろんなサークルがあって、私がキリスト教に初めて触れたのも療養所でした。指導してくださったのは、後に枢機卿になられたと聞くカトリック夙川教会の佐々木哲二神父、毎週バイブルクラスをしてくださっていたフリーメソジスト(当時は日本キリスト教団)三輪教会の稲村牧師、実は後で知ったのですが、この稲村先生は同じ播州地区、山崎教会の日下部先生のお連れ合い、愛子先生のお父様でした。また、マルクス主義に接したのも療養所ででした。患者たちだけの共産党細胞までありました。さらに絵を書いたり、俳句を作ったり、ヴァイオリンやマンドリンを弾いてみたりもしました。俳句は本格的にやりましたから飯田蛇忽門下の弓削鴻(ユゲオオトリ) が主催する山脈(ヤマナミ)俳句会の同人になりました。また、演劇のサークルもあって、私たちはそれを「水泡座」などと呼んでいました。シェークスピア劇をやったり、フランス喜劇のモリエールを作り替えて、その脚本は私が書いたのですが、たとえば「心ならずも医者にされ」なんていうのを上演したりもしました。ゴーリキーの「どん底」も脚色しましたが、これは上演にはいたりませんでした。とにかく、それまでまともに学校へ行っていなかった私にとって療養所は学校のようなものでした。ただ面白可笑しい生活だっただけではあ
りません。当時結核は「死にやまい」でもありましたから、親しくしていた人々が次々死んで行くのにも立ち会わねばなりませんでした。その点でも療養所は学校それも人生の学校であったと言えるでしょう。

親との連絡も取れ、多少の余裕もできて、学校へ戻ろうとしましたが、悲しいことに中国で敗戦、旧制中学の3年生の夏、学校はなくなっていました。当時新制高校になっていましたが、その受験資格がないのです。定時制なら入れてやるとのことで、昼間働いている人たちと一緒に1年間夜の学校に行きました。その後大学入学資格検定試験を受けて資格を取り、大学へ進むことができたのですが、無理を重ねた後でしたから、たちまち躓きました。今言う不登校です。その間に教会へも行くようになり、日本キリスト教団明石教会で福井邦蔵牧師から洗礼を受けました。大学のほうは転部や転校、中退を繰り返しました。血の気が多いものですから、ある冤罪殺人事件の被告を助ける運動にのめり込んで勉強がお留守になったせいもあるのです。これは最高裁まで行って負けました。

その時の事件をヒントに推理小説『甘い冤罪』を書きました。1969年第35回オール読み物新人賞の、多くの中から選ばれた4~5篇の候補作としてノミネートされましたが、昨年なくなった西村寿行氏の『犬鷲』に新人賞を奪われてしまいました。後にヴァイオレント作家と言われた西村寿行ですが、その時の作品は格調の高い清楚なものであったと記憶しています。新人賞が取れなかったのは残念でしたが、選者の一人であった新田次郎先生の選後評で、「努力賞をやりたい作品だ」と言っていただけたのは嬉しいことでした。その後も努力はしたのですが、その時の作品を超えるものが書けないでいます。

そんな、なんやかやで、高校講師からやがて牧師になりました。そして、高砂教会に赴任しましたが、教団の戦争責任告白問題、万博キリスト教館出展問題などで、教団、教区にたてついて、牧師で残ることは補完物になることだと、教会を辞め、住民運動に埋没しました。入浜権運動は瀬戸内の明るさとロマンを感じさせるものでしたが、PCB焼却反対運動は、行政や企業の人と怒鳴り合うような激しい運動でしたから、疲労困憊、自分の人間性もおかしくなると思うようになりました。本気でなかったのですが、海外へ逃避したいようなことをつい口にしたため、K新聞のS記者に「はアメリカに永住するらしい」と書かれてしまって、実際にそれに近いことをせざるを得なくなり、改めて英会話を習い英検を受け、日本語教師の資格を取り、マレーシア、オーストラリアでしばらく暮らしました。オーストラリアではパース市にある西オーストラリア大学で教えました。言葉が分からなくてストレスのたまりがちな陽子のためを思い、私たちの母教会明石教会と同じ傾向のコングリゲーショナルチャーチ(会衆派教会)を探し出しました。それはパース市の郊外のユーカリの森の中の小さな教会で心の安まる暖かい教会でした。阪神大震災の前の年、やっと戻ってきて曽根教会で教会生活をしていて、再び元の牧師に戻り、同教会牧師を経て、現在加古川東教会牧師になっているというわけなのです。しかし、紅葉マークの後期高齢者ですから、そろそろ隠退することを考えています。

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